九ノ蝕 弦月(黒澤怜)
「深紅、落ち着いた?」
病室のベッドに座った深紅は、まだ少し顔色は悪いけれど、先程よりは落ち着いたように見える。
「すみません、怜さん…」
申し訳なさそうに頭を下げる深紅に、私は苦笑を浮かべて首を振った。
「巻き込んだのは私なんだから無理しなくていいのよ。…私は少しこの階を調べてみるわ。深紅はここで休んでいて」
「…わかりました。気をつけて下さい」
私は深紅に見送られながら病室を後にした。
三階は全て病室になっているようで、深紅が休んでいる部屋の他にも三つ部屋がある。
その内の一つ、310神去月と書かれた病室で真新しいメモを発見した。
内容からすると、優雨の従妹の海咲さんが書いたものだろう。
"海咲のメモ"
母さんが私にずっと隠したがってた秘密、それがこの島に来てようやくわかった。
朧月島に伝わる古の儀式…母さんはこの島の巫女だった。
円香や流歌、鞠絵の母親、そして詩織叔母さんも巫女だった。
母さんは父さんにも島のことは話していなかった。
でも、優雨さんは知っていたはず。
じゃなきゃ朧月島の話をしただけであんな反応はしない。
何度尋ねても優雨さんは何も答えてくれなかったけど、きっと知ってる。
島に入ってから頭痛が酷くなってる。
流歌のあの顔を見てから、だんだんと思い出せなくなってるような気がする。
気を抜くと全て忘れそうで怖い。
呼ばれてる…そんな気がする。
「巫女…。やっぱりあの日記に書かれてた名前は…」
婚約した時に聞いた話では、優雨のお母様は身寄りを亡くされて麻生家に養子に入った方で、海咲さんの母親である叔母様とは血が繋がっていないらしい。
それにしても、優雨は朧月島のことを知っていたの?
でも…それならどうして優雨は何も言わなかったのかしら。
湧き上がる疑問と不安を抑えながら、私は元いた病室に戻って深紅にメモのことを伝えた。
「でも…ここにメモがあったなら、海咲さんはまだこの朧月館にいるかもしれませんね」
「そうね。とりあえず近くの部屋は全て見回ったけど、他には特に気になる物は見当たらなかったわ」
「じゃあ後は、北の特別病室だけですね…」
「ええ」
回復した深紅を連れて北にある特別病室を訪れた私は、扉を開けてぎょっとした。
最初に目に飛び込んで来たのは、床を埋め尽くす大量の紙。
それだけでも異様なのに、壁にはたくさんの文字が刻まれていて、ところどころ血のような染みがついている。
おまけにベッドには拘束具のような物がついていて、窓には頑丈な鉄格子が嵌められている。
その異様な部屋の有様に、私達は無言で顔を見合わせて恐る恐る中に入った。
すると、深紅が何かを見つけて私を呼んだ。
「怜さん、これ…」
"特別病室のメモ"
やっと逢えた。
ずっと忘れていた名前を、思い出した。
二度と忘れないように刻んでおこう。
もう誰にも渡さない。あの男にも。
これからはずっと一緒だ。ずっと…
メモはそこで終わっていたけど、文字は酷く歪で禍々しさを感じてしまう。
壁に刻まれた文字もかろうじて読み取れるのは「アイタイ」「アイツが奪った」「消える」「かえせ」という言葉のみ。
そして、扉の内側に刻まれた文字を見て、私は背筋が凍った。
真新しいその傷跡は、ただ一つの名前を示していた。
「雫……」
その名前だけがまるで呪いのように扉を埋め尽くしていた。
胸騒ぎがまた大きくなっていく。
「…先を急ぎましょう」
私は嫌な予感を振り払うように病室を出てエレベーターのある広間へ向かった。