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いつから鬼が自分だと

逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!
縺れる足を前へ前へと動かし、私は霧烟る街、HLを駆けていた。5センチのヒールがこんなに走りづらいものだと思わなかった。数歩走るたびに前に転がりそうになる体をなんとか保ち、私は走る。止まれない、止まってはならない。止まったら最後、私はあの暗闇の中に引きずり込まれてしまう。
まさかライブラの事務所から自宅アパートまでの数分間の道のりで、異界生物による違法ドラッグの取引現場に出くわしてしまうなんて、だれが予想しただろうか。今までそんなことは一度だってなかったのに、今日に限って!しかもそれは数日前からライブラが追っていた麻薬だ。吸引したものの身体能力を跳ね上げ、肉体改造にも等しい効果を与える薬。一度に多量摂取すれば、肉体への過負荷と引き換えに強大過ぎる力を得ることもできる。これ以上流通する前に差し止めなければ、何が起こるか分からない。だからこそライブラが四方に手を尽くしていたというのに、まさかこんなところで!
日ごろの運動不足がたたってぐらつく足を何とか叱咤して走るが、後ろから迫ってくる怪物たちの気配と足音は消えない。追跡されたままじゃ事務所に戻ることも、家に帰ることもできない。
私は、どうすれば。目の前が真っ暗に閉ざされようとしている中で、携帯と連動しているイヤホンがコールを知らせた。

「っ、アロー、こちらルエト!」
「アロー。ルエト、何かあったんだろう?」
「スティーブンさん、あの、クスリ……!取引現場、見つけて、追われて……っ!」
「そうか。GPSが妙な動きをしていたからね、連絡して正解だった」
「あの、そんな、剣呑にしてないで、たすけて……!私、もう……」

呼吸もとぎれとぎれに何とかスティーブンさんに返答するが、実際問題私の体力はもう限界に近付いている。すぐにでも助けてもらえなければ、私はあの昏い路地裏へと引き込まれ、二度と日の当たる場所に出てくることはないだろう。

「おねがい、助けてください……!」
「ウィ。ルエト、あと2分逃げ切ってくれ」

その言葉を最後に、ぷつりと通信が途切れた。
2分。世界で最も長い2分を、私は1人で脱出しなければならない。後ろには、まだ闇の気配がある。たかが2分、されど2分。私は震える拳で太ももを軽く叩き、ただ前へ足を動かした。
あと1分50秒。スティーブンさんが来てくれるのならば、せめて広く、人気のないところまで誘導しなければ。エスメラルダ式血凍道は、広範囲に効果を及ぼせるのだから、それを最大限に活かさなければならない。ならば、私が行くべきなのはセントラルパークだ。この時間なら、人気もないだろう。元メトロポリタン美術館周辺には水辺もあるし。私は無作為に選んでいた道を、セントラルパークへ向かう道へと切り替えた。
残り1分30秒。パークまではそう遠くない。メトロポリタン美術館の特徴的な屋根を視界の端に映し、私は赤信号の横断歩道を駆け抜ける。
残り1分。セントラルパークの入口は500m先だと示す看板を無視して、私は低い柵を飛び越えた。入口なんていちいち探していられない。柔らかい土の地面にヒールをとられそうになりながら、私は花壇を抜けて広場を疾走した。
あと40秒。綺麗に舗装された道を選んでいる余裕なんてもうない。ここまで走り続けた私の呼吸はもうあと数秒しか持たないだろう。きっとブーツの中で、タイツのつま先は破れてしまっている。膝はもう限界だと訴え、がくがくと震えている。
けれど、それでも私は走らなければならない。メトロポリタン美術館前まで、あと数十メートル。縺れる足を前へ前へと進める。あともう少し。あと30秒。あと20秒。メトロポリタンの華美な装飾が施された外壁が木立の間に見えた、そう思った瞬間、私の体は撥ね飛ばされていた。

「や、嫌ッ!」

バッチリ薬をキメていた異界生物の太い腕に体の横から殴りつけられ、私は木立の中に弾かれた。衝撃で目が回って、一体何が起こったのかが把握できない。けれど今視界に大きく映っている黒い塊は、きっと今私を殴った異界存在だ。

「鬼ごっこは楽しかったか」

不明瞭なエフェクトがかかったような声で、塊は私を嘲った。一瞬のことが、ひどく長く感じる。すべての動きがスローモーションのようだ。スティーブンさんに指定された時間、逃げ切ることができなかった。私の頭が潰れるのと、スティーブンさんがここに来るのとではどっちが早いかと考えてはみるけれど、どう考えても私の顔と数センチしか離れていないこの太い腕が私をつぶす方がよっぽど早い。
――ああ、駄目だ。ぎゅっと目を閉じた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。

「いつから自分が鬼だと思ってたんだい?」

冷たい水滴が鼻先に飛んできて、思わず私は目を開けた。

「1分54秒……まあよく逃げた方かな」
「す、スティーブンさん」
「もう大丈夫。君を追いかけてた集団は全部片づけたし、本命の方も回収中だ」

白い粉がたっぷりと詰め込まれた袋を左手で弄びながら、彼は右手を私に差し出した。やっと戻ってきた視界であたりを見回すと、私の真横に巨大な氷の塊が転がっており、彼の後ろには白い道が出来ていた。

「助、かった」
「お疲れ、ルエト。立てる?」
「立てま、せん……」

ぜーぜーと今にも死にそうな荒い呼吸を繰り返す私を、スティーブンさんは顎に手を当ててふむ、と言いながら見下ろす。まさか、ここにこのまま置いて行ったりはしませんよね?必死に視線だけで訴えると、彼の赤銅色の瞳が少し緩んだ。

「分かったよ。ルエト、今日はうちに泊まっていきなさい。まだ残党がいる可能性もあるからな」
「へ、え?」

手元に差し出されていた彼の右手が、私の背中に回る。氷の使い手とは思えないほどに温かい手の温度に感動する間もなく、私の体は宙に浮いていた。
――いわゆる、横抱きをされた状態で。

「やっ、ちょっとスティーブンさん!?」
「立てないんだから背負うこともできない。大人しくしてなさい、すぐに車に着くから」
「立てます、立てますよ!」
「こんなに足が震えているのに?ああ、明日は筋肉痛を覚悟した方がいいぞ」

それに、こんなの一度や二度じゃあるまいし、とスティーブンさんの唇が微笑みのかたちに動く。
確かに横抱きにされたのは1回2回どころではない、けれど、誰に見られているか分からないこんな屋外で!

「こんな暗い中で、誰も見ていやしないさ」

私の精一杯の反論と抵抗を、彼はウインクひとつで溶かしてしまうのだ。もはや横暴で優しいスティーブンさんに抵抗する気力もなくして彼の胸に体を預けると、頭上でくすりと笑う音が聞こえた。


20151020


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