七ノ蝕 縁(麻生優雨)
母さんが亡くなったとき、父さんが言ったあの言葉が今でも忘れられずにいる。
いっそ何もかも忘れられたら楽になれるのに、心のどこかで忘れたくないと思っている自分がいる。
どんなに辛くても…自分を苦しめるだけだとわかっていても、忘れたくない記憶がある。
それを失くしてしまったら、きっと…もう元には戻れない。
……母さんのように。
だから雫には何も話さなかった。
それでいいと思っていた。
僕が口を閉ざしていれば雫は何も知ることはないと。
でも、籠の鳥だっていつかは自分で扉を開け大空へと飛び立つ。
果てしない自由を目指して…。
僕はただ、それが怖かっただけなのかもしれない…。
麻生記念室から廊下に出た僕は、窓の向こうに立つ人影に気づいて目を見開いた。
「雫…!」
両開きの扉を開け放ち中庭に飛び出す。
月が映り込み幻想的な光を放つプールの前に一人の女性が佇んでいる。
その姿があまりにも儚くて、まるで今にも月に帰ろうとするかぐや姫のように見えた。
アーチを潜り抜け佇むその人の肩に手を伸ばすと、一瞬脳裏をある光景が過ぎった。
手を繋ぎながら森の中を走る男女。
二人に迫る足音と狂気。
そして、繋がれた手が離れた瞬間、たった今目の前にいた人影も忽然とその姿を消していた。
後に残されたのは、焦げ跡のついたノートの断片。
"焦げ跡のついた日記"
今年はいよいよ私達が巫女になる年です。
十年前に巫女のお役目を告げられたときから、私はこの日の為だけに生きてきました。
亡き祖母がそうだったように、私も巫女としてお役目を果たさなければ。
それが島の為であり、同じ苦しみを背負う人々を救う唯一の方法なのだから。
兄さんは昔から私が巫女になることを反対していたけど、私が無事に巫女のお役目を果たせば兄さんも苦しみから解放されるはず。
だから、これでいいの。
それが私の宿命。
…そこで日記は終わっていた。
何故か最後の一行が頭から離れなくて、僕は手の中のそれをプールに放った。
初めから何もなかったように、忘れたい一心で…。
水面に浮かんだ紙切れは風に揺れ波に流され、やがて静かに水の底に沈んでいった。