薄暗い、部屋の中。 俺の部屋はあまり日当たりが良くない代わりに、月の光だけはよく部屋を照らしてくれた。ただその日の夜は月ばかりが俺を見つめていたのではない。鋭くもぼんやりとした目が俺をじっと観察するかのように、獲物の動きを見るかのように、じっくりと俺に意識を向けている。 「おれ、クロのこと好きだよ」 んなこと知ってる、と言おうとした。そんなことは今に始まったことじゃないと。何年の付き合いだかはっきりとは憶えていない。それ程に長い付き合いなのだから。そんな思考を一言でまとめて口に出そうと「あ」と口を動かした。その直後の出来事。猫目が視界いっぱいに映って、二つの水晶体が俺を捉えて放さない。え、と思った。ほんの少しの疑問と焦燥。目の下に温かく、やわらかいものが束の間押し付けられた。それは人肌の温かさを帯びていた。 この一連の流れを脳が整理しようとしている。勿論その間体は一切動かせず、研磨から目を離すことも出来ず、呆然と固まっていた。研磨は微笑んで間近で俺を見ている。月明かりに照らされた研磨の表情はどこか狂気染みていて、恐怖が芽生えた。 「す、き」 弧を描く薄い唇によって静かに、言葉は紡がれた。それはゾッとするほどすんなりと耳の中に入ってきた。心地好くさえもあった。口元が強張る。さら、と研磨のふわふわした質感の髪が離れた途端肩がびくりと震えた。こんなことで驚くだなんて自分らしくもない。 「何言って、いや、」 「もう一回言わなきゃダメ?」 「…言わなくていい…」 「そう」 ただの幼馴染の延長線上の行為だとは到底思えなかった。まるで耳鳴りがするように頭に鈍痛。脳が考えることを拒否している。何も考えたくないと、目を閉じて頭を振った。 「クロ、」 「今話しかけるな、…ちょっと立て込んでる…」 「…わかった」 研磨は急かすこともなく、俺の隣に座り込んでスマートフォンを手に取りとんとんと画面を叩いている。その音さえも気分を落ち着かせる事を阻害していて、俺はそっと研磨の腕に触れその動きを制した。動きには気を遣ったつもりだったが余りにも動揺していたのか、多少自分の手が震えていた。 研磨が震える手をとって掴む。やんわりと、形を確かめるかのように握られてつい嫌悪してしまう。さっきの事についてどちらも触れない。俺は出来ればこの先ずっと永遠に触れたくなかった。何故なら俺にはソッチの気は全くなく、これからも普通に生活していきたいと強く思っているからである。 「クロは困るだろうなって、知ってた」 「は?」 「こんなこと言われたら困るだろうなって、知ってた」 けど我慢出来なくて、言っちゃった。 研磨は先ほどの表情とは打って変わって優しい微笑みを浮かべていた。中性的とはまた違う、少年のようなあどけない笑顔は見ている者の心を洗ってしまう。面倒見の良さが仇となっていた。まだ洗われてはいけないのに。洗われてはいけないのに。 呆れの感情を表すつもりでため息を吐いた。のに、ため息は妙に振動していて緊張しているか甘い息を吐いているか、どちらかにしかとれなかった。恥ずかしくて俯いた。 「俺は、」 「うん」 「お前の気持ちには、応えられない」 「うん」 「無理だ、ごめん」 「おれもごめん、クロ」 「……いや、」 「おれは、諦められないから」 「え、」 「こんなに近くにいるのに、諦めたくない」 「…やめてくれ、これ以上そういう事考えたくないんだ」 「クロ、こっち向いて」 「…嫌だ」 「いいから」 研磨の珍しく焦りを含んだ声に引きずられるようにして顔を上げると、やはり月明かりだけが部屋にともっていた。俺の顔は多分、研磨には情けなく映っていたことだろう。漠然とした灰色の中の研磨は相変わらず何を考えているのかよくわからない。けれど少しだけ不機嫌なのだけが見て取れた。そんな顔されても困る。俺にはどうしようもないのに。 「ごめんね」 ぽつりと雨のようにその言葉は降ってきた。頭を肩に押し付けられた。温かい。安心する温かさだ。 「諦められなくて、クロを苦しませてる。ごめんね。」 知っていた。その言葉の裏を覗いても罪悪感なんてものは皆無だということを。俺の全てを取り込んで決して離さないという誓いを含んでいることを。そして俺は逃げられない。甘ったるい蜂蜜の海を這っているかのように、そしてずるずると溶け込み溺れ沈んでゆくかのような緩やかな、それでいてはっきりとした絶望。 研磨は意外と貪欲で容赦がない。自分の好きなこと、興味があること、それは限りなくゼロに近い個数だが確実に存在している。それらを研磨は絶対に落とさない。それらはこぼれない。何があっても、だ。 それらに自分が入ってしまった。否、きっとそれはずっと昔から、どちらも気づかない頃からだったのかもしれない。兎に角俺はおもちゃ箱の中のお気に入りに選定されてしまったわけだ。 肩に押し付けられる重みが心苦しい。まるで恋人のような格好の俺達はどこまでも間抜けだった。(そう感じているのは俺だけ。滑稽だと疎んでいるのも俺だけ。) 「研磨、俺はそんな我が儘許せないからな」 「許さないんじゃなくて、許せないんだ。クロはどこまでも優しいよね。」 「…いい加減にしろ」 「どこかで諦めてるんでしょ?」 「何をだ」 「おれから逃げること」 ぴりりとした空気。張り詰めた一筋の何か。肩の重みがより一層強いものになる。背筋を冷たいものが伝った。何故自室で試合中のような緊張感を味わわなければならないのか。研磨は頭をそのままに、手をそっと俺の腕に置く。冷たいような、生温かいような、何ともいえない温度。縋るような小声が耳に届く。 「ねえ、本当に悪いと思ってるよ。でもクロだから好きになったんだよ。クロだから…」 「…一時の気の迷いだ。ずっと一緒に居すぎて頭おかしくなってるんだろ。少し距離をおけば、」 「おれが、クロと?」 最高潮に不機嫌な声にひやっとした。さっきから何なんだこいつは。体を離すと研磨はかくん、と首を戻す。ベッドに寄りかかったままの体はそこはかとなくだるい。 そこから動く気のない俺は本当に駄目な奴だと思う。ただ一言、寝ろだの帰れだの言えない自分は結局のところ相当の甘ちゃんなのだろう。 研磨は割と焦っているようだった。こういうときの研磨は見ていて面白おかしいのだが、今の俺に笑える余裕も笑う理由も全くなかった。ただただ、この状況をどう切り抜けたものか考えることに精一杯だった。嫌だな、と呟く研磨は今きっと俺と研磨が距離を置くことを想像している。 「嫌だな」 「………。」 「クロ?」 「寝ていいか、もう疲れた…」 「通信対戦するんじゃなかったの」 「今のこの状態で?鬼かお前は」 「おれのこと避けようともしないで生殺しにしてるクロの方が、余程鬼っぽいけどね」 「…避けたら、お前はバレーから離れるかもしれないだろ」 口に出してからしまったと思った。完全に失態だ。けれどもう遅い。眠気と疲労で緩んだ唇と思考を心の中で叱咤し、心の中で舌打ちする。 研磨はここで初めて声を上げて笑った。 「クロはかわいいね」 これには眠気も何処かへ飛んでいった。かわいい?俺を可愛いと言ったのかこいつは。そんなわけないし、そうあっちゃいけないとも知っている。研磨の方が少なくともその形容は合っている筈、だ。そろそろパニックでショートしそうな俺を見て研磨はゆったりと声を出す。 「…クロは色んな人に分かりにくいとか掴みにくい性格って言われる。でもおれにとっては時々すごく分かりやすいよ。そこがすごくかわいい」 「それ、お前にとっては誰でも可愛いんじゃねえのか」 「他にもクロのかわいいところを上げてってこと…?」 「違う。変な解釈をするな。」 ぴしゃりとはねのけると研磨は大袈裟に傷付いた表情をした。それを見てほんの少し、苛々。 あーだるい。そろそろ寝かせてくれ。今眠りについても確実におかしな夢をみるだろうがやむを得ない。明日は学校の都合で午後から部活なのだが、このままでは色々支障をきたす。犬岡でも夜久でももう何でもいいからこの地獄から引き上げてくれ。頼む。そもそも俺は犯罪者でもないのに何でこんなに苦しんで地獄でお釈迦様からからのお情けを待たなければならないのか、その辺を詳しく−−−。 現実逃避に走り始めた頃、ふと部屋に奇妙な光が差し込み部屋を移動し消えた。外を自動車でも通ったのだろうか。体中が完全に暗闇に慣れていたため、無意識に光を追って視界が一瞬白んだ。 「…研磨、ちょっとこっち向け」 「?…デコピンは嫌だよ」 「しないから、早く」 そわそわしながらこちらを向く研磨は年相応の顔に戻っている。そのことに安堵しながら同時に、この状況をさほど嫌だと考えていない自分がいることに気づく。その事実に吐き気と驚愕を覚えつつ、両手で研磨の頬を包み込んだ。 目を瞑りデコピンやら何やらに備えている研磨の頬に唇を近づけた。吐息がかかったのか、研磨が瞬時に目を見開く。それを見計らって頬を思い切りつねった。 「ーいっ、!」 「もう寝る、お休み」 「えっ、ねえ、キスしてくれるんじゃなかったのっ」 「俺がいつそんなこと言った」 「さっきの、流れは、そうだったでしょっ」 「…おやすみ」 「クロぉ…っ」 「うるさい、おやすみ」 ずるずるとベッドと掛け布団の間に入り込むとTシャツを引っ張られる感覚。いつになくしつこい。しかし体は一刻も早く眠りにつきたかったのだろう、振り払おうとも手は動かず制止しようにも口は動かない。背中に空気が入り込んで肌寒かったが何とかすっぽりと布団を被る。 「クロはずるい」 ただ耳だけは五感としてきちんと働いてくれていた。靄がかかったようにはっきりとしなかったが、言葉を認識している。 「クロがそんなだから、おれは頑張って諦めようとしても無理なんだよ、ねえ」 反論も肯定も出来ない。近付きすぎたら火傷をし、離れすぎれば研磨はどこかへ行ってしまう。適度なポジションを持たなければならない。それは確かに生殺しであるだろうし、卑怯な方法だということも知っている。 正面から向き合いたくない気持ちが大きいためにこんなことになってしまっている。研磨という存在はイレギュラー過ぎた。 朝方、日の光の眩しさで目が覚めた。寝覚めが悪く、暫く目を開けられなかった。普段よりも幾分低いトーンの呻き声が出る。 「クロ」 鳥のように軽やかに声が降ってきた。返事をするより早く唇に何かが押し当てられ、重たい瞼をこじ開ける。 「おはよう、クロ」 にこにこした研磨が俺の顔をのぞき込んでいる。まるで幸福を呼んでくる猫みたいににこにこ、にこにこ、に、…。…? 「さっき何したんだお前」 「さっきって?」 「とぼけんな。名前呼んだ後何かしたろ」 「聞きたい?」 「………。」 「奪っちゃった、クロの」 ふふふ、と笑う研磨に何をとは訊けなかった。訊いたら終わりだと思った。 とりあえず起き上がりじっと研磨を見つめる。研磨は甘酸っぱいものを食べているような目で俺を見つめ返していた。 「何も言わないんだ」 「別に」 「ほんと、何でこんな酷い人好きになっちゃったんだろ」 酷いからだよね。きっと。研磨の独り言のような言葉は、早朝の光をたたえた部屋の中にじんわりと消えていった。 |