十ノ蝕 月影(麻生優雨)
朧月館を後にした僕は、病室で見つけた鍵を手掛かりに乙月家を訪れた。
ここは母さんが生まれた家だ。
ここで母さんは両親と…兄と暮らしていた。
静まり返った家の中はどこか物悲しい雰囲気が漂っている。
ふと庭に目をやると、幼い頃の思い出が唐突に甦った。
庭で遊んでいた雫が転んで泣いている姿とそれを慰める自分。
懐かしい思い出だ。
雫はもう憶えていないかもしれないが…。
あの頃は父さんの仕事が忙しかった事もあって、いつも二人一緒にいた。
お互いに支え合って生きていた。
例えるならば、雫は僕にとっての太陽だった。
僕という月を照らしてくれるあたたかい太陽の光。
お互いを照らし合うように、二つの音が重なり響き合うように、共鳴していた。
それがとても心地良くて、安心できた。
でも今は……例えるならそう、不協和音のような音を奏でているのだろう。
掛け違えたボタンのように、何かが歪んだまま異なる音を奏でている。
「音…か」
ぽつりと呟いたとき、頭の中を懐かしいフレーズが過ぎった。
幼い頃に聞いた古いオルゴールの音色。
母さんがとても大切にしていた物。
二つの音が響き合ってとてもきれいだった。
いつしか僕の中の音は少しずつ変化して、雫の音と響き合うことはなくなった。
僕の音は今、きっと怜の音と響き合っているのだろう。
それが悪いことだとは思わないけど、もう雫の音と響き合うことはないのだろうか。
このままずっと掛け違えたまま、重なることもなく、離れていくのだろうか…。
それが成長というものなら仕方がないし、わがままを言ったところでどうなるものでもない。
でも…この胸に広がる穴はどんどん深く、暗く堕ちていくようで怖い。
庭から視線を戻した僕は、廊下の真ん中に立つ人影に気づいて思わず足を止めた。
窓から差し込む月光に照らされた横顔…月を見つめる雫の瞳は哀しそうに揺れている。
「顔が…思い出せない……」
ふっと闇に溶け込むように消えたその跡には、古い日記の断片が散らばっていた。
"日記の断片"
七月三日
祭が近づくにつれて島が騒がしくなってきた。
灰原院長たちに気づかれないように、本土で暮らす弓彦おじさんと連絡を取るのは難しいが、もはやこの島に僕達の味方はいない。
何としても詩織を救わなければならない。
それが父さんとの約束でもあるし、たった一人の家族を失いたくない。
父さんが亡くなってからも弓彦おじさんは度々島を訪れて僕達を気に掛けてくれたから、きっと力になってくれるはずだ。
蝕の巫女である葉月たちも島を出る決心をしたようだし、もう後戻りはできない。
七月十二日
弓彦おじさんと連絡が取れた。
全ての事情を理解した上で、脱出の手配をしてくれると約束してくれた。
島を出てもしばらくは安心できないだろうが、落ち着いたらどこか遠くへ…島の名前さえ届かない場所へ詩織を連れて行こう。
そこで一からやり直せばいい。
父さんたちの遺骨を残して行くのは気が引けるが、詩織を救う為ならきっと理解してくれるはずだ。
どんなことをしても、詩織は僕が守る。
「これは…叔父の……葵の日記なのか…?」
麻生弓彦は叔母の母方の伯父だ。
祖父の友人で麻生家と乙月家は昔から交流があったと聞いている。
麻生家はずっとこの朧月島で暮らしてきたが、伯父は学生の頃から島を出て本土で暮らしていたという。
伯父は僕がまだ物心つく前に他界してしまったのであまりよく憶えていないが、大らかで優しい人だったことはなんとなく憶えている。
父さんに似た大きくてあたたかい掌で、僕の頭をなでてくれた。
でも伯父はいつも…どこか哀しそうな笑みを浮かべていた。
大切な何かを失ってしまったかのように。