耳元で囁いて

扉の閉まる音で目が覚めた私は彼女がリビングを出て行ったことに気が付いた。

自分が眠りに付いていたことに唖然とする……一瞬であってもあり得ないことだ。

絶対に気の抜けないこの状況であってはならない。

遠くから微かに聞こえるシャワーの音がまた自分を悩ませた。

彼女は一体何が目的なんだ?

たまたま通り掛かった公園で見つけただけの見知らぬ男を自宅に招き入れ、風呂を貸し与え温かい飲み物まで提供し寝具まで与えた。

しかも寝ているとはいえ他人の男がいる状況で無防備にも入浴をするという行為を犯し、それは愚行以外の何ものでもなく、愚かさ故なのか果てまた何か考えあっての行動なのか、数え切れないほどの事件を解決はして来てもかつてこのような状況に陥ったことは無かった。

謎は深まるばかりだ。

彼女はどう出る?

下手に動くよりは様子を窺っていたほうがいいだろう。



ーーーそのはずだった。



「……どうなってるんだ」

『………』



室内は明るくなり閉められたカーテンの向こうからは太陽の明かりが漏れ出ているーーー鳥の囀りも聞こえる。

照明でない灯りは日付が変わり朝を迎えたことを示していた。

あろうことか私はあのまま再び眠りに就いてしまったのだーーー驚くべきことに何時もの体勢ではなくなっていた。

私の体は横たわっている、しかも頭の下にはクッションが置かれている。

なにより彼女が向かい側のソファで私と同じように横たわり布団に包まりながら健やかな顔で小さな寝息を立て眠っている。

……頭を抱えたくなったのは初めてだ。



「一体私はなにをやってるんだ」



起き上がりソファを離れて窓際へペタペタと移動する。

閉じられたカーテンを僅かに引きガラスの向こうを見た。

やはり朝だった。



『……よく眠れましたか?』

「……おはようございます」



ガサッと衣擦れの音がした背後から彼女に声を掛けられる。

まだ少し眠そうなボヤけた顔で私を見つめていた。


「珍しいぐらいに」

『隈、取れませんね』

「昨日や今日出来たものではありませんから」

『完璧なまでに不健康そうですね』

「私、これでも丈夫ですよ?」



たかが睡眠不足で身体を壊すほど柔ではないつもりだ。

一瞬一瞬世界中のどこかで数え切れないほどの犯罪が生まれていく。

依頼が来ればそれを解くのが私の仕事だ。

それに不満を抱いたことはなく疑問を感じたこともない。

そういったものは遥か昔のことだーーーといっても記憶には定かではない。



「貴女のような女性には初めて出会いました。不思議な人ですね」



自覚はあるのか困ったように笑みを浮かべている。

単に愚かなのではなく彼女なりの考えあっての一連の行動のようだ。

しかし施しを受けた私が言えた立場ではないがやはりどうあろうと褒められる行いではないだろうーーー彼女がうら若き女性で私が曲がりなりにも男であるのだから。



「ここは美しい場所ですね」



光りに満ちた輝かしい場所だと思う。

人が生きる場所とはこんな世界なのか。



『……まるで他人事のように言うんですね』



窓に手をついて外の景色を眺める姿が薄く張った膜のようなものに感じるーーー曖昧で朧げな存在。



「他人事、そうですね、強ち間違いではないです」



自分には無縁のもので、2つを分けて捉えていて、それは悲しいことじゃないんだろうか?

なのに気にもとめない。



『貴方も今その場所にいるんですよ』

「私が?」

『ええ』



意表を突かれたように驚いている彼から視線を逸らさない。

私はソファから立ち上がって彼に近付くとその手を取りベランダへ出た。



「寒いです」

『何故でしょう』

「何故、それは人間がそもそも発熱体であり立毛筋がーーー」

『違います』

「違うとは…」

『生きてるからです。貴方は生きてるんです』

「生きて、る」



そう反芻して彼は降り行く粉雪に手を伸ばした。

手のひらでジワジワと溶けていく雪を静かに眺めている。



『どんなに苦しくたってお腹は減ります。悲しければ涙も出るし、怒りも湧く、それが人間でしょう?それが生きてるってことです』

「……貴女もそう感じますか?」



目を丸くして、私を見て微笑んで、それから遠くの空を見上げて懐かしむ姿が朧げでーーー彼女は私を見てこんな風に感じたんだろうか。



『私だって人を愛したり憎んだりもしますよ。涙は勝手に出るし、これ以上ないってぐらい泣いたのにお腹は鳴るし。生きるのって簡単だけど大変です』



何を思い起こしているのか彼女の背の向こうで見え隠れする暗いもの。

それがこの人を塗り潰したりしなければいいと感じた。



『中に入りましょう、今は冷えますから』

「はい」



手が離れた瞬間には見え隠れしていた暗いものは消えていて、温かい笑みでまた私を部屋の中へと招き入れた。













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