小説 | ナノ







私は一回だけ人を殺しかけたことがある。間接的にではあるが、それでも罪だ。社会的には裁かれない。だが自分で自分を裁いた。離れなければいけないと思った。

愛した貴方から。











「あれ?この間も会ったよね」

「…ああ」




私はとある花屋で正社員として雇われている。女心も、花に対する愛情も、愛らしい笑顔もない私だが何故か男が時々言い寄ってくる。売った花をその場で渡されたときは流石に狼狽えてしまった。

しかしこの男は特別である。私に愛を語るわけでもなく、たまに珍しい花が入荷するとふらっと訪れて何束か買ってゆくのである。花が相当好きなのは知っている。彼が好きそうな色のものを選び渡すと彼は素直に喜び、ありがとうと微笑む。私は蔦に縛られたように胸が苦しくなる。



「名前は…ああ、白竜ちゃんって言うんだ」

「…はい」

「白竜ちゃんが選んだ花は生き生きして、瑞々しいんだよ。いつもありがとう」

「…白竜で」

「うん?」

「白竜で、いいです。呼び捨てで」

「そう?それなら君もシュウって呼んで。あと堅苦しいの嫌だから普通に喋ってよ」



シュウ。口に出すと情けない声色になりそうだったのでやめた。後ろを向いて花を整えるふりをする。実際は泣きそうな顔を隠しているだけだった。

これが、私の罰。終わりを告げられたあの日。
世界が貴方を中心に回っていたあの頃。私が街中の道路の向こうに貴方を見つけて、叫んで走り出さなければ。貴方は顔を真っ青にして私に何かを叫んだ。道路一つ分しか挟んでいないのに、何を言っているのか聞き取れず。


その日は白いワンピースを着ていた。貴方が女らしい服装を好んだから。カーゴパンツが好きな私には抵抗があったが、貴方が似合ってるよと優しく笑いかけるだけで恥じらいなど消え失せた。

その真っ白なワンピースが、貴方の血で濡れてべったりと赤く染み付いた。大型トラックに巻き込まれそうになった私を庇った貴方はずたずたに。私はただただ貴方を抱えていることしか出来ず。頭と口から血を流す貴方を見て何も出来ず。



彼の脳の損傷が酷く、普通の生活が送れないかもしれないと言われた。深く絶望した。けれど奇跡的に回復して、歩くこと、話すことが出来るようになった。私は自分のしてしまったことが怖くて彼に会うことが出来ず、彼の見舞いをしなくなってしまった。

それから暫くして、彼にここ十年くらいの記憶が戻らないことを知った。心の中に空白が出来て埋まらないまま、何年も経ち、ここまできてしまった。
そして彼に再会したのがついこの間ということだ。




「………シュウ」




会ってしまった。会いたくなかったのに。
そして歯車は動き出す。あの幼い恋心を再現しているかのように、回転を始める。











「白竜の髪って、白百合みたいだ」




小さな花屋に居座るというのは、少々神経が図太い。しかしそう言えない私も臆病だと思う。今日は目新しい花は入ってきていないというのに何の用だろうか。



「………そんなことはない」

「えー?下の方はね、薄く色づいてきたすみれ!」

「そうか」

「ノリ悪いなーそんなんじゃ結婚出来ないよ?」

「しないからいいんだ」




花の茎に斜めに鋏を入れ、手早く処理をしていく。水差しを見ることもなく、花をてきぱきと差してゆく。もうこの作業を始めて何年経つだろう。貴方が私の中から消え失せてすぐに花屋に勤め始めたのだから、結構な年数だ。
シュウはつまらなそうに私の持っている花を見る。ふと、私の手から一本、花を抜いた。




「失恋でもした?」




顔の横でくるくると花を振るシュウ。つとめて冷静に、なぜそう思う?と訊いた。彼は笑って、彼が持っている花を指差した。黄色のチューリップ。




「この花の花言葉、知ってる?」

「さあな。私は花に興味がないんだ」

「黄色いチューリップの花言葉はね、望み無き愛、だよ。」





息が詰まった。不意打ちにも程がある。シュウは突然雰囲気の変わった私を見て、詫びたそうな顔をした。



「ご、ごめん…。不躾だったよね」

「いや、忘れられない私が悪い」

「…こんなに可愛い子を振るなんて、酷いよ。僕なら大切にするのになあ」





貴方に大切にされた結果がこれなのだ。
その優しい眼差しで私を見ないでほしい。貴方が私といた所為でまた同じことが起こったら、私は精神に異常をきたして多分死ぬ。
だから、もう優しくしないで。放っておいて。誰か素敵な人を見つけて、幸せに暮らして。




「シュウこそ誰かいないのか?モテそうだし候補の一人や二人いるんだろう」

「うーん、可愛い子はいるよ?でも違うんだよね」

「違う?」

「分かるんだ。僕にはこの人じゃないって。そして、ずっと待ってる。その人が来るのを」

「………。」

「そんなことしてたらおじいちゃんになっちゃうのは分かってるよ。でも、僕の体が知ってるんだ。大切にしたい人のこと」

「………。」

「詩人みたいでしょ?笑っていいよ、僕でも笑っちゃう位なんだ」





何も言えない。見つかるといいな、なんて言えたらどんなに良いだろう。残念ながら私はそんなに心が広くない。他の人にしておけばいいと心の中で思っていても、なかなか口をついて出てこない。要は、貴方を忘れられないのだ。
穏やかなシュウの声が、あの頃と何ら変わりない。初めてワンピースを着たときと全く同じ声。





「僕さあ、結構前からここ最近までのこと、よく思い出せないんだ。記憶障害ってやつなのかな。」



シュウがチューリップをくるくるしたまま、低い声で話し出す。シュウは本当に聞いてほしい話題のとき、声を低くして語り出す癖がある。




「日常生活に支障はないよ。何をするにしても体が覚えててくれた。でもね、人は思い出せない。ずっと前から一緒にいた人は覚えてるよ。家族とか、幼なじみだとか。…だけど、」




チューリップをくるくるしている手が止まった。シュウが珍しく口を噤む。チューリップを顔に押し付けうなだれて、動かなくなった。




「一番大切にしていた人を、思い出せないんだ」





チューリップの花弁が私の足元に一枚ひらり、と落ちた。


私はシュウに背を向けて、シュウに聞こえないくらい小声ですまない、とだけ言った。






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