昭和四十二年、夏。 蝉の鳴き声が盛んな頃、山中の綺麗な小川のそばに秋山百合はいた。 赤いワンピースに麦藁帽子を被って、近くの岩に腰掛けて小川の水を足でバシャバシャと遊んでいた。 麦藁帽子から覗く栗色のふわりとした髪が、風に揺れて、百合は少しだけ顔を上げた。 「おーい、百合、帽子ちゃんと被ってろよー」 少し離れた場所から少年の声がして、百合はずれた帽子を両手で直した。 そっと空を見上げれば、今日は文句無しの快晴。 暑いことは暑いが、小川の辺りは空気が澄んでいて心地良かった。 百合はひょいと岩から下りると、木のそばに立っている少年のもとへ駆け寄った。 「何してるの、お兄ちゃん」 そう尋ねると、少年はにいと笑って木の少し上の方を指差した。 「ほら、あそこにカブトブシがいるだろ」 しかし百合にはよく見えなかった。 すると少年は百合を抱き上げて肩車をした。 「どうだ?見えたか?」 落ちないようにしっかりと支えて、少年が言う。 百合はもう一度木を見上げて、あ、と声を漏らした。 少年が指差した辺りに二匹のカブトムシがいる。 「昨日来たときは一匹しかいなかったんだ」 少年はどこか嬉しそうに言って、百合を地面に下ろした。 「おともだち…できたんだね」 百合が言うと、少年はそうだなと言って笑った。 少年の名前は、天倉螢。 今年で11歳になる百合の叔父だ。 百合は螢の姉の娘で、都会で生まれてすぐ両親と共に稲荷村へやって来た。 余所者として村人たちから厄介者扱いされている百合にとって、叔父の螢だけが唯一の遊び相手であり心を開ける人物であった。 村には螢よりも年の近い子供が何人かいたが、話すことは勿論、近づくことさえできなかった。 百合自身も家庭の事情から引っ込み思案になり、人見知りが激しく、なかなか他人に心を開くことがない。 そんな百合にとって一番幸せな時間は、螢とこうして遊んでいる時だった。 家にいるときは怯えて声も出なくなるが、ここで遊んでいるときは自然と笑顔が浮かび心も弾む。 ずっとこの時間が続けばいいと、そう思っていた。 no 次へ |