「別れよっか、剣城くん」
長い長い、1日の終わりだった。冷たい布団に潜ると、狩屋が隣の布団で上目遣いにそう訴えてきた。
「俺ね、知ってるよ。剣城くんに良さそうな女の子が出来たことも、俺からその女の子に乗り換えたいことも、どうやって俺に別れを切り出そうか延々と悩んでいることも、知ってる。」
ふふ、と狩屋は至極穏やかに微笑んだ。この空間は暗い水族館の館内を連想させる。俺はたゆたう魚のように、ただ泳いでいる。
俺は何も言葉を出さず、ぎゅっと目を瞑り顔を敷き布団に押し付けた。今日はとても眠いのだ。
「剣城くん、ごめんね。俺そんな人いるの気づかなかった。」
「………」
「でも悲しくないよ、俺には霧野先輩がいるし、」
な。
目が覚めた。
思考が引き戻される。ぱっと目を開けると、そこは先程の俺の部屋だった。しかし隣には布団だってないし、狩屋の姿もない。夢見が悪い。
俺は狩屋と別れる気は更々ないが、そんな夢をみたことに引っかかることはある。昨日女にキスをされた。…本当にそれだけなのだが、それが妙に心に引っかかり抜け落ちてくれないのである。
(恋人いるならそれでもいいよ。でも寂しかったらいつでも呼んでね。)
女の言葉は男の体に甘い蜜のように垂れる。つくづく欲に弱いのだ。男というものは肉体と精神が分離していると偉い人が言っていた気がする。誰だっただろうか。
俺は狼のように唸りまた布団に顔をうずめた。時計を見ると午前二時半を差していて一気に力が抜けた。
「…剣城くん、元気ないね?」
「別に」
狩屋が気遣い掛けてくれた言葉も今の俺には鬱陶しいものでしかなく、ばっさりと切り捨てた。ほんの少し口を尖らせる仕草も見なかったふり。今はあまり人と話したくない。
「えっでも、さ…剣城くん元気ないと皆ペース崩れちゃうよ?」
「だから、別にそんなことはない」
「だってどう見たって…」
狩屋の声が若干、荒くなった。その声はまるで女とキスをした俺を責めているかのようにまくし立てる。狩屋の目を見据えた。周りの練習風景がぶれて見える。
「煩い」
狩屋が眉間に皺を寄せ明らかな傷付いた表情を浮かべた。やりすぎた、とも思ったが慰めの言葉が全く出て来ないまま、その場を立ち去るしかなかった。
苛々が止まらなかった。女を呼んでやろうかとも思ったほどだ。出すもの出したら少しはすっきりするだろうか、…そんな筈はない。そんな非生産的な行為は元々性に合わないのだ。時間があるなら練習をする。しかし一人でするのも何だか乗り気ではなかった。話もしたくない。どうしたらいいのだろうか。
少しだけ迷って、携帯電話の画面を見た。電話帳のアプリを開き、メールを作成。
調子が良くないと分かっていながらもジャージに着替えて家を出る。星が瞬く夜空だった。
「珍しいね、剣城がパス練に付き合ってほしいなんてさ」
「………」
無言でいると松風も何も喋らず、ボール運びに没頭するようになった。暗い公園で二人、荒い息を吐きながらボールを転がす。何もかも忘れられる。幸せだった。
練習に飽きて、うなじを垂れる汗が冷え肌寒くなってきた。ベンチに二人腰掛ける。松風はもう練習をしていないというのに楽しそうだった。
「剣城〜俺はさ、よくわかんないけどね。解決しなきゃいけないと思うよ」
「何がだ」
「なんかすっごくぴりぴりしてるから。俺までぴりぴりしちゃいそうだよ」
松風は揺れる木に目を凝らし、消えそうな電灯を仰ぎ見た。松風は、なんというか、大きいと思う。体ではなく、心が。
「狩屋には、霧野先輩がいて」
「…え?」
「俺は、想いを寄せられている。もうそれでいい気がしてきた」
「え?…何言ってるのさ?」
「狩屋には俺じゃなくても良いだろう」
そんなわけはない。(詰まった)