(月夜のスナフキン)
雨かと思ったら、小さなあられの粒が、パラパラと窓ガラスをノックして落ちていく。
ところどころペンキの剥がれた窓枠と、少しくすんだガラス。
月明かりを拒まず迎え入れるこの窓に、あられのとけた水滴が、虹色の影を増やしていく。
枕元がドット柄になっていく様子を眺め、隣に眠るトロールのすやすやと安らかな寝顔をちらりと覗き込む。
空色の瞳をおおう瞼に、こっそりキスを落としてみると、なぜだか頬が緩んでしまう。
ふふ、と、吐息だけで笑みをこぼすと、ベッドから垂れている青白い尻尾がゆれた。
長く短いムーミン谷の冬が終わるのを、今年はおさびし山のふもとにある、夏になれば皆とよく釣りをする、水のあたたかい滝の近くでテントを張り、一人で待った。
雪がちらつき始め、冬の訪れを知らせた、谷を離れる頃。
親友とさよならを交わした夜に、彼は心から寂しそうに言った。
「来年は、僕、誰よりも早く目を覚ますことにするよ。キミのハーモニカを聞く前にね」
小さな部屋の小さなベッドの中で、枕元のろうそくの微かな灯りが毛布に透けて、一緒に潜り込んだお互いの顔が、やわらかなオレンジ色に染まっていた。
旅の話が聞きたいからと、今夜は夜通し語り明かすのだと、あんなにも意気込み、ママから苦手なコーヒーを淹れてもらっていたのだけれど。
もう消えてしまったろうそくのすぐ横に、飲みかけのコーヒーが冷めてしまった、大きなマグカップが置いてある。
一口すするたび、苦虫を飲み込んでしまったように、眉間に深くしわを刻んでいた。
朝、目を覚ましたら、きっと大きな声であああと叫ぶに違いない。
全部飲んでしまえば、絶対に起きていられたのに、あと少しだけ頑張ればよかった。なんて。
角砂糖を一つも入れないなんて、ジャム入りの紅茶が好きな彼には、とても大きな壁だったろう。
太陽が顔を覗かせた頃には、いつもどおりママが朝ごはんの準備をするために、階段を降りていく。
ポットを火にかけた頃に、甘い木苺のジュースを、コップに一杯、もらっておこうと思った。
ママならその理由がわかるだろう。コーヒーをそんなにたくさん飲むなんて、あなたにはまだ早いわよ、と、心配していたのを、パパと眺めていた。
ノックする音がだんだんと遠くなっていき、月明かりについたドット柄が消えていく。
クリーム色に近い、それでも白い月明かりが、さえぎるものもなく、小さな窓から部屋に入り込んでくる。
寝返りをうってはだけた毛布をかけなおしてやり、こっそりベッドを抜け出して、音をたてないように注意しながら、ちょっとだけ窓をあける。
春になったばかりの、まだ指先を冷やすには十分な冷たい風が、あけた瞬間の隙間から一瞬、手元から肩まで駆け抜け、白く照らされた、クルミ色の長めの前髪を撫でていった。
小高い丘の上に建っているこの家の、一番てっぺんにあるこのこの部屋からの眺めはとても良い。
お天気の良い午前中なんかには、遠い山の林に海の青が反射して、揺れているのが見えたりもするほどだ。
ちょうどあの山か。何の気なしに眺めていると、山肌を撫でるようにして、ひとすじの黄色が流れて消えた。
二人で寝ころんだマットに戻って、きっとまたはだけているであろう毛布を、自分ももぐり込みながらなおして、もう一度寝顔を眺めて、おやすみのキスをして、少しだけ目を瞑っていれば、あたたかい空気を連れて、太陽がおさびし山のてっぺんからムーミン谷を見下ろしてくる。
親友のトロールの体温は少し高くて、肌寒い今夜はくっついて眠るのが心地好い。
とろんとまどろんで世界がぼやけるのが想像できた。
視界のはじっこに、また黄色が走るのが見えて、しっかりと見つめる頃には、その先には、もう星がキラキラとかがやく夜空がひろがるばかりだった。
流星群でもなければ、続けて見かけることは珍しい気がする。
黄色く尾を引いて消えていく流れ星は、ひとりぼっちの、あの彗星を、少しだけ思い出させる。
広く果てしない宇宙を、だれとも一緒にいられず、どこにも触れられず、ひとりぼっちのまま流れて、流れて、いつか燃え尽きるときがおとずれるまで。
気づいた頃にはひとり旅をしてきた自分にとっては、少しうらやましいと感じることもあった。
孤独を愛する仲間のように思うこともあった。
静かに窓を閉じる。
小さくパタンと鳴ったけれど、眠りを妨げることはなかったようだ。
くすんだガラスに、はあ、と、一息かけて袖でこすってみるけれど、自分の吐息のあとがきれいになっただけだった。
きれいに谷じゅうを照らす月明かりを、さえぎる雲さえ今はない。
あられは誰がばらまいたのだろうと、ちょっとだけ考えて、パパが掛けた小さな橋の手すりに、見覚えのある人影を見つけて、納得した。
声をかけたりはしないけれど、あちらから気づいて手を振ってくれたのが見えて、控えめに振り返した。
師匠でもある祖母の姿がないところを見ると、ひとりでこっそり魔法の練習に来ているみたいだ。
アリサが教わった新しい魔法は、どうやら天気を操る魔法らしい。
ほうきで飛べる日も近いのかもしれないな、と、心の中で呟く。
パラパラと、どこかで何かをたたく音がした。
練習の続きが始まったようなので、窓枠を一撫でしてベッドに戻る。
枕元のマグカップ。
すっかり冷めてしまったコーヒーを、一口飲んでみる。
ママは相当濃く淹れたようだ。
苦さに慣れている舌でも、酸味にしびれる感じがした。
案の定はだけていた毛布をかけなおして、うつぶせになっている親友の鼻先を、いたずらにつっついてみたら、垂れていた尻尾が返事のかわりに揺れた。
ついまた、ふふ、と、口元がゆるんでしまいながら、もぐり込む先があたたかくて、迎え入れるようにマットが沈む。
お日様にあてたみたいにぬくぬくとしたシーツは、もう一度ゆっくりおやすみ、と言っているように、足先を包み込んでくる。
なんとなく寝返りをうって、窓枠で6等分にされて月の明かりに浮かぶ床を見ていた。
ときどき、もぞもぞ動いたり、寝言でくすくす笑ったりする気配を、背中でぽかぽかと感じながら、ぼんやりと、何かを考えたり空想したりもせずに、白っぽく光を反射する床を眺めていたら、瞼が重くなってきた。
このまま、まどろみの中に溶けてしまったら、どんなにか心地良いだろう。
手足の指先がとろとろのホットチョコレートみたいにじんわりとろけていくようで、からだがふわふわ浮かぶ感覚が心地良い。
くるり、と、首だけ親友を振り向くとあちら側も自分に向かって、ベッドの外に垂れていたはずの尻尾を握って、すやすや寝息をたてていた。
ひとりで眠るのは好きだけれど、この親友と出会ってからは、たまにこうして、同じシーツにくるまって、毛布にもぐり込む夜があることが、とてもうれしくて楽しいことになった。
いくつか年上の自分が、年下のトロールの寝顔を見ることがほとんどだけれど、目を覚ましているのは自分だけなのに、決して独りではないと確信することが、こんなにくすぐったく感じるだなんて、きっと彼と出会っていなければ、大人になっても知ることができなかっただろう。
―来年は、もっと早く目を覚まして僕を待っていてくれよな。
―それこそ、僕の奏でるハーモニカの音を聞く前に。
重い瞼におおわれていく視界が、上からぼんやりレースをかけていくように、暗闇に埋もれていく。
最後の小指ほどの隙間になったころ、ちら、と、黄色が細い糸をひっかけて消えた。
ああ、また。珍しいこともあるものだなぁ、と、とろとろになった意識で思った。
僕はね、ムーミン。君と出会えるなら、何度でもこのムーミン谷に帰ってくるさ。
だから君には、待っていてほしいと思うんだ。
こんな冬の終わりが、何度でも来ることを祈るよ。
すう、と、閉じられた瞼を、あの彗星によく似た色に輝く星が、一瞬だけ照らして、また独りになるために流れていった。
あられの虹色の影は、もうすっかり乾いてしまって、窓はいつものとおり、くすんでいる。
スナフキンは、目を閉じてまどろみに身を任せたまま、おやすみ、ムーミン、と呟いて口先だけでおやすみのキスをした。
夜は更けていくばかりだ。
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