第六章 厄醒し編
□厄醒し・前半

「来ないで……お願い……兄さん……!」


全身に衝撃が走ったかのように勢いよく起き上がった深紅は、すぐ近くで小さな悲鳴が聞こえて反射的にそちらを振り返った。


「怜…さん?」


驚いて目をぱちくりさせていた怜は、ほっと安堵の表情を浮かべてため息をついた。


「びっくりしたわ。うなされてるみたいだったから起こそうと思ったのに、深紅ったら急に起き上がるんですもの」


「え…」


はっとなって自分の体に目をやるが、どこにも異常は無い。


両手にも両足にも穴などないし、痛みもない。


「深紅、どうかしたの?」


茫然とした様子で自分の両手を見つめる深紅を、怜は心配そうに見つめる。


「そうだ、怜さん!兄さんは!?」


「え?」


「兄さんは今どこに?無事なんですか!?」


今にも泣きそうな顔ですがりつく深紅を見て怜は動揺する。


「何かあったの?」


「私、鎮女たちに杭で打ちつけられて…前にも同じことがあって…それで兄さんが…っ」


焦れば焦るほど言葉が上手く出て来ず、深紅は頭を抱えて俯く。


その直後、扉をノックする音がしてそっと扉が開いた。


「二人とも、どうかしたの?声が聞こえたから、何事かと思って」


「優雨、それが…」


怜が口を開くより前に、深紅はベッドから下りて優雨に駆け寄りその腕を掴んだ。


「優雨さん!兄さんは…兄さんは今どこにいるんですか!?」


「え?真冬ならたぶん仕事場にいると思うけど…。昨日すれ違ったときに、まだ仕事が終わらないから今日は泊まるって言ってたし」


「じゃあ、兄さんは無事なんですか?」


尋常ではない深紅の様子に優雨は困ったように怜に目をやるが、怜も事情が呑み込めず困った顔をする。


「何なら電話してみようか。この時間なら仮眠も取ってないだろうし」


ひとまず落ち着き深紅が着替えを済まして一階に下りると、電話の前に優雨の姿があった。


「うん。そうなんだ。何だか酷く慌てていて…。…そう、でも一体どうしたんだろう」


階段を下りて来た深紅に気づいた優雨は、そっと受話器を耳から離して深紅にそれを渡した。


受話器を受け取った深紅は、かすかに震える手でそれを耳に当てた。


「もしもし…」


「ああ、深紅?今、優雨から聞いたんだけど…何かあったのかい?」


「兄さん…?」


受話器から聞こえて来たのは紛れもなく兄・真冬の声だった。


いつも通り、落ち着いた穏やかな声。


兄の声を聞く内に深紅は冷静さを取り戻し、先程まで感じていた不安と恐怖も薄れていった。


「その…ごめんなさい。何でもないの。私、何か夢を見てたみたいで……」


「そう?何もないならいいけど…。それじゃあ仕事に戻らないといけないから、また後で」


「うん。本当にごめんなさい」


そっと受話器を置いて、深紅は深いため息をついた。


とても夢とは思えない程リアルで恐ろしい夢だったのだが、真冬には何の異常も起きていないようだし、自分の体にも刺青など刻まれていない。


「…やっぱりただの夢だったのかな」


ぽつりと呟いて深紅は、窓から差し込む朝日を見つめた。

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