八ノ蝕 朧
初めてあの人に会ったときから、なんとなく気づいてた。
お兄ちゃんはこの人のことが好きなんだって。
…きっと私よりも。
いつか別れが来ることくらいわかってた。
いつかはお兄ちゃんに新しい家族ができて、その家族と一緒に未来を紡いでいくんだって。
それがお兄ちゃんの幸せなんだってわかってたよ。
そして……その為には、私が邪魔なんだってことも……。
「…ここは……?」
目を覚ますとそこは、見覚えのないおかしな部屋だった。
壁にはたくさん引っ掻いたような傷がついていて、走り書きしたような紙切れが足場もないほど散らばっている。
ベッドには拘束具のようなものがついているけど、ここは病室なのかな?
部屋の中を見回していた私は、ふとベッドの下に落ちてるノートに気づいて、手を伸ばしてそれを引き寄せた。
"誰かの日記"
また月が出てる。
月を見ると、右目がいたくなる。
もう見えないはずなのに、何かが見える。ざわめく。
頭の中がとけそうになる。
色々なものが薄れて、消えていく。
忘れないように書き残しても、いつの間にか忘れてる。
何度も考えてるのに、名前が思い出せない。
僕の大切な妹の名前が、どうしても思い出せない。
ずっと一緒にいたのに、どうして…
昨日まで覚えていたことが、今日はもう思い出せない。
きっと今日のことも、明日になったら消えてしまう。
全部消えてなくなったら、僕の存在も消えるのかもしれない。
誰も僕を憶えていない。
僕も誰も憶えていない。
それなら僕はどこに存在しているのだろう。
でもまだ、残ってる。
名前はなくしてしまったけど、××はまだ僕の中にいる。
失いたくない。
××のことまで忘れてしまったら、僕は本当に独りきりになる。
独りはさみしい。
ひとりはいやだ。
あいつのせいだ。
あの男が××を連れて行ったから。
またあいつが××を奪おうとしてる。
僕の中の××まで奪おうとしてる。
そんなことはさせない。
僕の中の××だけは誰にもわたさない。
「これってもしかして…あの人の日記…?」
頭に浮かんだのは、右目が包帯で覆われていた彼のことだった。
名前は知らないけど、私にとてもやさしくしてくれた。
あの人にも妹さんがいたんだ。
でも、思い出せないって書いてある。
どうして忘れてしまったんだろう。
こんなにも大切に想っているのに…。
日記の文章に目を通すほどに、あの人の哀しみや苦しみが伝わってくる。
大切な人のことを忘れてしまうなんて、どれほど辛い思いをしているんだろう。
「…あ…!」
そこでようやく私は独房で彼に会ったことを思い出した。
彼を助けようと地下の独房へ行って、そこで誰かに襲われて気を失ったんだ。
あの人は無事なの?
「あれ?なんで開かないの?」
独房へ行こうと出口の扉に手を掛けたけど、何故か開かない。
鍵は見当たらないけど、手応えがある。
もしかして反対側から鍵が掛けられてるの?
「他に出口は…」
私は開かない扉から離れて窓に近寄った。
でも窓には格子がついていて出られそうにない。
それにここはとても高い場所にあるみたい。
三階…それとも四階?
格子がなかったとしてもこんな高い場所からじゃ出られない。
深いため息をついて顔を上げると、空に浮かぶお月様が見えた。
雲に遮られることもなく煌々と輝いている。
「綺麗…」
月を眺めていると何か思い出しそうになる。
忘れてはいけない大切な何かを忘れているような気がして、胸が苦しくなる。
ぼうっと魅入られたように月を見ていた私は、扉の開く音がして後ろを振り返った。
「!」
入って来た人と目が合ってお互いに驚きの表情を浮かべる。
その人も部屋の中に人がいるとは思っていなかったみたい。
私も驚いたけど、怖い人じゃなさそう…。
「君は…?」
「えっと…私……」
自分の名前を伝えようとして、私は言葉を詰まらせた。
生まれてからずっと毎日耳にしていた名前なのに思い出せない。
学校のテストにだっていつも書いてるし、家のポストにだってお兄ちゃんと私の名前が…。
「私……?私は……だれ………?」
考えても、考えても、わからない。
頭の中がとけていくみたいに、ぐるぐる回ってる。
「どうして思い出せないの?……私……私は……だっていつも……っ」
私は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
急に自分が怖くなった。
私は誰なのか、どこに住んでいるのか、何もわからない。
思い出せない…。
「お兄ちゃん……っ」
助けて欲しくて私は何度もお兄ちゃんのことを呼んだ。
このままでいたら自分が消えてしまいそうで怖かった。
とても怖かった。
「朧…」
ぽつりと頭上で呟かれた言葉に、私は顔を上げた。
そこでようやく私は、自分が泣いてることに気づいたけど、それどころじゃなかった。
すがるようにじっと見つめる私に、その人は膝をついてそっと私の頭をなでてくれた。
「大丈夫だ、落ち着いて」
穏やかな声が頭の中に響いて、少しだけ楽になる。
「あの…私……何も思い出せなくて……」
「わかっている。おそらくそれは"朧"の症状だ」
「おぼろ……?」
その人は静かに頷いて、私の手を引いて立たせてくれた。
「ひとまず下へ下りよう。ここは…空気が悪い」
「……はい」
他にどうすることもできなくて、私は素直に頷いてその人の後について行った。