小説 | ナノ






研黒、夜久黒の表現有










譲りたくないけど譲った。(おれはそんなことを言える立場ではなかったけれど)彼が幸せならそれで良かった。同時に彼の隣にいる人にかなわないことも知っていた。

おれが大学に進む頃にはクロと夜久さんはもう周りが感づくような関係になっていて、大人の雰囲気を帯びた恋がちらついていた。もしお前が煙草吸ったら、もう二度とお前には会えないわ。そう言って笑う夜久さんに絶対吸わねえから、と誓うクロは何だか、気のせいかとても頼りなかった。嫌われることが怖い素振りを見せて夜久さんに媚びているようだった。
そんなクロがとても嫌いだった。おれは勝手をはたらく我が儘なクロが好きだったから、誰かのために動くクロは見ていて吐き気がした。










クロは目立たないシンプルな指輪を左の小指にしている。シックな服を好むクロによく似合っていて、地味な印象の割にはその骨っぽい指に馴染んだ。おれはその指輪をした左手が好きだ。クロが時たまその指輪を愛おしげに見つめていることには気づいていたし、例の彼の右手に同じ指輪が光っていることも見て見ないふりをしていた。それらを直視する度おれの心にヒビが入り、それにテープを貼っていく作業。唯一の救いはおれとクロは同じ大学に入ったけれど夜久さんはもっと高いランクの大学に行ったこと。会える時間はどっこいどっこいだと云うことだ。けれどクロは気丈だったからそんなこと気にしていないようだった。女の人に色目を使われても軽いボディタッチをされても全く振り向かない。知ってはいたがとにかくガードがかたい。



携帯にかかってくるラブコールに幸せそうな顔で言葉を返すクロを見て、何人の女が肩を落としたのだろう。お前らは男に負けたんだぞざまあみろ。とまでは考えないが、人知れず安堵。そのあとにため息。おれはこの哀れな女の人たちと何も変わらない。




おれが大学に入学して一年経った。幸いなことに単位を落とすこともなく無事二年生になることが出来た。前期は一年のときと何も変わらず、平和に過ぎていった。特別なことといったらクロと二人で夏祭りに行ったことくらい。そんなの毎年のことだから、特別という言葉に括り付けていいのかさえ分からない。そういえば一緒に食べた林檎飴の味が思い出せない。ただ甘ったるいという後味の悪さだけが残った。恋心に似た何かが胸の内でくすぶり続けている。今もずっと。後味悪く。








「夜久と別れた。」




それは後期に入る直前の夏休み。少し肌寒い夜のことだった。
一つ一つ言葉を確かめるように吐き出された言葉。青白く下がった腕の先には鈍く光る銀色。アパートのおれの部屋に続く玄関の前に立ち尽くすクロは、顔が真っ赤だった。酒が入っている。多分。
その時のクロはいつもよりラフな格好をしていた。インディーズのバンドのロゴ入りの黒いTシャツを着て真っ黒なスキニーパンツを穿いて、汚れるだろうに真っ白なスニーカーを履いていた。バッグ等は持っていない。目を細めたまま足取りの覚束ない不安定なクロは妙に性的だったがあまりに無防備で幼く、ここで絡め捕ることは自分の理性が許さなかった。




「…入れば?」




クロの瞳とかち合った。スニーカーを脱ぎ捨てフローリングを踏みしめる音。ぎしり、と痛々しい音が静寂な夜に響き渡った。クロの心にもヒビが入った瞬間だった。重苦しい空気にヒュッと喉が鳴る。こういう空気はどうも苦手で、変に緊張してしまう。
しかし一方で分かりやすく傷付いたクロを目の前にして気分が高揚している自分もいるのだ。あんなにも遠くにいたクロが、目の前にいる。悪寒に似た甘い痺れが背骨を撫でた。




「…邪魔、しゃす、」




ワンルームの狭い一室に一人加わった。クロが煙草を一本取り出す。その光景を目にしておれはとても慌てた。



「ちょ、ちょっとやめてよ…煙草臭いの嫌だよ」

「ちょっとくらい、いいだろ」

「ちょっととかちょっとじゃないとか関係ない」

「………。」




珍しく聞き分けがよく、すんなり煙草をしまってくれた。夜久さんじゃないがおれも煙草を吸うクロは嫌だ。この調子だと何本かもう吸っているのだろう。前々から気付いていたが、クロはもうおれの理想のクロではなくなっていた。
クロはミニテーブルを見つめながらぽつり呟く。




「好きな女が出来た、んだと」

「…夜久さんに?」

「もういい加減、目ェ覚まそうって、言われた。何だよ目ェ覚ますって。…元々覚めてる…っつーの…」





相変わらず左手には銀色が光っている。暗闇に紛れてよく見えなかったが、それは確かに存在している。憎たらしいそれが。




「その指輪、いつまでしてるの」




自分でも驚くほど冷たい声が出た。案の定クロも目を見開いてこっちを見ている。まばたきを数回繰り返してから、ゆっくり左手の小指を見下ろした。ぱちぱちとそれを見て、何か疑問に思っているようだった。





「だ、って…これは、夜久との」

「約束、とか。愛の印とか言いたいの。」

「これ外したら、」

「外さなくたってもう途切れてる。とっくに。」

「何が途切れてんだよ…」

「誓い合ったモノ」





煙草吸おうとしたのだって、そういうことなんでしょう。
クロがまたポーカーフェイスに戻った。スッと表情がなくなっていく。いつものクロだった。否、いつものクロによく似ていた。すべてを悟ったように生きている顔をしている。





「…夜久とは、もう終わったんだな。へえ。」

「………。」

「酔い冷めた、…かも。」




音もなく立ち上がり邪魔した、とキッチンを横切る。ああ、帰るのか。嵐のような人だ。結局何をしに来たのだろう。
真っ黒な背中を見つめて、少しだけ猫背なそれに手を伸ばそうとしてやめた。けれど諦めがつかない。今なら、クロは。




「クロ」




クロがおれを見る。空気がひんやりとする。クロは来た当初と全く違う顔をしていた。猫のような瞳が無機質に揺れる。あいまいな煌めきを放つ。





「クロのこと好きだよ」




すんなりと言葉が出た。クロが口を少しだけ開いた。眉は上がり、驚いた表情を浮かべている。しかしそれも一瞬で、もう読めない表情に戻っていた。ひたひたとこちらまで歩み寄ってきて、おれを抱き締める。あったかい。そのとき、確かにおれは幸せだった。束の間の幸せだった。





「もしここで俺がその気持ちに応えたら、いつか研磨はどっか行っちまうと思う」




か細い声と、おれを強く抱く腕。アンバランスに引き止める二つ。
どこにも行かないよ。クロを置いてどこか行くなんて、おれに出来る筈ないのに。もしそれをするとしたら、クロの方だ。




「クロは意地悪だ」




甘い酒の匂い。強く強く抱き締められた。束縛。俺が逃げないように。強く強く、縛り付けられて、逃げられないように。




「お前には恋人になってほしくない。夜久みたいに離れていくなよ、研磨…」




けんま、けんま。温もりは鮮やかに毒を孕んでじわじわと侵食していく。鼓膜が震える。密やかに紡がれる音の羅列。その時になってようやっと、おれ自身がクロにとっての最後の砦だということを知る。要塞。心の均衡を保つための小さなバリア。





「クロがそうしたいなら、それでいい…」




抱き締め返したのに、クロは大きすぎて包み込めなかった。
クロがありがとう、と言うのを聞いたのは何年ぶりだろうか。悪い、だとかは毎日聞いていたけれど。

そして一週間後、クロに猛烈なアタックを仕掛けていた女とクロが付き合い始める。あまり感じの良くない怪しい雰囲気の女。クロのタイプの女でないことは明らかだったが、やけくそで付き合い始めたのだろう。だからおれは何も言わなかった。すぐ別れてくれるだろうと思っていた。






後期が始まって瞬く間に冬になり、雪がちらつくことが多くなった。世間はクリスマスを盛大にたたえ始め、うんざりするまで同じような曲をエンドレスで流す。
あれからクロと殆ど会っていなかった。自分がクロの心の支えであることを知ったのでそれに満足感を得ていたのもあるのだと思う。
少しの冬休みが訪れ、実家からも帰省を促す電話が入った。帰ろうか帰るまいか迷っていたその頃。突然クロが部屋に上がり込んできた。もうどこにも銀色はなかった。少し物悲しい。胸に鈍痛が走る。





「よお研磨、元気か」

「いきなりだね…」

「最近ご無沙汰だったろ。暇だったから来たんだよ」




どっかりと座布団に座り込みにこにこと笑みを浮かべるクロに微々たる違和感。。嬉しいのは山々なのだが、訊きたいこともある。



「あの女の人とはまだ付き合ってるの…?」

「え?あー…あいつとは二週間くらいで別れた。性格悪くて一緒にいるのしんどくてさ」

「そう…」

「でも、あいつの知り合いの男が何か迫ってきてさーまあ別にいいかと思って一晩寝たら、恋人扱いされてた」

「えっ」




まるでそれが普通だと言わんばかりにあどけなく笑うクロに嫌悪と焦燥。なんだそれは。非常にまずい方向にいっているではないか。しかもあの女の知り合いって、




「そ、それいつの話…」

「うーん、ちょっと前。一ヶ月くらい前」

「今も…?」

「ああ、まあ悪い奴じゃないし。そうそう、これ見てみろよ」




ちょっとさみーけど、と言ってクロがコートやセーターを脱ぐ。その下に覗く何か。おれは一瞬言葉を失った。

随分と筋肉が落ちたようだった。片腹にでかでかとmineと彫られたタトゥー。多分、シールじゃない。彫ったんだ。初めて見たタトゥーは予想以上に生々しいものだった。




「自分のモノっつー証が欲しかったんだと」



けたけた笑うクロにぞっとした。自分が何をされているのか分かっているのだろうか。




「クロ、その人…」


危ないよ。
言いたいのに喉まで出掛かっているのに、出てくれない。クロは人を見る目があるから、心配ないと思っていたい。けれどもそのクロがもう確かな過ちを犯している。誰かのものだという証をはっきりと体に表してしまったのだ。そしてそれは簡単に消える代物ではない。
嫌な予感がする。




「………クロ、」

「そんな顔すんな研磨」

「………。」

「言いたいこと分かるけど、俺は今、幸せだから」

「…幸せ?」

「夜久のことはもう許せた。少し前までは思い出すと辛かったけど、もう指輪を直視することも出来る」




指輪、とっておいてるのか。夜久さんはまだ指輪つけているんだろうか。彼もすっぱり関係を断ち切るタイプなのでどこかに放り投げてしまったかもしれない。




「けどやっぱり、夜久にも幸せになってほしい、だろ。元彼以前に親友だし」





ピーコートを羽織る。クロはお洒落だ。いつ見ても。




「でも俺も幸せになりたいし。…なあ、そういうことだよ。ちょっとした冒険ってところだろ。」



おれが不機嫌な顔をするのを見越してかはたまた偶然か、クロがおれの頭を撫でた。




「ヘマなんてしないから、安心しろよ」




ここにきて久々にクロらしい笑みを見た。にっこり目を瞑って笑う彼が愛おしい。残酷なことだ。名も知らぬ誰かにまんまととられてしまったのだから。








続?






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