昭和58年、夏。 じりじりと焼けるような暑さの中、雛咲真冬は開いていた手帳を閉じ、横断歩道を渡った。 駅から歩いて数分の所にある小さな喫茶店。 昼食時や仕事帰りに寄るのに丁度良い店だが、今日は人と待ち合わせをしていた。 朝食には遅く、お昼にはまだ早い中途半端な時間の為か、店の中は空いていた。 入ってすぐ店内を見回すと、一番奥の窓側の席に見知った顔があった。 向こうもこちらに気づいたようで軽く頷く。 それを確認して真冬はコーヒーを頼んで席へと向かった。 「すいません、高峰先生。お忙しい中呼び出したりして…」 向かいの席に座って頭を下げると、恩師であり有名なミステリー作家でもある高峰準星がカップを置いて笑みを浮かべた。 「気にすることはない。ようやく仕事も一段落したところだ。…それに、久しぶりに君の顔が見れて安心したよ」 真冬はもう一度軽く頭を下げ礼を言った。 そこへ頼んだコーヒーが運ばれて来て、カラカラに乾いた喉を潤してから真冬は口を開いた。 「電話でもお話したように、どうしても先生にご相談したい事がありまして…」 高峰はわかっていると言うように、深く頷いた。 「例の事件のことだろう。…あれからもう一年か」 「はい……」 真冬は少し目を伏せて俯く。 「先日、病院の方から連絡がありまして…天倉静さんが亡くなったそうです」 「静……確か、失踪した姉妹の母親だったか」 「はい。娘さんが小学校に上がる前からずっと長期入院していたそうで、事件以来、食事もできないほど病状が悪化し、そのまま回復することなく亡くなったと…」 「無理もない…。弟と娘を失い、夫も早くに亡くしていると聞いていたからな」 「…担当の医師の話では、数か月前からだんだんと起きる時間が短くなり、最後にはもうほとんど眠ったままの状態だったそうです」 「そうか…」 真冬はしばらく黙り込んだ後、鞄から手帳を取り出して開いた。 「それで、先日そのことで友人と会ったんですが、その時に少し気になる話を聞きまして…」 「気になる話?」 「螢と二人の娘さんの失踪事件のことを、地元では鬼隠しと呼んでいるそうです」 「鬼隠し…?それは初耳だな」 「はい。意味は所謂神隠しと同じだと思われますが、地元にはその鬼隠しに関する伝承が多く残されているようです」 「ほう…それで、その伝承というのは?」 高峰が尋ねると、真冬は手帳に目を落として、それから小さく首を振った。 「教えてもらえませんでした。…彼は僕よりも螢とは付き合いが長く、幼馴染だと聞いていましたから。失踪した娘さんとも面識があったらしく、例の失踪事件のことをひどく気に病んでいるようで…」 「ふむ……しかし、鬼隠しというのは非常に興味深い。氷室邸にもそんな伝承は残されていなかったからな」 「はい。それで…今度の日曜に、調べに行こうと思っているんです」 「例の事件があった稲荷村へかね?」 真冬は静かに頷いた。 「どうしても知りたいんです。どうして螢が失踪したのか。一体どこへ行ったのか。…彼の身に何が起きたのか。真実を…知りたいんです」 「……」 高峰はしばらく黙った後、深く息を吐いて顔を上げた。 「わかった。では、私も一緒に行こう」 「え?」 真冬は驚いて高峰を見る。 「一人より二人の方が調査もはかどるだろう」 「けれど…いいんですか?もしかしたら何日か泊まり込むことになるかもしれません」 高峰は笑って頷く。 「構わんよ。急ぎの仕事も入っていないし、伝承とやらにも興味がある。迷惑でなければ、私も同行させてもらいたいのだが…」 「先生……ありがとうございます」 真冬はそう言って深く頭を下げた。 no 次へ |