空の心臓
東京都港区六本木。日本の首都である東京都でも有数の繁華街であるこの街は、当時小学校六年生だった私から見ても華やいでいた。昼はオフィス街を中心に人々が行き交い、夜になればバーやクラブに人が集まる。地元住民と観光客が入り混じり、この街に休まる時は一瞬もない。キラキラと光る街路樹を綺麗ねと見上げた幼き日を今でも鮮明に覚えている。だが、そんな華やいだ裏に物騒事は付き物で、そうなれば必然的に強面の男達も増えるわけだ。街中を我が物顔で闊歩する。夜中にバイクのエンジン音を響かせ、酒を飲み、大声を上げ、喧嘩に勤しむ。そんな連中がいつの間にか広い東京都で最大のチームと呼ばれるようになった頃、蘭くん達は十三歳になっていた。
この頃の蘭くん達は今以上に荒れていたように思う。まず家にいる事がなくなり、過干渉な両親との折り合いはつかず、家庭環境は悪化の一途を辿っていた。どこで寝泊まりしていたのかは私も知らない。昼間や夕方は蘭くんや竜胆の後ろをついて回っていたけれど、夜になれば家に帰らされたからだ。長く伸びた金髪の三つ編みが風に吹かれて揺れる。夕日の沈む街中、私を家の近所まで送り届け竜胆と共に角に消えていく後ろ姿を毎日寂しさに耐え見送った。
蘭くんはお世辞にも正直者とは呼べなかったけれど、私との約束を破る事はなかった。
あの病室で半ば一方的に交わされた約束は今もなお効力を持っており、彼は嫌がる素振りは見せても真に私を邪険にしたりはしなかった。極端な話、ついて行きたいと言えば喧嘩にも連れて行ってくれたので、あの約束は相当彼自身を縛り付けていたと思われる。
だから、私はあの日あの場所に居た。約束の意味も、蘭くん達が喧嘩する理由も、振り上げられる拳や足の意味も、なにも知らない馬鹿な私は、ただ呆然と彼が人を殺す一部始終を見ていたのだ。
「名前、オマエ今日は一人で帰れよ」
「やだ。蘭兄ちゃんと竜胆も帰ろうよ」
「帰れるわけねぇじゃん。見て分かンだろ」
名実共に六本木の頂点に立った齢十三の兄弟は、頬に付着した返り血を拭う事もせず震える私の背中を押す。早く行け。オマエが巻き込まれると面倒なんだよ。そう二人揃って口にする。いくら私が踏ん張って竜胆の袖を引っ張ったって、蘭くんの細い身体にしがみついたって、二人はビクともしなかった。当たり前だ。男の子なのだから。
「じゃ、じゃあ明日は? 明日は会えるよね?」
「無理」
健康的に焼けた竜胆と対照的に蘭くんは色が白かった。街灯の光に照らされた彼は、白い頬、金色の髪、色素の薄い瞳の色、白のスウェットも相まって非現実的な存在にも見えた。それなのに形の良い唇から漏れるのは、希望を打ち砕く言葉ばかりで、私のヤワな涙腺はあっという間に大粒の涙を流してしまう。
蘭くんは私が泣くのが嫌いだ。と言うより泣いてる女そのものが嫌いだ。多分、お母さんを思い出すからだと思う。彼は、心底忌々しそうに一度舌打ちをすると、先程人を殺したばかりの手で私の頭を撫でた。
「少しばかしオレと竜胆はいなくなるけど、後でちゃあんと迎えに行ってやる。いい子で待ってな」
その約束も蘭くんは守ってくれた。だから、私は今もここにいる。浅ましくも彼の隣で息をしている。
蘭くんのマンションにはなんでも揃っている。家電や生活必需品は勿論として、欲しいと思った物は大抵揃っているのだ。すごいね。一度口にしたら無言で頬を抓られた。どうやら本人に必要のない物でも私のために買い与えてくれていたらしい。指輪に引き続き、あまりに身分に不相応な待遇に寿命が縮むかと思った。
「名前、今日は何の日だー?」
革張りのソファの上で優雅に足を組んだ蘭くんの問いかけに頭を捻らせる。今日はなんでもない五月のある一日だ。蘭くんたちの誕生日でもないし、私の誕生日でもない。お互いに共通する記念日のような何かが他にあるとも思えず無言でいると蘭くんは痺れを切らしたようだ。背中に痛みが走り、重さが増す。
「重いよ」
「悪いな、オレの足が長すぎてオットマンじゃはみ出すんだわ」
だからと言って私の背中を足置きにしないでもらいたい。言ったところで退けてもらえるとは思えずテレビに意識を集中させる。それに以前から人の頭を肘置きに使ったりしていたので今更だ。
「名前のくせに無視してんなよ」
「いたっ! 普通蹴る!?」
「文句あんの? それより早く答え言えよ。さーん、にー、いーち」
「ええと、あ、初めて会った日とか!」
「ええ……オマエ、生まれたばっかの頃の記憶あんの……怖」
理不尽だ。灰谷蘭と言う男性は、どこまでも理不尽で自分の中のルールで生きているし、それは三十歳になる現在となっても変わりない。
背もたれに這わせた長い指先でトントンとソファを叩く姿は様になるけれど、同時にどこまでも不穏な雰囲気を漂わせていた。形の良い唇から漏れる「ふーん」や「そう」といった独り言がさらに私の心臓を萎縮させる。細まった眼差しが私の背中に突き刺さった。足先がツンツンと可愛らしく背骨を叩くのが死刑宣告のように思える。けれど振り向かないと後が怖いとも分かっている私は、ぎこちない動きで上半身を捻らせた。蘭くんは笑っていた。自分の造形の良さを最大限に活用して満面の笑みを作り、私を見下ろしていた。
「正解は、オレと竜胆が年少から出てきた日でーす。あンだけ人にしがみついて泣いて喜んでたくせに忘れてんじゃねぇぞ」
私は必死で過去の記憶を探した。これまでの人生が一冊の本であるのなら約三年ほど前の記憶である。すぐにページは見つかった。
「日にちまで覚えてなかった……蘭くん、よく覚えてたね」
言われてみれば確かにそうだ。私は、彼らが外に出てきたのが春であったと記憶していたが、正確な日にちまでは覚えていなかった。それをあの蘭くんが、必要でないと判断したものは例え人であろうと一瞬で忘れてしまうあの灰谷蘭がちゃんと覚えていたとは。
思わず尊敬の眼差しを送ってしまえば、それがまた気にくわなかったらしい。笑みは消え去り、無表情になった彼は大きな手で私の頭を掴むと指先に力を込めた。
「ちゃんとマッサージしとかねぇとまーた忘れちまうからなー」
「忘れないって! ごめんってば!」
細いくせに力が強いのも相変わらずだ。これではマッサージ以前に頭蓋骨にヒビが入りかねないと、実際にはあり得ない想像を膨らませる。必死に謝ったのが功を奏したのか、頭を掴んでいた手は今や蘭くんの頬を支えている。頬杖をついた彼は実に楽しそうに笑っていた。あの甘ったるい目をしたままで。
思えば私が一人で外に出るのは今日が初めてだ。なお、最後の外出は左手薬指で輝くバカ高い指輪を購入した時である。
別に外出を禁止されていたわけではない。退院した時既に家の合鍵は渡されていたし、私が買い物に出たところで蘭くんは文句も言わないはずだという確信もあった。それでも外出しなかったのは、必要な物は全て部屋に揃っていた事と、単に私が外の世界を恐れていたからだ。だって、私が知る六本木の街は十二年前のままなのである。十二年後、携帯電話ですらこんなにも変化を遂げている世の中に一人放り出されるなんて恐ろしいに決まっている。知らない街に一人でぽつんと孤独を味合うなんて考えたくもない。
それでも今回、一人外出しようと決心した理由はただの私なりの意地に他ならなかった。
「……ない」
先日の事だ。両親の所在を問うた私の頭を蘭くんは平手で張った。あの時の彼の瞳は、いつにも増して冷たく恐ろしくて、私は無意識の内に謝罪を口にしていた。シャワーを浴びたばかりの濡れた身体に抱き締められたあの感触は今も身体に残っている。
今、私がいるのは港区六本木からそう遠くない閑静な住宅街だ。目前に立つ大きな家は、記憶していた物とはまるで違う。確かにここは、蘭くん達の生家――灰谷のおじさん、おばさんの家だったはずなのに。動揺し、揺れる眼球を動かして表札を確認する。灰から始まる珍しい苗字はそこにない。動揺を隠す事もなく私は駆け出した。角を曲がって裏の道へと入る。灰谷さんの家の裏には私の家があるはずだと、きっと両親はそこにいるはずだと、僅かな希望に縋っていた。
結果は、分かっていたはずなのに。
「名前、乗れ」
その声に弾かれたように顔を上げた。どうやって駅に辿り着いたのかまるで覚えてい。また、記憶を失ってしまったのだろうか――なんて随分と都合のいい記憶喪失を期待してしまう。
気が付けば駅のロータリーに以前見た黒塗りの高級車が停まっていて、運転席から顔を出した竜胆が助手席のロックを解除していた。
空が赤い。私、何時間ぼうとしていたんだろう。
「なんであんなトコいたの?」
「逆に聞きたい。なんで竜胆、こんなトコにいるの?」
「なんとなく」
「ふぅん……じゃあ私もなんとなく」
いかにも反社会的組織の一員です、というような風体のくせに竜胆は意外と安全運転だ。六本木の蘭くんのマンションへ向けて走り出した車内は、音楽もかかっていないから驚くほど静かでお互いの声がハッキリと聞こえる。
私の要領を得ない返答に竜胆が文句を言う事はなかった。昔はよく喧嘩もしていたのに彼も大人になったという事だろうか。考えてすぐに納得する。当たり前か。だって十二年も経っているのだから。
「兄貴に話してから来た?」
「ううん。蘭くん、私が両親について聞くの嫌みたいだったから」
「オマエにしては賢い判断じゃん」
信号が赤に変わり車が停車する。目の前の横断歩道を渡る子供は、お母さんに手を引かれ嬉しそうに笑っている。こんな状況だ。普通ならそれを見て泣いたり両親を恋しがったりするものだと思う。それなのに私の感情は凪いでいた。起伏がなくなったとも言える。無感動に通り過ぎる親子を見送り、瞬きを一つ落とした。どうやら竜胆はその瞬きを別の意味に捉えたらしい。左の運転席側から蘭くんよりも厚い大きな手が伸びて来て私の頭を乱雑に撫でた。こんな事は初めてで、思わず真横を見上げてしまう。ハンドルに頬杖をついた竜胆は少しだけ頬を赤くして罰が悪そうに唇を尖らせていた。
「……竜胆が初めてお兄ちゃんに見えた」
「オマエより一歳は上だわ、アホ」
横断歩道の信号が点滅して、車道側の信号が青へと変わる。重たいエンジン音と共に、頭の上に乗せられていた重みは離れていった。
「ま、泣きたいなら帰った後にしとけ。昔からオマエの泣き場所は兄貴って決まってンだから」
「いや、泣かないけど」
「あ?」
「別に私、悲しんでるわけじゃないんだよ。動揺はしたけど」
蘭くんと顔の造形はほぼ同じなのに、竜胆は眉が吊り上がっているから蘭くんよりもキツい印象がある。そんな竜胆が眉を顰め、不機嫌を顔に乗せるとそれはもう怖い。幼馴染という関係上私は慣れているけれど、彼ら兄弟を知らない人達からすれば、顔の造りが整っているだけにすくみ上がってしまう程の迫力がある。
「ただ十二年って長いなって思っただけ」
それなのに、なんとなく今は竜胆の顔が見れなくて私は膝の上へ視線を落とした。組んだ指を手持ち無沙汰に動かして、左手薬指の指輪の表面を撫で上げる。冷たい。蘭くんも手が冷たいんだよな。でも流石にお風呂上がりは暖かくて、それで――その間、竜胆は、何か言いたげにしていたように思う。多分、慰めやフォローなんて優しい言葉ではないけれど。
「私には、蘭くんしか残ってないんだなって実感しただけだよ」
竜胆は否定も肯定もしなかった。だからこれは私の独り言でしかない。きっと、蘭くんの耳に届く事はない。なんだかんだ竜胆は優しいから私の意を汲んでくれるはずだ、と信じていた。
窓から見える街並みは、いつしか住宅街から煌びやかな繁華街へと変わりつつある。こちらには一抹の寂しさを覚えるのだから私も薄情なものだ。
まだ慣れない六本木の街を見つめていると硝子越しにこちらを見る竜胆の視線とかち合った。
「そう言えば竜胆、二日前が何の日だったか覚えてる?」
「……覚えてねぇな。なんかの記念日だったっけ?」
「二人が年少から出てきた日だって。蘭くん、覚えてたんだよ。すごくない?」
車内に残る重苦しい空気を払拭するように明るく話題を振ったつもりだった。それなのに竜胆の表情は晴れない。それどころか顰め面まで浮かべて片手を口元に添えて押し黙ってしまう。なにかまずい事を言ったかと焦った。年少に入っていた頃の話は、十八歳当時の二人も時折口にしていたのでタブーだとは微塵にも思わなかったが、十二年間で気持ちが変わってしまったのかもしれない。軽率だったと謝罪しようと竜胆を呼ぶ。しかし、それより早く竜胆が私の名前を呼んだ。
「それ、兄貴が言ったんだな?」
「そうだよ」
「なら……それでいいんじゃね」
会話が終わるのと、竜胆が車のエンジンを切ったのはほぼ同時だった。ハッとして外を見れば、見慣れた高層マンションの前だと気がつく。
「またな」
私は蘭くんの言う通り頭が良い人間ではない。それでも幼馴染の感情の揺れくらいは分かる。そのつもりでいる。だって、生まれた時からずっと一緒にいるのだ。でないと寂しすぎる。だからこそ今、竜胆が何を考えているのかも察する事が出来た。これ以上は何も語るつもりはないのだと、両親の事を問うた時と同じ無言の拒絶を肌で感じ取った。
言われるがまま車を降りて、走り去る黒いボディを見送る。街でなく、自宅――だと言うがあまり信じられないマンションの前でポツンと佇む事になるとは思わなかったな、なんて。
合鍵でオートロックを解除を解除してエレベーターへ乗り込めば、ものの十数秒で快適に目的階へ辿り着く。蘭くんが数年前に購入したと言う一室はワンフロアに二世帯しか入れない作りになっており、現在横の部屋には誰もいない。竜胆いわく、隣人と顔を合わせる事を嫌った蘭くんが裏から手を回して追い出したとか、そもそも関わる事のないようにもう一室購入したとか。
意外と私、竜胆に隠し事されてるな。実を言うとかなりショックを受けている。
部屋の鍵は開いていた。警備もしっかりしているマンションだし、隣人もいないのだからこのフロアに来るのは蘭くん、竜胆、それと私しかいないからだ。それでも不用心には違いなく、二重三重に頭を悩ませながらしっかりと施錠する。
「ただいま」
「おー、おかえり」
蘭くんの声はソファの背もたれ越しに聞こえてくるので、どうやらそこに寝転んでいるらしい。居場所が分かるとなんとなく、そちらへ足が向かった。
「どした?」
案の定ソファに転がっていた蘭くんの前に座り込み、お腹の上に顔を伏せた。するとスマートフォンへ向いていた視線は私へと注がれて、画面をスクロールしていた指先は髪をすいてくれる。その心地よさに額をグリグリと押し付ければ流石に嫌だったらしい。「うぜぇわ」と後頭部を叩かれてしまった。蘭くんは竜胆ほど力が強いわけではないけれど、やはり男性なので軽い力であっても地味に痛む。
「蘭くん」
「んー?」
「疲れた」
「寝れば?」
「このまま寝たい」
「ふざけんな」
そうは言っても実際、気を抜くとこのまま眠ってしまいそうなのである。目蓋はピッタリとくっつきそうで段々意識も遠のいて来た気がした。疲れた。私は本当に疲れている。帰りは送ってもらったとは言え、久々に一人で外出したのだから当たり前だ。けれど、蘭くんはそんな事知る由もない。私が外出していた事実は知っていてもどこで何をしていたかまでは知らない。聞かない。そんな人なのだ、昔から。
溜息を吐かれた。いい加減本気で怒られるかな。顔を上げようとして直ぐにやめた。襟首を掴んでソファの上へ引き上げられたからだ。
「首締まったんだけど」
「ンなとこで寝ようとしてるオマエが悪い」
ごもっとも。
二の次を紡ぐ事も出来ず、置き場を失った頭を今度は胸元に乗せた。多分、ますます重くなっただろうに今回は文句を言わないのが不思議だ。
竜胆ほど筋肉質ではない蘭くんの体温は少し低めだ。だけど耳を寄せた左胸からは確かに心臓の脈打つ音が聞こえる。規則正しく動いて彼をここで生かしている。堪らなくなって胸元のシャツを握りしめて目蓋を閉じた。眠るつもりはない。ほんの少し、五分もすればちゃんと起きるつもりだから。言い訳は声にならずに喉の奥へと消えた。
「蘭くん」
「なに」
「蘭くん、絶対に置いてかないでね」
代わりに口から出たのは、あの日のような我儘だ。髪をすいていた指先が動きを止めて数秒の間が出来る。その後、蘭くんは考え込むように「んー」と喉を震わせて、それからゆっくりと爪の先で私の輪郭をなぞった。ナイフの先を押し当てるように繊細な動きのそれは、やがて喉に深く食い込んだ。
「あまえんぼ」
私をこんな風にさせなのは、他ならぬ貴方だろう。
20211113