第六章 厄醒し編
□厄醒し・後半

「こ、ここは…どうしてこんな所に…」


目の前の光景に僕は自分の目を疑った。


見覚えのあるお堂に季節外れの桜、どんよりとした雲に覆われる満月と規則的な水車の音。


「氷室邸…」


茫然としたまま何度も辺りを見回すが、そこは紛れもなく二年前に訪れた氷室邸だった。


「…深紅?高峰先生?…二人とも一体どこへ…」


大きなサイレンの音を聞いて頭が痛くなり、そのまま気を失ってしまったようだが、一体いつ氷室邸に来たというのか。


二年前の事件でもう二度とこの屋敷には近づかないと決めたのに…何故ここにいるのだろうか。


「あれは…」


ふと顔を上げると、逢魔が淵の方へ消える人影が見えた。


ちらりとしか見えなかったが、あの藍色の着物には見覚えがある。


「……」


僕は少し迷った後、人影を追って逢魔が淵へ向かった。


ぼんやりと灯る灯篭の向こうに、自分と瓜二つの姿をした男性が立っている。


「…清純…」


ぽつりと呟いて僕達は向かい合った。


服装が違うだけで、まるで鏡に映った自分自身を見ているかのようだ。


清純は何を言うでもなく、ただじっと僕を見つめたまま左手を伸ばした。


「何を…伝えようとしているんだ…?」


訝しげに思いながらも、右手を伸ばし、清純の掌に自分の掌を合わせた。


「!、ここは?」


一瞬目の前が真っ白になり、気がつくとそこはどこかの森の中だった。


いつ着替えたのか着物を着ており、森の中を走ったのかあちこち擦り傷だらけで息が上がっていた。


困惑しながら辺りを見回していると、森の奥から松明を持った村人達がやって来て、あっという間に僕を取り囲んだ。


『逃がすものですか…!』


一人の女性が村人達の前に立って僕を睨みつける。


『貴方は神子なのよ。神子が逃げ出したりすればいったいどうなるか、わかっているでしょう!』


「神子…?」


僕はただ茫然と女性を見つめることしかできなかった。


でも女性の顔には、どことなく見覚えがある。


『貴方は蛇神の器を持つ神子。その運命からは逃れられないわ』


「…運命…」


何故かその言葉だけが頭から離れなかった。


まるで自分の魂に刻まれているかのように…。


「貴方がおとなしく自分の運命を受け入れるのなら、捕らえた二人も命までは取らないわ。…でも、貴方が逆らうと言うのなら、即刻あの二人の首を刎ねてしまいましょう」


女性が苦々しい顔でそう言った直後、銀の刃が闇を切り裂いた。


赤い血飛沫と共に悲鳴が上がり、村人達に動揺が走る。


そこに立っていたのは、刀を手にした十徳姿の男性だった。


男性は眉一つ動かさずに取り押さえようとした村人達を一刀のもとに切り伏せて、刀に付着した血を振り払った。


『あ、あなた…一体何を…』


さすがの女性も目の前で起こった惨劇に動揺を露わにし後ずさる。


男性は混乱して動けずにいる村人達の姿を見回した後、腰を抜かして座り込んでいた僕に目をやった。


「し…っ」


名前を口にする前に、男性は僕から視線を外し再び刀を振り上げた。


未だに状況を理解し切れていないが、男性が自分に伝えようとした意思ははっきりと理解した。


"逃げろ"


僕は立ち上がると同時に背を向けてその場から逃げ出した。


何が起こっているのかわからない。


自分を捕まえようとする村人達のことも、何故自分が追われているのかも。


けれど、一つだけわかることがある。


"彼"のことは信じられる、と。


「うっ…」


体に鈍い痛みを感じて起き上がると、そこは商店街近くの川辺だった。


しかし澄んでいたはずの川の水は、血のように赤く染まっていた。


「これはいったい…」


辺りを見回すが川辺に人影はなく、深紅の姿も高峰先生の姿もない。


「赤い水…これはまさか…っ」


嫌な予感がして近くの階段を駆け上がり商店街に足を踏み入れると、そこには変わり果てた村人たちの姿があった。


狂気じみた悲鳴を上げて店の前を通り過ぎる中年女性。


犬のように地べたを這いずり回りながら店の角へ消えていく子供達。


何か訳のわからない事をブツブツと呟きながら鉈を片手に佇んでいる初老の男性。


その誰もが全身に青い刺青を刻み込み、虚な眼をしている。


目を疑いたくなるような光景がそこには広がっていた。


でも僕は得体の知れない恐怖を感じながらも、どこか冷静な自分がいることに気がついていた。


「屍人…」


ぽつりと呟いてから、僕はもう一度商店街を見回した。


昔見た"ありえないもの"と同じ光景が広がる商店街を…。

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