どうか一緒に飛び降りて | ナノ

秘密の隠し場所


 もう暫くは外に出なくていい。なんて思ったのはその日だけで、小心者であったはずの私は翌々日には既に六本木の街中へ立っていた。
 両親はいなかった。実家もなかった。聞けば蘭くんは怒るし竜胆ははぐらかす。そこは別にいい。いや、よくはないのだけど必死になって探そうとは思わなかった。ただ、私は納得したかったのだ。記憶喪失である事実を受け入れ、失くした記憶を取り戻し、全てを知った上で「ああ、そうだった」と受け入れたいだけだ。これが昨日、蘭くんから「熱でもあるんじゃね?」と小馬鹿にされても一晩中悩み抜いた末得た結論だ。
 とは言え、記憶を取り戻すと言ってもどうすればいいのか。あんな事があった手前、意識を失っていたと言う一週間お世話になった――と思われる総合病院の医師に相談するのも憚られた。それにあの医師は蘭くんを恐れていたようだったし、万が一連絡が行ったら事だ。しかし、そうなれば尚更手段は限られる。ドラマや漫画では、よく通っていた道を歩いたり所縁のある人物を尋ねたり、学校や職場など手掛かりになりそうな場所を回ってみるものだが、私の場合効果は期待できそうにない。だって私は、友人達との縁も切れているし、寿退社したという職場の場所さえ知らないのだ。少しでも手がかりがあればと願いながら、六本木の街をあてもなく歩いていた。

 人の出入りの激しい街は、十六歳当時と比べ様変わりしていた。仕方のない事とは言え、馴染みのアクセサリーショップがなくって別のブランドが入っている現実には少々込み上げてくるものがある。
 ああ、私本当に記憶喪失ってやつなんだな。最近になってようやく受け入れた二十八という年齢に見合う姿をウィンドウへ映せば嫌でも実感出来た。大丈夫、二十八にしては若いって。顔立ちは大人びて高校生当時は慣れなかった化粧だってしっくりくる。まあ、ボディラインはあまり成長しなかったみたいだけどメリハリはまあまああるんじゃないかな及第点だよ――なんて自分を励ましてみたりして。

 まず最初に立ち寄ったのは銀行だった。先日の電車賃で財布の中は閑古鳥が鳴き、無一文同然だった私は二十八の自分へ感謝する事となる。
 意外な事に私はしっかり貯金していたらしく、通帳に表示された額は想像より一桁多かった。しかも引き出した形跡は、ほぼほぼない。なんのためにこんな額貯金していたんだろう。蘭くんに逆プロポーズを決めたくらいだし、指輪を通り越して家でも買うつもりだったのだろうか。実際、家を建てるにはどれくらい要るのかなんて知りもしないくせに妄想を膨らませ、自分自身に謝罪を添えながら数枚の一万円札を引き出した。なにかを買う気もないけれど、一応念のためだ。

「苗字さん?」

 あ、そのピアス、蘭くん好きそう――ディスプレイを覗く私の背中に知りもしない声がかかった。特別珍しい苗字でもないし、苗字さんが別の人だったらどうしよう、その時は知らんぷりして店を出よう。そう決めて振り返る。声をかけてきたスーツ姿の男性は、驚いた顔をして私を見ていた。どうやら男性の呼んだ苗字さんは、私で間違いなかったらしい。

「やっぱり苗字さんだ。久しぶり、突然寿退社なんて決めるからビックリしたよ」
「! ああ、久しぶり……です。その節はどうも……えっと、ご迷惑をおかけしました」

 寿退社。以前も耳にした単語に、男性が私の前職の同僚である事は直ぐに気が付いた。ただ、どう接していいものか分からず、とりあえず愛想笑いだけ浮かべて捻り出した大人らしい挨拶を並べ立てた。しかし、十六歳が必死になって考えた挨拶は、一社会人である男性からすれば拙いものだったようだ。見る見るうちに男性の表情が曇っていく。心配そうに「苗字さん、具合でも悪いの?」と問いかけられた時には顔から火を吹くかと思った。

 心配症の気のある元同僚に連れられて、近くのコーヒーチェーン店へ足を踏み入れた。正しくは、踏み入れてしまった。小さな丸い木のテーブルを挟み、向かい合わせに座る私達の前には揃いのホットコーヒーがある。どうしよう、私ブラックコーヒーなんて飲めないのに。

「すみません、私コーヒー代払います」
「いいよ。たった数百円だし気にしないで」
「ありがとう、ございます」

 プラスチックのカップに口をつけたまま柔和に微笑んだ男性に、私の身体はますますすくみ上がった。帰りたい。小心者の自分が顔を出す。記憶を取り戻すのだと意気込んで外出したくせに情けないばかりだ。

「落ち着かないよな。苗字さんはいつも灰谷さん付きだったからあまり話した事もなかったし」
「灰谷……蘭くん?」
「そうそう、灰谷蘭。てかそんな風に呼んでるんだ。ま、そうだよな夫婦だもんな」

 咄嗟に否定しようとする私を左手の指輪がそっと押さえ込む。否定したところでなんになる。余計に事態をややこしくするだけだろう。冷静な自分が囁いていた。
 しかし、曖昧に笑って見せれば、男性はますます表情を曇らせた。何かを言いたげに唇を小さく動かせてそれからまたコーヒーを飲む。その仕草は、気まずい思いをしている私が蘭くん相手にする仕草そのままだ。こう言う時、蘭くんは鋭いから「で、早く話せば」と長い指先で私のカップを奪い取り先を促してくるのだけど、それは長年の積み重ねがあるからこそ出来る会話だ。ほぼ初対面であるはずの男性相手に出来る筈もない。かと言って話題を変えるのも違う気がして無言の間が続いた。男性がコーヒーを机に置く。意を決したようだった。

「正直、心配していたんだ。あんな事もあったから君があんな場所から落ちたのは故意の犯行だったんじゃないかって」

 男性の言葉に全身が震えた。この人は、私が記憶を失う原因になった事故を知っている。どうする、話を合わせるか。いや、ボロが出れば終わりだ。記憶喪失の事を知られれば厄介だ。けれど、このまま用事を思い出しました、なんて逃げるのはあまりに勿体ない。せっかく見つけた手がかりなのに。
 次に決意するのは私の方だった。小心者の自分に蓋をかけて膝の上で両手を固く繋ぎ合わせる。大丈夫、きっと全部上手くいく。

「一つ、お願いがあるんですけど」

 だから、私は一か八か行動に出てみようと思う。



 私が男性にしたお願いは至ってシンプルだ。あんな事もあって急な退職になってしまったから忘れ物をしてしまった。今から取りに行かせてほしい。たったそれだけ。よくよく考えてみれば、世間一般でいう休日に会社内に入るなんてそう簡単には出来ないし、同僚でしかなかったはずの男性相手になんとも厚かましいお願いである。しかし、男性は「いいよ」と頷いた。私に何が起きたのかを知る第三者は、蘭くんとは違う日本人らしい黒の双眼に同情の色を乗せて席を立った。

 職場だったというビルは六本木に在った。私だって馬鹿ではない。ドラマの知識とは言え、蘭くんも関わっているここが所謂フロント企業と呼ばれる怪しい会社である事くらい理解している。反社会的勢力が資金を回すために利用しているにしてはちゃんとしているように見えるオフィスを横目に捉えつつ、私の足は廊下奥へと進んでいた。
 男性には時間がかかるので一階ロビーで待っていてくれるようにお願いした。人の良い男性がエレベーターで降りて行ったのを確認して、廊下を進み、緑色の明かりのついたパネル下の細長い扉を開く。冷たい風が頬を突き刺すようだった。いつの間にか空は暗くなっていて、鈍色の鉄製階段もヒンヤリとした空気を纏っている。
 下と上、両方を見上げる。なんとなく下ではないと思った。記憶はないけれど直感で、私が落ちた場所はきっと上層階なのだと一種の確信を抱いていた。迷いのない足取りで階段を登る。カンカンと鉄とヒールがぶつかる音が大きく響いて、一階、二階と高さが増していく。息が切れて肩で呼吸をしていた。錆びた手摺を掴んで呼吸を整えて、やっとの思いで屋上に辿り着いた。

「……たかぁ」

 非常階段は一通り見て回った。私が落ちたという場所が何階なのかは、分からなかったけれど。
 地上十五階なだけあって吹き付ける風はさらに強さを増し、春だというのに肌寒い。カーディガンに覆われた腕を抱きながらフラフラと屋上へ上がった。
 貯水庫と幾つかのベンチが置かれた屋上は、落下防止のためか柵が設けられていた。遠くからでも分かるくらいには見晴らしが良く、なんとなく近くで真下を覗いてみたくなった。もう帰ろう。意味もなく街を見下ろせばきっと諦めもつく。そう簡単に記憶なんて戻らないのだと。
 納得をしてフェンスに指をかけた時だった。誰かの足音、否走る音が聞こえたかと思えば遠慮のない力で肩を掴まれた。そのまま後ろに放り投げるように引き倒される。肩が外れたのではないかと思うほどの激痛と、満足に受け身も取れず倒れ込んだコンクリートの冷たさに全身が強張った。

 誰だ?

 そんな馬鹿げた問い、口なんて出来なかった。私を引き倒したその人は、倒れ込んだままの私の胸倉を掴み上げた。日本人離れした紫色の双眼からは怒りが溢れている。先日、側頭部を叩かれた時なんて目じゃない。今にも握り拳を頬に埋め込みかねない、そんなマグマのように煮え滾った恐ろしい感情が私に向けられていた。
 私を引き倒し胸倉を掴んだ相手――蘭くんは乱れた前髪を気にする余裕もなく、細かく唇を震わせるくせに言葉はなに一つ発さない。全てが異様で、恐ろしかった。肘をついてコンクリートの上に横たえた腕が無様に震えている。
 なにか言わないと、なにか言わないと。なんでここにいるの? 馬鹿、そんな事聞いたらますます怒るに決まってる。ごめんなさい? ダメ。あの時と違って何に怒ってるのかも分からないじゃない。
 お互い無言を貫いた。とは言ってもそんなに長い時間じゃない。先に口を開いたのは蘭くんで、彼はパッと胸倉を掴んでいた手から力を抜いて私の腰に座り込んだ。支えをなくした私の身体は、またコンクリートに倒れ込む。打ちつけた頭を押さえ唸っている間、蘭くんはすっかり暗くなった空を見上げていた。シャツから覗く首筋にうっすら汗が滲んでいる。もしかして、焦ってここに来たのだろうか。先程私が通った階段を駆け上がって来てくれたのかもしれない、とあまりにも都合の良い妄想をした。心臓が高鳴る。

「蘭くん」
「うるせぇ、口開くな。流石に今は余裕もねぇし大人でいられる自信もないんだわ。顔面ぶん殴られたくなかったら黙って寝てろアホ」

 怒りを押し殺した声に急いで唇を閉ざした。蘭くんの沸点はよく分からない。気が長いようでいて短いし、一度本気で怒ると竜胆でも手がつけられないところがある。
 唇を閉ざしたまま空を見上げた。雲の隙間から月が覗く。三日月だ。笑っているみたい。場違いだななんて意味もない怒りを覚えた頃、蘭くんは「あー」と呻き声を上げて、それからゆっくりと立ち上がった。

「もう良いや。帰るぞ」
「……」
「返事」
「喋っていいの?」
「あ? あーそうだったなぁ。もういいぞ、普通に喋れよ不良娘」

 不良娘、なんてまるで保護者の言い草だ。実の親からも言われた事のない言葉で例えられて少しばかり面食らう。
 蘭くんは膝についた汚れを掌で払ってから、そのまま私へ差し伸べた。記憶しているより硬くなり大きくなった手に、同じく年月を重ねた私の手を重ねれば勢いよく引き上げられる。
 蘭くんは、これ以上怒ったりしなかった。私の手を引いてエレベーターへ乗り込み一階へ降り、誰もいないロビーを我が物顔で歩いて運転手付きの車へ乗り込んだ。人ひとり分の距離を空けて横に座る蘭くんは、窓の外を眺めているのか視線が合わない。

「……」

 ここにコーヒーはないから手持ち無沙汰に弄ぶ事は出来ない。なにか言わなければならない気がするのに言葉にならず、かと言って無言のまま帰宅するのも嫌だった。小心者な私はノミのような心臓を更に縮ませて恐る恐ると横へ指先を伸ばした。先程まで繋がれていた手に再度触れようとしたところで「なあ」と声が響く。

「オマエ、思い出してぇの?」

 別に蘭くんの声に怒りが含まれているわけではない。それでも車内の温度一気に下がった気かして、それは運転手の男性も感じていたはずだ。少しのミスで銃口を突き付けられるのではないかという不安と緊張、恐怖。さすがに私がそれの対象になるとは思えなかったけれど、これ以上場の空気を悪くすることは避けたかった。

「だってモヤモヤするし」
「モヤモヤァ? オレに隠し事までしてこんな時間までほっつき歩いた理由がそれか?」
「待って、隠し事って……え、やだ、気づいてたの!?」
「顔見りゃ分かンだよ。むしろバレてないと思ってた事にビビるわ」

 言われてみればその通りで、これまでの人生、私が蘭くんに隠し事出来た試しはほとんどない。蘭くんの誕生日にプレゼントを用意していた時も「オレ、赤より黒のがいいー」と中身を見事言い当てられた末色の指定までされて、バレンタインも渡すタイミングを見計らう私に痺れを切らせて「さっさとしろよ、亀かオマエは」と皆の前で渡す羽目になった。一緒に竜胆の分も渡すと、竜胆は蘭くんとよく似た目に同情の色を乗せて私の肩を数回叩いた。その他、親と喧嘩した時も、学校で意地悪された時も、同級生から告白された時だって、全部蘭くんはいち早く気が付く。そんな人に、今回のような大掛かりな隠し事など出来るはずもなかった。

 六本木の中を移動するだけなのだから、マンションへ到着するまでそう時間は掛からない。どうやら蘭くんは、このまま用事があるらしく車から降りたのは私ひとりだけだった。

「忘れ物」

 と思ったのも束の間、走り去る車を見送ろうと振り返った私の前に蘭くんは立っていた。スラックスのポケットに片手を突っ込んで立っているだけなのに、エントランスの明かりに照らされた彼は映画のワンシーンのように絵になる。ほんの少しだけ呆けて「どうしたの」と問い掛けるよりも先に、硬い掌が私の頬を掴んだ。いつもの鷲掴むような動きだけど、それよりは少し優しい力加減で引き寄せられる。その際、カチと頬に当たった冷たい感触は、あの高価すぎる結婚指輪に違いない。

「たまには行ってらっしゃいのキスくらいしろよ、バーカ」

 少しカサついてるな、疲れてるのかな、なんて現実逃避をしたくなる。掠めるように触れ合った唇が今度は額に押し付けられて、頬を掴んでいた左手は私の髪をかき乱した。何度か上下へ動き、耳元へ唇が寄せられる。小さく喉を震わせるのが分かった。嘲笑の類であるとは気づいていたが、自分が今どんな表情をしているのかすらも分からないのだ。先程の事もある。文句など言えるはずもない。

「喜べー? 明日は一日オフだからオマエのだぁい好きな蘭くんの事独り占めできるぞ」
「え、う、うん」
「どこ行きたいか考えとけ。な?」
「うん……」
「イイコ」

 髪はボサボサ、表情はきっと冴えない。触れていた温もりは離れて行き、窓越しに優雅に手を振った蘭くんの姿は、あっという間に見えなくなる。ひとり残されたマンション前、誰もいない事を確認してその場にしゃがみ込んだ。頬は異様に熱く、視界は潤む。声にならない叫び声を上げた私の頭の中で、三つ編み姿の蘭くんが「お子様」と鼻を鳴らした。
 さて、困った。明日、どこへ行こうか。

20211123