どうか一緒に飛び降りて | ナノ

十歳だった私へ


 細く長い首筋に一粒浮かんでいる汗は、夕日に照らされキラキラ光っていてとても甘そうに見えた。
 しがみつく腕に力を込めて、肩に額を擦り付けると微かに嫌そうな声を上げて抱え直される。おんぶされる形で運ばれる私の膝や身体には大小様々な掠り傷や打撲痕が出来ていて、風が吹きつける度ひりひり痛みが走った。中身を全部捨てられてぺちゃんこになった赤いランドセルを片手に引っ掛けた竜胆が、顔についた土埃を払うように拳を押し付けてくる。先程一発殴られたばかりなので、たったそれだけの摩擦でも悲鳴を上げてしまいそうなほど痛んだ。

 つい十分ほど前の話。簡単に言ってしまえば最高学年になり更に目立つようになった蘭くんと竜胆に因縁をつけた暴走族が、二人を呼寄せる為に下校途中の私を拉致したのだ。車に押し込められて気が付けば人気のない工事現場に転がされていた。手足は縛られて、空になったランドセルとお気に入りだったキーホルダーは男達に踏みつけられたのか、土に汚れ無残な姿になっていた。男達は多分、高校生くらい。大人と変わらない体格の彼らは、小学生の女子相手にも容赦がなかった。二人が来るまでの間の余興と称して、まず一人目――リーダー格らしき男が私の顔面を張った。次に二人目が頭を踏みつけた。三人目は腹に蹴りを入れ、四人目は伸ばしかけの私の髪を掴んで引き摺りまわした。最後が一番つらかった。頑張ってケアを続けていた髪は、ブチブチと嫌な音を立てて抜け落ち、踏みつけられて土と泥で汚れた。耐えきれず泣き出した私を見て、男達は楽しそうに笑った。蘭くんたちに対する鬱憤が少し晴れたと、太い指で私の髪を乱暴にかき乱した。
 蘭くんたちは、別に私を助けにきたわけではない。売られた喧嘩を買って、相手のプライドを完膚なきまでに叩き潰す。ただそれだけのために工事現場に現れた。二人は高校生相手に負ける事はなかった。何発かもらったようだったが、最後に立っていたのは見知った金髪の二人で、あれだけ威勢の良かった男達は顔面を腫らし、血を吐きながら必死になって許してほしいと口にしていた。そんな言葉に二人が耳を傾けるはずもないのだけど。

「名前、泣くなー」
「泣いてない」
「嘘つけ。オレの服、めちゃくちゃ濡れてんじゃねぇか」

 許しを請う声すら聞こえなくなった後、蘭くんは私の元にゆっくりとした足取りで近寄るとただ一言「帰るぞ」とだけ告げた。竜胆は何か言いたげな顔をしていたけれど、兄の言葉には基本的に逆らわない弟なので無言のまま転がったランドセルを拾い上げてくれた。
 おんぶを強請ったのはなんとなく甘えたかったからだ。本当は自分の足で立ち上がり、歩いて帰る事も出来た。そのくらいの体力は残っていた。両腕を伸ばして我儘を口にする私に蘭くんは表情を歪め、最初は良いと言わなかった。けれど埒が明かない事を悟ると諦めたように溜息をついてその場に腰を屈めた。結果、私は彼の細く頼りない背におぶさっている。

「蘭兄ちゃん」
「んー?」
「今日、家に泊まりなよ。竜胆も。帰ったら、またおじさん達に怒られちゃうでしょう?」
「やだよ。オマエ、ぜってぇ夜中もギャーギャー泣いて煩いもん」

 横の竜胆も同意見だったのだろう。口を挟む事はなかったが、結局二人は私を家の前まで送るとそのまま角を曲がって自分達の家へと帰って行ってしまった。その日、両親は私の傷に大層驚き、怒り、悲しんだ。私は決して理由を口にはしなかったけれど、蘭くん達絡みである事は分かっていたのだと思う。庭を挟んだ家から聞こえるおじさんの怒鳴り声に怯え、蘭くん達を心配する私の言葉に両親が頷く事はなかったから、きっとそう。



 どうやら結婚前から、私はこの見るからに高級そうな高層マンションの一室で蘭くんと同居していたらしい。正確には寄生虫だと、つい先日ソファの上で足を組み、ビールを傾ける蘭くん本人が教えてくれた。
 私は高校を卒業後、大学へ進学する事なく彼らが以前住んでいたマンションに住み着く事となった。その頃はまだ竜胆もいたから私個人の部屋はなくて、リビングで布団を敷くか、たまに蘭くんのベッドにお邪魔していたのだそうだ。彼の口から語られる十二年間の話は、あまりにも私が二人に甘えすぎていて寄生虫と呼ばれるのも納得がいった。

 社会人になり数年務めていた職場は辞めた。聞けば事故にあった日、寿退職を決めたと言う。どこまで本当か嘘かは分からないが、私の携帯ことスマートフォンには会社の同僚らしき人からの別れを惜しむメッセージが届いていたので、退職したのは本当なのだろう。
 蘭くんは、竜胆共々まともな仕事はしていない。毎日皺の一つもない高級そうなスーツで出て行っては深夜だったり翌日の昼間だったりに帰ってくる。酒を飲んで来たのかいつもより少し陽気な時もあれば、抜身の刀のように気が立っている時もあった。基本的にはいつも通り。あの笑っているのかよく分からない目をして「ただいまー」とリビングに顔を出す。

「うわ、なにその袖……」
「んー? 返り血だから心配すんな」

 昔から喧嘩相手の血をつけて帰って来る事の多かった蘭くんだが、ここ数日間で目にするソレは訳が違う。スーツの袖から覗く白いシャツは酸化した血液で汚れていた。
 蘭くんは、音程の乱れた鼻歌を歌いながらジャケットを脱いで次いでシャツも放り投げる。つい二日前、それらを拾い上げ洗濯したり処分したりするのは私の仕事なのだと知った。左半身に刻まれた入れ墨は十数年前から見慣れてしまっているからもう驚くこともない。ただ、今日もその身体に傷がないことに安堵して浴室へ入って行く蘭くんを見送る。そんな生活をもう一週間は続けている。

 私の記憶は、まだ何も戻ってはいないらしい。らしいと言うのは、私本人がまだ記憶喪失であるという実感がないからであって、記憶が戻っていないと断定しているのは共に暮らしている蘭くんと、たまに顔を見せてくれる竜胆だった。
 見るからにQOLが上昇している十二年後の蘭くんであるが、食べる物は以前とまるで変わりがない。食が細いのもそのままに、その日の気分で食事の内容を決める。身形に似合わないファストフードの大きな袋を持ち帰ったかと思えば、出掛けるぞと一言、状況を把握する間もなくお高そうなレストランへ連行される日もあった。とは言え、十六の小娘にテーブルマナーなんて分かる筈もなく、ぎこちない動作で柔らかい肉を切り分ける私に蘭くんは始終楽しそうに笑みを浮かべていた。その顔を思い出すと、今でも腹の奥がぐつぐつと煮えたぎるような気持ちになる。

「まあ、こんなモンじゃね?」

 今日の夕飯は、家で摂る事になっていた。あまり中身の入っていない大型の冷蔵庫から使えそうな食材を引っ張り出して急遽作ったオムライスを口にする蘭くんから飛び出して来た感想は、美味いでも不味いでもなく「こんなモノ」であった。彼の言葉に何か思わないわけではなかったが、実際口にしてみれば確かにこんなモノだ。ありきたりなケチャップライスと卵の味。ただ、もう少し塩コショウを効かせてもよかったのかもなんて。

「私、前からご飯作ってたの?」
「うん。オマエ、外で食うより家の方が落ち着くって言ってたからな」
「味は? 美味しかった?」
「どうだろ。名前はどう思う?」
「今よりは上手かったら嬉しいな、とは思うよ」

 半分ほどオムライスを消化して、スプーンを片手に蘭くんは頬杖をついた。食事中行儀が悪いよと注意するのは今更で、私は見つめて来る紫色の瞳から逃れるようにスプーンを動かし続けた。

「確かにあんま美味かったとは言えないけど、オレはオマエの手料理、嫌いじゃなかったよ」

 蘭くんは、私を見る時、昔を懐かしむような甘い目をする事が多い。お風呂上りで、綺麗にセットしていた前髪を下ろした姿は、ほんの少しだけ柔和に見えるから特に落ち着かなくなってしまう。口に含んだケチャップライスは先程より酸っぱく感じられて、急いでコップの中のお茶を喉へ流し込んだ。それを見た蘭くんがケラケラ笑いながら両手を叩いて「名前、かっこいいー」なんて茶化してくる。恥ずかしいのですぐやめてもらった。



 自分の言うのもおかしな話だが、流石は現役女子高生。携帯電話ことスマートフォンの扱いにも物の数日で慣れてしまった。
 その日は家に竜胆が来ていた。ソファの上、我が物顔で寝転ぶ竜胆を横目に挟みつつ、連絡帳とトークアプリの中身を確認する。私の連絡帳に登録されている人数は少なかった。履歴を見れば蘭くんと竜胆ばかりで、他には職場と同僚らしき名前が数人とあとは両親。あまりの交友関係の狭さに胸の奥に寒風が吹き荒れ、中学の頃の友人の名前が一つもないことにショックを受ける。彼女達とは定期的に連絡を取り合おうと約束した仲だ。高校は離れてしまっても友情に変わりはないと思っていたのに、どうやら十二年間の月日ですっかり疎遠になってしまったらしい。

「うわ、オマエ鏡見てみろよ。すげェ顔してるぜ」
「竜胆、私の中学時代の友達の事って覚えてる?」
「はあ? 名前の中学なんて覚えてるはずねぇじゃん」
「だよねぇ。蘭くんは……さらに覚えてるはずないか」

 昔から興味のない相手は、数秒で忘れてしまう蘭くんだ。私の友人達の事なんて存在すら覚えていないだろう。友人たちと再び繋がりを持つ事は早々に諦めて、次いでトークアプリの内容を整理する。再び悲しいかな、アプリは企業と同僚、たまに竜胆、そして最後に蘭くんと数回やり取りがあるだけだった。どれも内容は業務的で、竜胆に対しても予定だったり買い物を頼んでいたりと高校時代のものと変わりがない。蘭くんに至っては「今から帰る」くらいで、記憶の手がかりになりそうな会話はまったくなかった。

「兄貴、アプリ使うより電話したが早いって基本的にそれ使ってなかったからな」
「あー、だから私の着信履歴と発信履歴、蘭くんで埋まってるんだね……納得したわ」

 私と竜胆、二人の会話の中心人物となっている蘭くんは仕事があるそうで昨日から家に帰って来ていない。今日は帰って来るし、もうすぐ連絡もあるだろうと予想を立てたのは竜胆で、彼は実兄を心配する様子など微塵も見せず、私の部屋に置いてあった雑誌のページを興味なさそうに捲り続けていた。あまり家から出ない私とオフだという竜胆。お互い暇なのである。身もない会話を続けていると、手の中にあったスマートフォンがバイブレーションと共にけたたましい着信音を響かせた。相手は予想通り蘭くんで、竜胆は「ほら見ろ」と言いたげに意地悪く口の端を持ち上げてみせた。

「もしもし」
『よォ、名前。昨日は、オレがいなくて寂しかっただろー? あと一時間くらいしたら帰って来るからなぁ』

 どこか狭い屋内にいるのか蘭くんの声は反響して、こちらの耳に届いた。次いで怒鳴りつける第三者の声がする。灰谷、電話、と単語が聞こえたからきっとこの通話に怒っているのだ。蘭くん、仕事中に私に電話をかけてきているに違いない。人知れず胃を痛める私を置いて、通話の向こう側の怒鳴り声はさらに大きくなる。蘭くんの声も段々と苛立ちが混ざり始めて、私は思わず助けを求めて竜胆を盗み見た。すると竜胆は、溜息をつきながらソファから身体を起こして私の真横へ移動すると通話口に向かって「兄貴、ヤク中が煩くて名前が怯えてる」と衝撃的な一言を発する。

「ヤク中!?」
『そうだよなぁ、今のオマエはこのギャンギャン喚き散らすヤク中の声に慣れてねぇもんなぁ。ごめんなー名前、もう少しお喋りしたかったけどこの通りオレも忙しいからさ、もう切るわ』
「う、うん。気を付けてね」
『ん、いい子。じゃあ後で』

 通話が終了する寸前まで響いていたヤク中だという男性の声が頭の中で反響して離れない。説明を求めて横を見れば、苦虫を噛み潰したかのような表情をした竜胆が物言いたげな目で私を見下ろしていた。

「実の兄と幼馴染の通話なんて聞くモンじゃねぇな」

 なにがだ。最後のいい子が問題だったのか。ここ数日間で何度か聞いた言葉だったから慣れてはきたけれど、そんな反応をされてしまうと確かに恥ずかしい気もする。
 羞恥で顔を赤くした私を置いて、竜胆は一人呟くとそのまま無言で家を後にした。ひとり残された広すぎるリビングでふかふかのクッションに顔を埋め言葉にならない叫び声を上げる。いいじゃないか、あんな反応をしなくても。

 オートロックと玄関の鍵を自分で開けて宣言通り一時間で帰って来た蘭くんは、スーツこそ全く汚れていなかったが全身濃い血の臭いに塗れていた。素人の私でも分かるような臭気だ。エントランスやエレベータの中に充満したこの臭いを考えると気分が悪くなる。
 なにかいい事があったのだろうか。私の両頬を押さえ込んで遊ぶ蘭くんは、目に見えてテンションが高かった。それこそハイと呼ばれるもので、一瞬ヤク中だという男性の声が脳裏を過ぎった。そうすると、クスリでもしてきたのではないかと心配する私の思考を読んだように蘭くんは色が抜け落ちるように表情から笑みを消す。頬を押さえる両手はそのままに、ぐいと顔を近づけて底冷えするような瞳の焦点を私へ定めた。

「せっかく人が気分よく帰って来たってのに、オマエ今誰のこと考えてた?」

 やはり蘭くんの沸点の位置は、今でもよく分からない。退院した時、竜胆の運転する車内での出来事を思い出し身が竦んだ。至近距離に見える蘭くんの唇に、もうあの時の傷はない。形のいい唇は、捕食者が牙を見せるかのように吊り上がり、頬に押し当てられた親指の爪は容赦なく肉へと喰い込んだ。

「ヤク中って、竜胆が言ってたから……その人のこと、気になって」
「へぇ、それで」
「ら、蘭くん大丈夫だったのかなって……心配、してたの」

 今の会話には、何一つ嘘は混ざっていなかった。ヤク中と呼ばれた男性が気になっているのも事実だし、蘭くんを心配していたのも事実だ。後者に関しては、なに心配なんてしているんだと気分を害する可能性もあったが、ここで変に嘘を混ぜた方が蘭くんは嫌がる。灰谷蘭相手に十六年間も幼馴染を続けてきただけあって、こんな私でもそのくらいは分かっているつもりだ。
 頬に喰い込む爪の感触が遠のいた。私の予想は的中したようだった。蘭くんは、目から剣呑な光を消して頬を押さえていた両手で私の背中を引き寄せた。腕の中に身体が収まってぴったりと密着する。先程より血の臭いが濃い。溢れ出そうになる嗚咽を押しとめるため、蘭くん本来の香りを求めて彼の胸元へ深く顔を埋めた。微かに蘭くんの香水の匂いがする。それを肺がいっぱいになるまで吸い込んだ。

「よーしよし。名前チャンは置いていかれるのが嫌いなんだもんなぁ、オレがいなくて寂しかったなぁ」
「うん」
「素直。気分良いし、今日はこのまま一緒に風呂入るか?」
「それは遠慮する」
「素直すぎてムカつく」

 自分から引き寄せたくせに、今度はまるでしがみついてくる猫よろしく私の襟首を掴んだ蘭くんは、そのまま容赦なく引き剥がすとフローリングの上へ投げた。もはや私への興味なんてない。いつものようにジャケットとシャツを脱いで、今日は私の頭の上へ投げてくる。私はハンガーラックじゃないんだぞ、とか言いたい事を我慢してイタリア製のそれらを腕に抱いた。今度竜胆に店を聞いてみて、今回は処分でなくクリーニングに出そうと決める。同時に長い髪の見当たらない、記憶していたよりも広くなった背中に待ったをかけた。一つ聞いておきたい事があったのだ。

「ねえ、私の両親って今どうしてるのかな」

 ここ数年、否まったくと言っていいほど私は両親と連絡を取り合っていないようだった。連絡帳にはそれぞれの番号が入っていたけれど、いくら電話をかけても二人とも出てはくれなかった。やがて聞こえるアナウンスに肩を落とし通話を切ったあの感覚を思い出す。竜胆には聞いてもはぐらかされた。ならば最後、蘭くんに聞くしかないと思ったのだ。
 けれど、それは大きな過ちであったのだと瞬時に悟る。振り返った蘭くんを見た途端、浮かんだのは「やばい」という恐怖。蘭くんは、大股に私の元へと歩み寄ると、容赦なく私の側頭部を平手で打った。頬でなかっただけマシだったのかもしれない。それでも叩かれた衝撃は大きくて、ぐらぐらと揺れる視界で彼を見上げた。

「なに、ソレ」

 蘭くんはいつだって綺麗だった。喧嘩した時も、怒った時も、全てが私の目には美しく映る。憧れと初恋、二つのフィルターがかかった私の双眼は今も灰谷蘭という男性をとても美しく魅せる。同時に、恐怖の対象としての畏怖をも抱かせる。
 淡々とした声が両親をソレと指していると気づいた時、リビングに蘭くんの姿はもうなかった。シャワーを浴びる音が微かに聞こえるから浴室にいる事だけは分かって、なんとなく謝らなきゃなんておかしな思考が働いた。

 浴室の曇りガラス越しに蘭くんの姿が見えていた。扉の前に座り込み握りこぶしを作る。掌は大量の汗をかいていて気持ちが悪い。蘭くんが私に対して怒りを露わにした時は、いつだって竜胆が間に入ってくれていたからこんな事は初めてだった。
 理不尽じゃないか。私は、両親の現在を聞いただけだ。自分の肉親を気にしてなにが悪いのだろう。頭の片隅で浮かび上がる言葉に、私の思考が蓋をする。十二年間の記憶だろうか。こうしなければならないと口が、喉が、勝手に動いていた。

「蘭くん、ごめんなさい」

 口から出た声は、シャワーの音に掻き消されるほど小さくて無様に震えてしまっていた。それなのに蘭くんは耳が良いから、私の声にちゃんと気が付いてくれる。
 扉が開いて熱気と共にお湯で濡れた蘭くんが顔を出した。しっとりと濡れた髪からポタポタと水滴が落ちて、私の頬を濡らす。これでは私自身が泣いているのかどうかさえよく分からない。

「本当、馬鹿だよな名前」

 必死になって腕を伸ばした。昔、おんぶをせがんだ時のように甘えてみたくなった。私自身が濡れるとか、せっかくお風呂上りなのに蘭くんが汚れてしまうとか、気にする余裕はなくて、そんな後悔は後から追いついてくるのだろう。
 大きくなって、それでも竜胆に比べれば細い腕でしっかりと背中を抱かれて、力一杯その温かな身体にしがみついた。ほっそりとした首筋を流れる一粒の雫に目が留まる。吸い寄せられるように口をつければ、やはりあの日思ったように仄かに甘かった。
 十歳の私に教えてあげたい。

20211103