荒々しくドアが開く音に、僕の思考は否が応でもそちらに向いた。ずかずかと廊下を向かってくる愛しい人。薄く淡く朱にそまった頬と覚束ない足取り。また飲んできたんだ、と苦笑する。 ワンルームしかない白竜の住処に僕は勝手に居着いている。特に邪魔にはなっていないようだし、僕は僕で一日中ぼーっとしているだけだし。 ベッドに身を投げ大袈裟なほど大きなため息を吐く。どうしたの、と聞くと、少し時間が経ってからか細い声で答えが返ってきた。 「……ふられた」 「君は本当に恋愛に向いてない」 「結婚は難しいな」 細い、けれどしっかりした体がベッドの上で小刻みに揺れた。今時直球な男には女は振り向かないのだ。しかし三週間か、白竜にしては頑張ったほうだと思う。 「何笑ってんのさ」 「俺ももう23だと言うのに、成長しないものだ」 「…立派になったよ君は。でも全くスーツ似合わないよね。ホストみたい」 「どこで覚えたんだそんな言葉!」 「昼ドラ」 そう、十年経った。僕らが運命のしがらみから解き放たれてから。白竜はすっかり大人びて同性から見ても惚れ惚れする男性になった。性格はあまり変わっていないので恋愛対象にはされていないらしいが。 それにしても酒が入っているせいかご機嫌だな。 「安心する」 「…部屋に帰ってくると、ってこと?」 「それもあるが…。帰ってきてお前がいると、落ち着くんだ」 「守護霊なんだね僕は」 「そ、そうだったのか…!」 いや、そんなに納得したって表情されてもね…。白竜はもぞもぞとベッドの中に潜り込み、そのまま動かなくなった。ちょっと、着替えてから寝たら?その声ももう届いていないようだった。ソファから立ち上がり部屋の明かりを消そうとスイッチに触れる。月明かりだけが部屋を青白く照らしていた。布団からは白竜の後ろ髪だけが出ていて、何だか可愛らしかった。 「十年、か」 僕は何一つ変わらない。そりゃあそうだ。この世のものではないし。拒絶された個体だし。この時間帯は好きだけどどこもかしこも静寂に包まれてつまらない。何をして過ごせというのだろう。自分の手を見た。あの頃と変わらない。洗面所に行って、鏡の前に立ってみた。 何処にも自分の姿は映らなかった。 日が射し込んで、暖かい1日が始まった。むくり、と白竜が無言でベッドから這い出してくる。おはようと言っても返事は絶対に来ないので言わない。髪を結ったまま寝たのでとんでもない寝癖がついている。 「……。」 「ねえ、こんな時間に起きて会社には行かなくていいの?」 「…休みだ」 「そう。」 酔いの醒めていなさそうな顔でふらふらと洗面所に向かう白竜。暇なのでついて行くと鏡と睨めっこしていた。何やってんだか…。それと同時に彼との間に妙な境界線を感じた。僕は白竜に寄りかかるようにして強引に白竜のいた場所を陣取る。白竜は体に力が入っていない為か、すぐに力負けした。 白竜の気力のない顔だけが鏡に映し出されている。鏡の前を占領しているはずの僕はやはりどこにも映っておらず、昨夜のことは悪い夢ではなかったのだと思い知らされた。白竜が僕の頬に触れて、鏡を見た。 「この前まで、お前は鏡に映ってなかったか…?」 十年前、白竜は僕の正体を知らずに共に戦っていた。でも白竜が島を出てから漂うようにして白竜の居場所に現れると、白竜はひどく驚いた顔をしていた。食事もとらず、風呂も入らない僕に流石に感づいたのか僕の行動に関して何も言わなくなった。 ある時、僕は彼に全てを話した。妹のこと、故郷のこと。白竜は僕のところまで歩いてきて僕を抱き締めた。とても驚いた。だって、彼はこんなことをするような人だとは思っていなかったから。 「触れることが出来て、本当によかった」 あの頃は僕と白竜にはほとんど体格差というものが存在していなかった。振り絞るような声が印象的だったのを覚えている。抱きしめられたのなんていつぶりだろうか。 自分を赦された気がした。とても幸せだった。 白竜を見守っていこうと、決めた。 白竜は朝食を作ったのにもかかわらずそのままベッドに寝転がって寝てしまった。僕はというと、先程の事実に戸惑っていた。僕の体に変化が起きているのだろうか。また手を見る。何も変わらない。変わらないでくれ。頼むから。 布団に顔を押しつけるようにして惰眠を貪る彼を見て、何故だかわからないが泣きそうになった。 ある夜も、白竜は飲んで帰ってきた。何でも上司に誘われ断れなかったのだそうだ。酒に強くない白竜は気持ち悪そうにしている。着替えを済ませ、すでにベッドに向かっている白竜を見て明かりを消そうとした。が、スイッチを掠めて指が壁をすり抜ける。もう一度押そうとした。が、駄目だった。何故、どうして。 ソファに身を落とす。完全に混乱しきっていた。月の全く出ない、闇夜だった。白竜は途中で起きてスイッチを消してベッドへ戻った。 それからは特に変わったこともなく、五年経った。白竜は更に大人びて、だいぶ余裕を醸すようになった。酒にも慣れたようで最近は酔っ払って帰ってくることもなくなった。 「ただいま」 「おかえり。…タバコくさ」 「俺じゃない!俺じゃないぞ!」 「知ってるよ」 何で慌てるんだろう。笑っちゃうね。白竜がそういうの嫌いな人だってちゃんとわかってるのに。 「バーってのは本当に混沌としたものだな…」 「疲れてるね…」 「上司にそろそろ結婚したらどうなんだと喝を入れられたのだ。余計なお世話だ…。」 もっと早く帰りたかったのに。と白竜が呟く。ため息をついてしゅる、とネクタイを解いた。時計を見ると日を跨いでいた。愁いを帯びた瞳が妙に色っぽくてどきりとさせられる。通りすがる白竜の手に触れた。ほっとする。白竜に触れることが出来なくなったら、この世界は無価値だ。 「どうかしたのか」 「…何でもないよ」 「そうか」 そう言って頭を撫でる。子供扱いしないでほしいのに(だって白竜より余程歳をとってる)、触れ合えるのが嬉しくて何も言えなくなってしまう。白竜の優しい瞳があの頃とはまるで違っていて。それでもあの頃が懐かしくなって。 あんなに細くて、不安定な彼はもうどこにもいないのだ。 「ねえ白竜」 「何だ」 「キスしていい?」 白竜は目を丸くしてこちらを見ている。相変わらず整った顔だな。 「…ああ」 ソファに二人分の重みが伝わる。僕には重さなんて存在しないけど、ソファは僕を拒絶しなかったから。唇を舐めると、僅かにアルコールの味がして顔をしかめる。舌先で唇に割り込み舌に触れた。激しく口内を荒らすこともなく、ただただ舌をつつき合うキス。触れていると、感じることの出来るキス。 「白竜は、大人っぽくなったね。」 「そうかもしれないな」 「綺麗になったね」 「それはどうだかわからんな」 「好きだよ」 「ありがとう」 自分でも呆れるほど陳腐な告白だ。けれど誠意に返してくれる彼はもう大人で。僕は大人に成れず。 「好きなんだ」 「俺もだ」 「…こんな体だけど」 「関係ないだろう」 シュウなんだから。抱き締めてくれた体は随分と大きくなった。けれど体温は変わらない。ありがとう。 「好き」 あれから白竜に触れることさえ出来なくなった。ありとあらゆるものが僕をあちら側に追いやってゆく。近頃は視界が白けるのだ。全てがぼんやりとして見える。 ソファだけが僕を存在として認めてくれていた。 白竜は毎日僕に触れようとしてくれる。けれどやっぱり上手くいかなくて、悲しい思いをさせてしまっていた。 そしてある日遂に泣かれてしまった。もうシュウに触ることは出来ないのかと。そんな白竜の顔さえはっきりとは見えず。慰めるために髪に触れようとしても、抱き締めようとしても、世界がそれを許さなかった。 自分の手を見た。ひどくゆがんで見える。涙がこぼれた。それさえも自分の手に触れることなく地面に落ちた。その光景に、また泣いた。 そして、白竜が僕を認識出来なくなった。朝起きた第一声が、シュウ、どこだ。だったのだ。ここにいるじゃないかと呆れた声を出した。最初は白竜の耳が遠くなったのかと思った。いくら大声を出しても、目の前に立っても、目線は合わないし声も届かない。絶望とは、このことを言うのだと悟った。 家の中を僕を探して動き回る白竜。見ていられなかった。出社する支度をしている白竜の背中が寂しい。 「僕は、ここにいるよ」 僕の声もぐわんぐわんと、人の出す声をしていなかった。どうして届かないの。 「ただいま」 「おかえり」 白竜は唇を噛み締めた。ソファに座る。すぐ近くにいるのに、冷たい空気が流れている。ソファに触れることは出来るんだけどな。 そうか、ソファか! 僕は白竜に唯一話しかけることの出来る方法を思いついた。 このソファは革製なので、爪で引っ掻けば跡が出来、それを繰り返せばその形に破れるだろうと思ったのだ。 文字を書けるかもしれない。白竜に、自分の気持ちを伝えられるかもしれない。 探せば触れることが出来るものも、まだあるかもしれない。僕は家の中を走り回った。唯一僕が触れることが出来たのは、錆び付いた鋏だけだった。世界から拒絶されかけたもの同士共鳴しているものがあったのかもしれない。 小さな鋏一つで革を削ることは至難の業だったが、白竜に気持ちを伝えることが出来るのならどうって事なかった。 何日か経って、ずたぼろの精神に身を削られ続けた白竜はなりを潜め始めていた。白竜はとっくに大人になっていた。精神的な回復が早い。もしかしたら僕が引き留めていたのかもしれない。白竜を連れて行ってほしくなかったのだ。引き剥がされたくなかったのだ。 だって、僕だって、彼と一緒に歳をとって、世間とか他愛のない話をしたりして。そんなことがしてみたかったのだから。 仕事から帰ってきた白竜がソファにどっかりと腰を下ろす。深い深いため息が漏れた。聞こえないだろうがお疲れ様、と言ってみた。僕の声はすっかりノイズに侵されていた。 白竜はテレビを付けるわけでもなく宙を見ていた。それに構わずせっせと鋏を動かす。ほとんど目が見えないので読める字かどうかは自分でも定かではない。それでも白竜に伝わることを信じて。 ふと白竜が小さく喘いだ。こちらを見ているようだった。震える手で、僕の彫った文字に触れる。気づいてくれた。 「そこにいるのか、シュウ」 いるよ、と精一杯叫んだ。ずっと君を見守っているよ。ずっと叫んでも君には届かない。けれど叫ばずにはいられなくて。 毎日彫り続けた。白竜は帰ってくるとずっとソファにいて、文字の羅列の完成を待っていた。時々話しかけてくれる。今日何があったのかだとか、やっぱり俺には結婚は無理だとか。何も返ってこないことはわかっているのに話しかけてくれる。 いよいよ目は見えなくなって、耳もよく聞こえなくなった。五感がほとんど働かない。もう少しだけ、つきあってほしい。この亡骸のために力を貸してほしい。気力だけで手を動かし続けて、やっと。短い文字の羅列が。 体を動かせない。部屋にあるものも、今では全く見えない。テレビの音も微かしか聞こえない。けれど白竜がばたばたと帰ってくる音も聞こえるし、白竜の気配は感じ取ることが出来た。 白竜はソファの前に立ち尽くしていた。と思う。動く気配がなかったから。文字を見たのか、白竜は泣き出してしまった。ああ、泣かせるつもりはなかったのに。 ごめん、と呟こうとしてはっとした。唇さえ動かせなかった。 「俺もだ…シュウ、おやすみ。今までありがとう。」 白竜は、もう僕がいなくても大丈夫。 (上でまってる。あいしてる) 未練がなくなると、成仏してしまうものなのだろうか。きっと僕はもっと白竜と仲良くなりたかったのだ。それはもう叶ってしまったから。 白竜の文字をさすりながら笑っている顔が見えて。全て真っ白になった。 それから、―――――――――――。 ―――――――――。 (いい加減お前も結婚したらどうなんだ?いい男なのに勿体無い) (結婚は…一生ないですね) (結婚願望がないのか?) (天国で待っている人がいるんで) |