損なわれた21グラム
召使を雇うのに金がかからない時代になったものだ。
アーサーがベッドから身を起こすと、階下からパンの焼ける香りが漂ってきた。アレを雇い始めてから、アーサーは目覚めてから階下へ降りるまでの数分間が楽しみで仕方がない。軽く髪に櫛を通し、コットンのシャツを羽織る頃には、パンの香りにフライパンで油がはぜる音が混ざり始める。
今日の朝食も、豊かな1日の始まりを告げるに違いない。これに目覚めの紅茶でもあれば最高だ。アーサーは今日の紅茶は何にしよう、と思案しながら階段を降りた。
「おはよう、ルエト。朝食の支度は終わったか?」
アーサーの声に、メイド服を着込んだ少女がゆらりと振り返った。その顔に表情はなく、ただ魚のように虚ろな瞳には何も映っていない。ただ少女は手に持ったベーコンとスクランブルエッグが乗った皿を、ひどく緩慢な動きでダイニングテーブルへと移した。
彼女は、屍者だ。
18世紀も終わりを迎えようかという頃、この大英帝国に恐るべき技術がもたらされた。それが、屍者技術だ。
死人に、抜けた魂の代わりに擬似的な霊素を埋め込み、再び立ち、歩くことができるようにする奇妙な技術。フランケン・シュタイン博士が最初の1体を作り上げてからというものの、その技術は瞬く間に世界中に広がっていった。もちろん反発が無かったわけではない。けれど今では、窓から外を見やれば屍者の郵便配達員が郵便受けに手紙を投函している。100年足らずの間に、世界はすっかり屍者で溢れかえった。
屍者はとにかく安価だ。なにしろ元手が安いのだ。人は死後葬式だ墓だと金がかかるばかりだったが、屍者にすればそれがかからない。その上、遺族にはきちんと謝礼金まで払われる。墓に割かれていた土地は空くし、万々歳だ。まあ、葬儀屋は商売上がったりだが。
屍者は、プログラミングさえすれば大抵のことはこなすことができる。今では電信のほとんどは屍者が行っていると言っても過言ではない。今まで人間が行っていた単純作業は、今や屍者の仕事だ。
プログラミング次第で大抵のことは行える、便利なクリーチャー。思考能力がないので、主人に逆らうこともない。となれば、屍者が蔓延るのも当然の摂理と言えた。
「ルエト、今日は濃い目のセイロンティーの気分だ。淹れてくれ」
命令を飛ばせば、ルエトは緩慢な、魂を感じさせないフランケンウォークでキッチンへと戻る。家事に特化させたプログラミングをしてあるルエトが淹れる紅茶は、俺が淹れる紅茶の味と遜色ない。既にポットの用意だけはしてあったのか、数分もしないうちにポットを抱えたルエトがダイニングに戻ってくると、部屋がやわらかな紅茶の香りで満たされた。
「今日も美味そうだな。……いいか、ルエト。今日も絶対に外に出るな。庭の手入れもしなくていい。買い物は俺がやる。いいか、誰にも見つかるんじゃないぞ」
紅茶に口をつけながらそう命令すると、ルエトはまたゆっくりと頭を下げ、その場に控えた。
この家には、ルエトひとりしか屍者がいない。アーサーとルエト、二人……いや、正確には一人だけの暮らしだ。本来なら、ルエトに買い出しも、庭の手入れもやらせるようなプログラミングを組み込めば、もっとアーサーの生活は楽になるだろう。けれど、それはできない。それだけは、どうしても。
何故なら――ルエトは、無認可の、法に反する屍者だからだ。
『女性形のクリーチャーは、これを禁ずる』。女王陛下の御世に、存在することさえ許されない女性の屍者。倫理規定に違反した存在。それが、ルエトだ。
けれど、彼は思う。男性と女性に、どんな差があるのかと。男性しか屍者になれないわけではない。女だって、技術的にはなんの問題もないのだ。なら、できるはずだ。できるに違いない。ただ、やらないだけで。そんな経緯で死体技術者に無理を言ってつくらせた『ルエト』は、アーサー以外の誰にも認識されてはならない、この世で唯一の動く少女ゾンビだ。
国であるアーサーがこんなことをしているなんて知れたら、それこそ何が起こるかわからない。女王陛下に知れたら一巻の終わりだ。けれど、それでも俺は。アーサーはひとりごちる。
「お前をな、死なせたくなかったんだ」
光が入り込まない瞳が、アーサーの姿を映した。
ほんの少し前まで快活に輝いていた瞳は、今では色あせている。アーサー様、と呼びかける鈴のような声は、もう聞こえない。唇からこぼれるのは、ただ魂のない呼吸音だけだ。
人は死ぬと21グラム軽くなるという。それが魂の重さだ。たった21グラムが抜けただけで、ひとはこんなにも生を感じない姿になる。だからこそ俺は、それを求めるのだ。
「なあ、ルエト。お前は魂が欲しいか?」
問いかけると、ルエトの体がぐらりと揺れた。屍者は体幹が弱いため、ただ立つだけでもバランスがうまく取れないのだ。けれど俺はその傾きを是と受け取り、言葉を続ける。
「お前だって自由に外に出たり、喋ったりしたいよな。わかってるんだ。けど、今のお前は見るからに屍者だからな。だから、もう少しだけ待ってくれないか」
すぐに、お前に魂を入れなおしてやるよ。
そうしたら、またあの宝石みたいにきらめく瞳を俺に向けてくれ。春を告げる妖精のような暖かい声で、俺の名を呼んでくれ。
「……もうすぐだから、待っててくれよ」
ルエトの体がまたゆらりと傾いだのは、きっと俺の声が聞こえているからだ。大丈夫、ルエトはきっと元に戻る。だから――。
彼は期待だけを胸に電話を取り、ダイヤルを回した。
「もしもし、Mか?ああ、俺だ。例の手記はまだ――」
20151102
屍者の帝国パロ
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