前途多難
ばちこーん。一目見た瞬間に、そんな効果音が俺の胸に突き刺さった。
いや、なんだよこれ。こんなの知らないぞ。何なんだよ、このぞわぞわとした、けど熱くて痛い感覚は。
「おやおやー?とうとう童貞のアーサーにも春?」
「童貞じゃねぇよばかぁ!っつーか、お前は知ってんだろ。あの、カリエドのとこにいるあいつ―――」
「ルエトちゃん?」
「ルエト……そうだ。フルネームは知らないけど。」
俺を小ばかにしたような顔で紅茶を飲み下すフランシスに怒りを覚えながらも、俺はジャケットの裾を握りしめて耐えた。そう、耐えなければ。だって今俺は―――恋を、しているのだから。
アントーニョ・フェルナンデス・カリエド。かつての怨敵で、現在でも何かと顔を突き合わせるたびに一瞬お互いの眉根が寄るような関係の、海の向こうの国。お互いに強い興味があるわけでもなく、EUからも一歩引いた位置にいる俺には、あいつと強い結びつきがない。だから、ほんの少し前まで知らなかったのだ。あいつが、人間の少女を育てているだなんて。
そして、一番予想外だったのが、俺自身が、あいつが連れてきた少女の笑顔にやられちまった、ということだ。
「ていうかさ、お兄さんとしてはあんまりルエトはお勧めしないな。」
「はぁ?何でだよ。」
「お前とアントーニョの関係、弁えてるだろ。それに、あいつはああ見えてかなり過激派モンペだ。まあフェリちゃんやローディみたいな、昔からそれなりに関係を持ってきた奴らなら、そりゃアントーニョも納得するかもしれないけど、お前はちょっとな。」
フランシスが、持参してきたケーキをつつきながら言う。全くの正論だ。もちろん、カリエドが俺のことを簡単に認めるとは思わない。
だが、今こそルエトを妹分と称し、ルエトからも兄と呼ばれるギルベルトとフランシスでさえ、昔は隔離されていたらしいじゃないか。なら今から少しずつ攻めていけば、いつかは勝機があるはずだ。俺の戦略をなめるなよ。恋の葬式会場はどこの飲み屋にする、などと言い始めたフランシスの顔は憎たらしいが、もう少し我慢しなければなるまい。
俺は、この恋と言う戦争に勝利するために、どんな手段だって使ってやるんだ。
そして戦場は俺の庭園から、情熱の国へと移る。
俺はスペインの首都、マドリッドにいた。基本的に俺たちの住居は首都にあるものだ。詳しい場所もフランシスから聞き出してある。完璧だ。
いつもの軍服ではなく、イギリス紳士にふさわしいジャケットコーデを身につけたものの、ラフな服装が好まれるこの国では多少浮く。浮くが、仕方ない。今更かもしれないけど、第一印象は大事だろう。手には俺の庭に咲いたリナリアの花束、髪もワックスできちんと整えてきた。フランシス監修のもとにスタイルを決めてきた俺に、向かうところ敵などない。さあ、突撃だ。浮ついた足取りで、俺はカリエドの家へと向かうべくタクシーを捕まえた。……この国のほとんどのタクシードライバーがスピード狂であることなど、知りもせずに。
「うっぷ……なんだよこの国、道路交通法っつーもんはねぇのかよ……」
タクシーから降りた俺は、完全にグロッキー状態だった。いや、あのスピードはおかしいだろ。自国の車とは違う左ハンドル右通行にプラスして、ここはハイウェイかと言いたくなるような超高速運転のせいで、視界はぐらぐらと揺れる。胃が痛い。頭痛までしてきた。
だめだ、ここで倒れるな。倒れたらリナリアが台無しになる。せっかく腹を切る思いでフランシスから教授を乞うたコーディネートも崩れてしまう。踏みとどまれ、俺。やればできる。必死の思いで揺れる視界を押さえつけ、俺はカリエドの家へ――――!
「……ええと、カークランドさん?うちに御用ですか?」
突然背後から聞こえてきた鈴を転がすような声に、俺ははっと重い体を翻し、声の主を視界に収めるべく足をくるりと反転させ―――る、つもりが。
ごきり、と嫌な音がして、俺の体はあらん方向へと曲がった。
「か、カークランドさん!!」
ああ、やっぱり。この声は、ルエト。ルエトじゃないか。お前に会いたくてここまで来たんだ。顔をよく見たい。けれど、今俺の視界に広がっているのはルエトのロングスカートのすそと、地面と、青い空。俺を呼ぶ声がゆっくりと遠くなり、俺の視界はコマ送りのようにかちかちと流れ―――ごちん。視界は黒く染まった。
「もー、ルエトは優しすぎてあかんわー。知らん男はうちに入れちゃあかんて言うとるやろ」
「一応、知ってる人だったし……それに、父さんのお客さんじゃないの?」
「おん?今日カークランドが来るなんて聞いとらんよ。会議かてこないだ行ったばっかやし」
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が見えた。少し離れたところから聞こえる声は、カリエドとルエトだろうか?何度か目をこすると、後頭部がじわじわと痛み始めた。ああ、俺はルエトの目の前で思いっきり転んだんだ。最悪だ。最悪にかっこ悪いじゃねえか。ひりひりと痛む部分に手をやると、タオルにくるんだ保冷剤がくっついていた。ルエトがつけてくれたのだろうか?あーもー、ルエトはいいやつだな……!
保冷剤が頭から外れないように抑えながら上半身を起こすと、カリエドが真っ先に気配を感知して振り向いてきた。違えよばか。俺が寝起きに見たかった顔はそっちじゃねぇよ。
「起きたんか。お前、なんで俺ん家の前で転がってん?」
「あー……車酔いで……」
「マジか。そういやお前ん家は左側通行やっけ?そりゃ慣れんとキツいわな」
ルエト、水持ってきたれ、とカリエドが声をかけると、俺の視界に入らないまま小さな足音が遠くへと消えていった。あー。カリエド、頼むからお前が行ってくれ。俺が会いたいのはお前じゃないんだって。頼むから。
寝かされていたソファからごそごそと体を起こし正しく座りなおす。着てきたジャケットは、残念なことに皺だらけだ。俺が皺を見て顔をしかめていると、空いたスペースにカリエドが強引に滑り込んできた。
「で、お前何しにうちに来たんよ」
「いや、それは……」
「アポもなしに、仕事の話でもないやろ?それなら電話で済むことやしなぁ。こんなキザな恰好で花束まで持ってきて、何のつもりや?」
ローテーブルに乗せられているリナリアの花束を指さし、カリエドはのんびりとした口調で質問を重ねる。けれど、その目は穏やかではなく、かつて敵対していたあの日のような鋭さを持っていた。
分かってた。こういう対応を取られるだろうことは最初から分かっていたさ。けれど、こんなことで負けるわけにはいかない。ぎゅっとスラックスの膝を掴み、俺はゆっくりと顔をあげる。
「カークランドさん、お水持ってきましたよ。」
ぴくり。カリエドを睨もうと上げた顔が、思わず弾かれるように声の方向へと向いた。揺れるロングスカート、柔らかそうな髪――ルエト!
「ルエトっ……さ、ん」
「急に倒れたからびっくりしましたよ?お水をどうぞ。」
「ああ……ありがとう。」
ルエトの手からそっとグラスを受けとる。その手に俺の指が触れることはなかったが、しなやかな手つきでグラスから離れていった指の動きに目を奪われ――――やめろよカリエド、そんな目で睨むなって。
諦めてグラスをあおると、よく冷えた水がまだ眠っていた意識をきっちりと覚ましてくれた。
「その、ありがとな。……Ms.ルエト」
「敬称なんて、そんな……!私のことはルエト、と」
「おーーーーっとそこまでやでーーーー!!いやールエトありがとな、もう下がってええで!カークランドと仕事の話があるからな!ちょっと経済についてな!ユーロとポンドの貨幣価値の差についていっぺん深く話し合う必要があると思ってたんや!!な!!」
「ぐえっ!?」
突然体当たりをかまされた挙句にスリーパーホールドを喰らい、俺の意識はまた一瞬途切れかけた。何するんだよこの野郎。俺はまだルエトに気の利いた言葉一つ掛けられてねぇじゃねーか!白く塗り替わりかけた視界を取り戻すべく、無理やりカリエドの腕と俺の首の間に手を挿し込み、なんとか気道を確保する。舌打ちが耳元から聞こえた気がするが、気のせいだ!
「あの、ルエト!その花――お前に!俺が育てた花なんだ!」
苦しい中で何とか声を張り上げると、今にも立ち去ろうとしていたルエトがきょとりとした表情で振り向いた。ルエトの視線がローテーブルの上に置かれたリナリアへと動き、それから俺の顔へと戻ってくる。
「えっと……私に?」
「そうだ!べ、別にお前のためじゃ」
「はい時間は有限やから無駄話はナシやでーーー!!!ルエト、はよ下がりい!」
「ゴファァ!」
お前が時間は有限とか言うのかよ、このルーズ国家め!てか、スリーパーホールドからのコブラクラッチはさすがに卑怯だろ!!死ぬ、死ぬからやめろ!腕を思い切り叩いてタップアウトを示しても、俺の首をギリギリと締め上げるカリエドのホールドに躊躇いは無い。これは、まずい――。
ぶつんと意識が途切れるほんの一瞬、リナリアの花束を胸に抱いてほんの少しだけ頬を染めるルエトの姿が見えたのは、夢や幻なんかじゃないと思いたい。
まあ、次に目が覚めたときに俺が見たのは笑いをこらえる髭野郎のツラだったんだけどな!!台無しだ!!
「で、ルエトとの進展は?」
「ダメだった。次は、次こそ……」
「まあ、道は長いってことで。今日は協力したけど、本来は俺もあっち側なんだからな?」
「マジかよ」
「だって俺たちの大事な妹分、だからね」
ばちこーんとウインクを飛ばすフランシス。仮にこいつを倒してもその後ろにはギルベルト、そしてあのモンスターペアレントがいる……この恋は前途多難、道は果てしなく長い。
それでも、諦められるもんかよ。俺は絶対、絶対にカリエドを倒してルエトの隣を勝ち取ってやるんだからな!!
20150820
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