2 また、体調が悪い。 ずっと、ずっと霧野先輩に世話になりっぱなしだった。先輩は全然気にしてないなんて言うけど、そんなの嘘だ。先輩だってもっと遊びたいだろうに。俺なら耐えられない。例え恋人相手であっても、介護と変わらない仕事をずっとするなんて苦痛に決まってる。 剣城くんの薬を毎日飲んでいるのに、全く効果があるように感じられない。…やっぱり飲んではいけない類のものだったのだろうか。でも剣城くんはそんなことする人ではない。もう少し様子をみてみよう。毎日、そう思っている。 天馬くんは相変わらず心配して電話をくれる。今度お見舞いに行くね、と言ってくれた。みんなで来てくれるのだろうか。嬉しい。 「ほら、お粥作ったぞ」 「………」 「狩屋?」 「ほ、本当にごめんなさい…。俺、先輩にすごく迷惑かけてるなって…。」 「だから、俺は好きでしているんだ」 「嘘だ…」 「嘘じゃない」 唇にキスが降る。嬉しいのに涙しか出ない。だってこんなに嬉しいことをされているのに頭は割れるほど痛くて、腹痛は止まらなくて。 苦しくて痛くて、切なくて泣いた。 病院に行った方がいいのかもしれない。けれど霧野先輩の愛に埋もれていたい。本当に我が儘だ。ふと、すぐ横から先輩の声が聞こえた。とても聞き取りにくくてか細い声だったけれど、それでも確かに俺の耳には届いた。 「………だって、狩屋はずっと傍にいてくれる…」 振り絞るような先輩の声が、幻のように空間に溶けた。 どこにもいかない。いかないよ、先輩。 体が弱って、遠くにも大学にも行けなくなった。友達にも会えない。けれど先輩は一緒に居てくれたから、別段何もいらないと思った。 剣城くんから貰った薬の瓶はどこにいったのだろう。探しても探しても見つからないのだ。そんな異常でさえ毎日の苦しみの中に入り込んでどうでもよくなってくる。 霧野先輩がいなくなると目の前が真っ暗になったような錯覚に陥る。こんなに執着している自分に自己嫌悪しながらも、先輩がいるだけで嬉しくなってしまう。 ある日、久々に剣城くんからメールが来た。内容はこんな感じだった。 「お前が大学に来ないということは、薬が捨てられたか、お前が殺されているかのどちらかだな。近日、暇を作って見舞いに行く。」 捨てられた?殺される?えげつない言葉の羅列に目眩を覚える。冗談にしては重苦しい文面にまた吐き気がした。先輩は今買い物に行っていることを思い出し、這うようにしてトイレまで向かう。捨てる?殺される?俺が?誰に?俺は死ぬのか?サツジンジケン? 何かが引っかかる。 トイレでげえげえ、とぶちまいた。本当に死にそうだ。今の俺は死に損ないだ。先輩がいなければ何も出来ない、ただの個体。口の中の酸っぱさに、自分がちょっと前酸っぱいものを食べたくてたまらなかったときがあったことを思い出す。 (妊婦みたいだな) 視界がブゥン、とぶれた。あれ?…あれ?思考が焦ったように狂い出す。何だか今、日常の中にささやかな矛盾を見つけた気がした。 特に調子が悪くてソファにへたり込んだあの日。意識が無くなる直前聞いた声は、本当に先輩のものだったか?あの時は先輩のことしか考えていなかったからそう聞こえたのかもしれない。けれど今考えると、あの声は。 「…剣城、くん?」 けれど、それなら先輩は何故そのことを俺に話さなかった? 家に誰か呼んだかと言った。それは、剣城くんがいた形跡があったから。僕が剣城くんを呼んだのだと思ったのだ。けれど違った。 しくった、と言った。それはきっと家に剣城くんが来たからだ。あの人は自分が居ないときに他人を家に入れるのが大嫌いだった気がする。 剣城くんは何をしに来たのだろう。見舞い?彼が一人で?そんなまさか。 「……薬…」 そういえば彼は何故わざわざ薬を渡してくれたのだろう。そんなにいい人だったか。考えれば考えるほど混乱が大きくなってゆく。目の前の汚れた便器が歪む。 剣城くんが介抱してくれた次の日は、とても調子がよかった気がする。多分薬を飲ませてくれたのだ。けれど最近は?飲んでいたのによくならなかった。…落ち着け、考えろ。何が違う?家にいたし、何も変わらないはずだ。…あの日は、食欲が無くて一日何も食べなかったけれど。 「……それだけだ…。」 違うのはそれだけ。考えるのも嫌になって、へろへろになって自室に戻った。 おかしい。何かがおかしい。終わりが見えない。 …何も食べないんじゃ、体にとっては逆効果な気もするんだけど。 そして、ある考えが脳裏にぱっと浮かんだ。 「…いや、信じたくないし、流石にサスペンスの見過ぎかも…。」 嫌な予感が的中しませんように。それしか願うことが出来ない。これが当たってしまったら、俺は。 しばらくしてから帰ってきた先輩に、恐る恐る訊いた。喉がからからでひびが入ったように痛い。 「先輩」 「どうした?」 「俺、先輩に殺されますか」 「―――――。」 先輩の純粋に驚いた顔。下腹部がまたずっしりと痛みを主張する。妊婦、ね。心中で俺はせせら笑った。それでも先輩の目を見据えて、じっとしている。 「殺さない」 先輩は穏やかに微笑んだ。怒るわけでもなく、笑う。でもこの態度で、何かあることはわかった。 「大好きな狩屋を殺すわけないだろ」 「では俺を苦しませたいんですか」 「違う」 「…でも、盛ってますよね」 俺の飯に、何か入れてますよね。先輩は、肯定も否定もしなかった。ああ、やっぱりか。鈍痛に引きずられるようにして床に座り込む。だからか。だからあの薬は効かなかったのか。“先輩の作ったご飯を食べている限り薬は効くはずがない。” 俺の傍に、先輩が寄る。今ナイフを心臓に突き立てられても、俺は逃げることさえ出来ない。こんな話題を出した時点で覚悟の上だった。がちがちに固まった俺の顔と体を見て、先輩は悲しそうに微笑んだ。 「なあ狩屋、お前は俺が狩屋のことを嫌いでこんなことをしていると思っているだろ」 「………」 「そんなわけない。好きに、決まってる、だろ」 「………」 「狩屋がいなきゃ、俺は何も出来ない」 まるで俺のようなことを言う。先輩は泣いて、俺の腰を寄せた。温かい。人殺しの手じゃない。 …馬鹿だ。そんなの先輩のことが好きだから、毒を盛っているって信じたくないだけ。先輩のどこかに人間らしさを見つけたいだけ。 「先輩…」 「狩屋が俺のことだけ必要として、俺がいなきゃ生きられないようになっていくのが、」 「嬉しかった?」 「…勿論」 「……そうですね。もう先輩に依存しきっていますね」 剣城くんの薬はもうきっとこの世に存在してないんだろうな、と少しだけ考えた。重い重い恋だ。 今なら剣城くんが俺をお泊まりに誘った理由がわかる。彼は俺を少しでも先輩から遠ざけたかったんだ。そして俺に犯人は先輩だと気づかせたかった。けれど俺がそんなことしないと悟ったのだろう。 一歩間違えればきっと俺は死ぬ。でも先輩に殺されるならいいかな。すごく贅沢な話だと思うんだよね。 どうしようもないな俺。 「解毒剤、捨てましたね」 「ああ」 「…俺に終わりを見せたいんですか」 「違う、永遠を見せたいんだ」 「…え?」 今の俺の言葉は先輩の言葉に対しての反応ではない。目の先に、ナイフの切っ先が見えた。ナイフ。ナイフ…? その奥に、何かを掴もうと必死な目をしている先輩の姿があった。俺が声をかけようとして、先輩は遮るように喘ぐ。 「俺の愛が永遠だってこと、教えてやろうと思って」 「先輩、何やって…冗談きついですよ」 「目が見えなくなったら、真っ暗だもんな。お前の嫌いな暗闇なら、もっと俺のことを呼んでくれるだろ?なあ、狩屋…。」 「っ、あぶなっ」 本能が危険を察知するのがあまりにも遅かった。恋は盲目であると、今更そんなこと。 どすん。と、目の中に途轍もない質量。続いて衝撃。 あ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。死んだ。死んだだろうこれは。痛すぎて叫ぶだけの体力もない。反射的に目を閉じようとするがナイフが邪魔して閉じることも出来ない。口元まで大量の血液が流れてきた。まさに地獄。神経が引き抜かれたような激痛。終わりが見える。永遠?嘘をつけ。永遠どころかショック死しそうだよ。携帯はどこだろう、携帯で、誰かを呼ばなきゃ、いけない。救急車?何を、誰を頼ればいいのか。 片目から見えた一瞬の永遠と、もう一つのナイフと、先輩の綺麗な顔。 悔しいくらい格好いい、先輩。 誰かを呼ばなきゃ、先輩?助けを求める相手はもう先輩しかいない。…ような気がしていた。ずっと。ずっと。 けれど、本当に俺を一番想ってくれていたのは、誰?本当に先輩なのか? 違う。違う。 「つる、ぎ…くん、」 「狩×、愛××る」 どすん。 ごめんなさい。 痛すぎて重すぎて聞き取れません先輩。 好きです。 (傷付けたいわけじゃない。弱っていくあなたを見ることが、そんなあなたに頼られることが、何よりも至福だった。 ) 性的嗜好 ノソフィリア:nosophilia (好病症,自己、もしくは他者が病に蝕まれている状態に) 亡霊様より参照。 |