俺と彼女の3日間、2日目・昼
ルエトとともにマドリードにあるアントーニョの邸宅から出て数時間、朝からプラド美術館、マドリード王宮、ソフィア王妃芸術センターとあちこちを観光して回った俺たちはチョコラテリア・サン・ヒネス――スペインで最も有名なカッフェにいた。スペインには『マヨール・プラサ』と呼ばれる広場はいくつかあるが、その中でも最も有名なマドリードのマヨール・プラサのすぐそばにあるこのカッフェは19世紀からの老舗で、マドリードに住む人々なら知らない人間などいないというくらいの有名店。
世界の美食を愛するお兄さんではあるが、ここに来るのは初めてだ。そういうと、ルエトは一瞬目を見開いてから、嬉しそうに俺の手を引いてここまで連れてきたのだ。
「ん、初めて来たけどこれ旨いね」
「でしょう?マドリード市民の魂の味だからね」
綺麗なきつね色に揚がったチュロスを一本チョコラッテにディップしながら言うと、ルエトはにこにこと笑いながら、自分もチョコラッテに浸したチュロスを口に放り込む。甘いチョコレートとチュロスに頬を緩めるルエトの口元についていたチョコを拭ってやると、一瞬だけ彼女は目をぱちくりとさせた。
「ついてた」
「言ってくれたら自分で取るのに!」
「だってラテン男だもん」
ラテン男がそんなこというと思う?と聞けば、ルエトは諦めたように小さく溜息を付いた。お前もラテン人なんだから慣れているんじゃないのかと思っていたが、違うのだろうか?ルエトの頬に触れた指を離して手についたチョコレートをそのまま口に運ぶと、ルエトはそれだよ!とチョコラッテのカップを指先ではじいた。
「うちの男性がやるのは習性みたいなものだからもっとさっぱりしてるというか、軽いんだけど……兄さんのは何ていうか、こう……動作が綺麗すぎて心臓に良くないの」
「えっ習性なの」
「なんでそっちを」
「いや、インパクトがあったというか、ものすごく適切だったというか……」
「ああ、うん……」
広場の向こう側でルエトが言った通り、習性のように道をゆく女性に可愛いね、素敵だね!と声をかけている男性たちを横目に、俺はかじりかけのチュロスを口に放り込んだ。
確かにうちとあいつではナンパの質は違うかもしれない。なるほど、そういえば俺もアントーニョの前ではルエトにこんなふうに触れたことはなかった。というより、やろうとしようものなら、アントーニョがすっ飛んできて俺に蹴りを食らわすだろう。かつてまだ幼かったルエトに挨拶のベーゼを求めたら、助走をつけた全力の膝蹴りをいただいた経験上、間違いない。あいつ、モンペだからなぁ。
「そうだなぁ……確かに俺、いつも本気で口説くつもりでやってるな」
「でしょ?そういう本気のは、ほんとに好きな子相手だけにしとかないとだよ」
まだ口をつけていないチュロスを教鞭のように持ち、ルエトは俺の鼻先にそれを突き付けてきた。綺麗な色の瞳で俺の目をじっと見つめ、真面目に口元を引き結んだ表情で、叱るように言葉を続ける彼女に向かい、俺は白旗を上げるかのごとく両手をあげて降参の意を示す。
「わかった、むやみにはやらないよ」
「分かればよろしい。」
まさに教師か警察官か、そんな台詞を言いながら悪戯っぽく笑うルエトが、俺に突き付けていたチュロスを引こうとした瞬間、俺は下がっていくルエトの手を取り、かぷりとチョコレートの付いていないチュロスの先にかじりついた。
ほんの数秒前まで笑みの形を作っていたルエトの目が一瞬で大きく見開かれ、手から力が抜けていく。
「うん、美味いな」
「……あ、えっ、な、何、何してるの!?」
手を離してやった途端、ルエトの手に握られていたチュロスがぽとりとトレーに落ちる。ガタガタと椅子を鳴らして驚かなくてもいいじゃない。そんなに嫌だった?少しショックを受けつつルエトの顔を見ると、もともと血色のいい頬が、いつもよりずっと真っ赤になっていた。
……どうやら、嫌がられたのではないらしい。
「ルエトが、ほんとに好きな子にしろっていうからね。お兄さんが今一番可愛いと思ってる子にだけすることにしたの」
「か、からかってるんだ!そういうのよくない!」
「からかってないって、お兄さんはいつでも本気。俺は、ルエトが一番かわいいと思ってるよ、お姫様」
本当の本気の言葉を口にしながら自分の皿に残っていたチュロスをチョコレートに放り込むと、ルエトは小刻みに震えながら、両手で顔を覆う。
「フラン兄さんの……ばかぁっ!!」
どこかで聞き覚えのある罵声を震える声で絞り出すクロエ。ちょっと、その台詞使わなくてもいいじゃない、と言いかけた俺の口に、まだ温かいチュロスが押し込まれた。
20150925
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