どうか一緒に飛び降りて | ナノ

飛び降りる準備は出来ていた


 当時私が通っていた全日制の高校は、このご時世に珍しいほど校則が厳しかった。スカート丈は膝の下、ワイシャツのボタンは第一ボタンまで閉める事、髪も肩にかかれば二つ結び、胸まで届くのならば三つ編みにするように。ルーズソックスも勿論ダメで、ピアスホールを開けるなんて以ての外。中には校則を破る生徒もいたけれど、小心者である私は到底彼女達のようには振舞えなかった。
 憧れから長く伸ばし続けた黒髪を三つ編みにして膝下丈のスカートを履き、品行方正な女子高生の姿をした私。自分でも違和感のある姿だったのに、彼は自身の編み上げた長い髪を指先で持ち上げて「お揃いじゃん」と笑ってくれた。その時の声も表情も、全て目に焼き付いている。



 目に飛び込んで来た景色に、今が春であったのだと思い出す。

 はめ込まれた大きな窓硝子越しには、春風に揺られて舞い落ちる桜の花弁が見えた。室内にはピ、ピ、ピ、と規則的な電子音が響いていて、機械に繋がった線が、私が今ここで息をしているのだと教えてくれた。天井を見る。真っ白な天井は、独り暮らしのワンルームマンションの一室より大きく広がっていて、私が寝そべるベッドがその真ん中に置いてある形だ。
 さて、ここで大きな疑問である。何故、私は病院にいる?

「……」

 室内にはベッドの他に茶色のソファと丸椅子が一つ。テレビ台と着替えを仕舞うための簡素なクローゼットがあるだけだ。それらが私の疑問に答えてくれるはずもなく、視線を彷徨わせ、備え付けのベッドボードの上に置かれた長方形の板に目が留まる。
 動かすのも億劫になるほど重たい腕を伸ばして、なんとか板、もとい見慣れない電化製品を手に取った。画面は真っ暗で光に反射して私の顔が薄っすらを映っている。試しに下部にある丸いボタンを押してみた。すると真っ暗だった画面が一転する。

「……あ」

 これ、多分携帯電話だ。映し出された文字列やマークは、我々人類にとってなくてはならない身近な電化製品の物と酷似していた。しかし、どうすればいいのだろう。私には、これの操作方法が分からない。二つに折り曲がりもしないし、見慣れたキーボードボタンは存在していないのだ。
 すっかり困り果てた私は、とりあえず枕元にあったナースボタンを押してみる事にした。駆けつけてきてくれるであろう看護師に、私の置かれた状況を説明してもらおうと考えたわけである。



 換気の為にと開けてもらった窓から入り込む風は、夜になるとまだどこか冷たくて今が四月末なのだと知った。

 ナースコールで看護師が駆けつけて、それからの流れは目まぐるしいものだった。さらに応援にやってきた看護師が慌てて医師を呼んで、あれこれと検査されて、その内すっかり夜も更けてしまった。
 今、この部屋には私しかいない。あれこれと処置をしてくれた看護師は「ご家族がすぐにお見えになりますからね」と優しく微笑んでとうの昔に退室してしまった。家族、両親の事だから大慌てで駆けつけてくれるに違いない。すっかり聞きそびれてしまった私の置かれた状況も両親に聞いてみよう。そう決めてから、かれこれ一時間半は経っている。

 おかしい。ここは東京都内の総合病院で、家のある港区からはそう遠くない。父が車を飛ばせば三十分で辿り着く距離だ。おかしい、やはり何かがおかしい。テレビをつける気にもなれず、すっかり静まり返った室内で、朧気な頭を動かしていた。すると病室の前から何やら足音が聞こえて来た。コツコツと革靴が大きく音を立てていて、夜の病院に似つかわしくない。革靴の持ち主の目的地は、どうやら私の病室らしかった。はて、父はあんな風に足音を立てる人だっただろうか。首を傾げつつ、正面の扉を見つめる。

「おー、やっと起きたかー?」

 ノックもなく扉は開いた。他の病室で休んでいるであろう患者たちに配慮する様子もなく、勢いづけて大きく開け放たれた扉から入室して来たのは、知らない男性だった。

「……はぁ?」

 馴れ馴れしく話し掛けて近寄って来るけど、この人は一体誰なのだろう。今日は、やけに疑問符の浮かぶ日だ。
 年齢は二十代後半と言ったところだろうか。いかにも値が張りそうなスリーピーススーツを品よく身に纏っている。髪は短く、紫色に暗色のメッシュが数本走っていた。

「なにその顔。まだ寝惚けてんンのか」
「……いや、えっと」

 いや、あなたどちら様ですか。なんて聞ける勇気は、小心者の私にはなかった。だってこの男性、明らかに堅気じゃない。スーツを着てはいるけれど、サラリーマンにしてが出立が派手すぎるし、何より口調が不穏すぎる。私は必死に逃げ口を探していた。頭には、たったひとり頼れる相手が浮かんでいて、助けを求めるべく、布団の下で、この一時間半で軽く操作を覚えた携帯電話らしき電化製品を起動させる。電話帳は多分これだろう。画面を指先で直接操作するのはまだ難しいし慣れないけれど、発信中の文字が出ているから間違いではないはずだ。

 電話をかけたのは、電話帳の履歴のトップに表示されていた二歳上の幼馴染だった。なにかと気分屋な人だから出ないかもしれない。けれど、こんな時頼りになりそうな知人は、彼と、その弟くらいしかいなかった。
 携帯は、発信中から通話中へと切り替わった。今だ。私の祈りは天ならぬ彼に通じた。慌てて画面を耳に押し付ける。真横に立つスーツ姿の男性に目もくれないままに。

「もしもし蘭くん!? お願い、今すぐここに来……て……? え?」
「なあ、名前。オマエ、何がしてぇの?」

 つまんねぇんだけど、このアソビ。そう口にしたのは、同じような携帯を片耳に押し当てた男性で、私の持つ携帯越しからも同じ声が響いている。

「え、うそ……な、なに」

 男性は確かに私を名前と呼んだ。苗字名前間違いなく私の名前だ。十六年間も聞き続けている響きを間違うはずはない。
 通話は切れて、男性は携帯をポケットへ仕舞うと不機嫌そうに眉根を寄せて、長身を折り曲げた。ベッドの柵に片手をついて、困惑で固まり切った私の顔を覗き込んでくる。
 そこで私は、ようやく男性の顔をしっかりと見る事が出来た。目尻の垂れた双眼と、縁取る睫毛の長さや目蓋の厚さも、瞳の紫色だって記憶にある彼と同じだ。否、少し老けたけれど、それでも元のパーツは同じだと言い切れる。

「蘭、くん?」
「そーだけど。ぷっ、すげぇ間抜け面」
「いひゃい」

 頬を引き延ばす力の無遠慮さにああ、確かにこれは灰谷蘭だと頭の中で諦めにも似た声が響いていた。それでもまだ困惑からは抜け出せなくて、なんとか頬を引っ張る指を引き離す。灰谷蘭だと思われる男性を真正面から見据えて、まずは一番気になった事を問い掛けてみる。

「い、いつ髪切ったの? 随分、ばっさりいったね……」
「はぁ? オレの髪が長かった頃って十代くらいだろ。いつの話してんだよ」
「え、じゃ、じゃあ今のご年齢は……?」
「ご年齢って……オマエの二個上だろうが」
「正確に教えてほしいの!」
「三十。これで満足?」

 その数字を聞いた途端、一気に全身から血の気が引いた。心なしか手先が震えているような感覚もあって、彼から視線を外して周囲を見渡す。

「おい、名前。オマエ、震えて」
「鏡! 鏡持ってない!?」
「あ? 鏡ぃ?」
「お願い!」

 渋々ながらも鏡を探しにクローゼットへと向かった背中を見つめていると、やはり男性は私の知る灰谷蘭と同じだと、再度頭の中で声が囁く。気分屋、自己中心的、思いやりなんてまるで持っていない。けれど、根っこには確かにお兄ちゃんとしての自負があって、彼の実の弟共々私の面倒もよく見てくれていた。記憶にあるより少し逞しくなって、それでいて背も高くなった幼馴染は、面倒臭さを隠しもせず、クローゼットの中にある鞄から手鏡を取り出すと、それを投げて寄越した。
 お礼を口にして恐る恐ると鏡を覗き込む。そして思わず絶句した。携帯の画面に映った顔は、ぼやけていてよく判別がつかなかったけれど、手鏡は綺麗に今の私の姿を映し出す。そこには、知らない女性が映し出されていた。

「自分の窶れ切った顔見て楽しいか?」
「蘭くんが三十なら、私は二十八歳ってこと?」
「オマエ、オレの二個下だし、まあそうなるんじゃね」
「二十八……」

 とてもじゃないが信じられなかった。私が自分で認識している年齢は十六歳。今、鏡で見ている私より十二も年下になる。けれど、どれだけ頭を捻ろうとも十二年間にあったであろう記憶はまったく浮かび上がって来ない。

「ねえ、私って高校卒業した?」
「十年前にしただろ。卒業式、迎えに来いってオレに我儘言ったの忘れたとか言うなよ」
「私、大学には行ったのかなぁ」
「……名前?」

 何かを察したかのように蘭くんの声色が強張った。横に立っていた彼は、その場に膝をついて私の肩を掴む。強い力だったから自然とそちらへ視線が向く。

「名前、オレの目をしっかり見てろよ。どうした、ちゃんと話してみろ」
「私、まだ十六歳で……」
「十六……? いいや。続けてみ」
「私、この間高校に入学したんだよ。膝下丈のスカート着てさ、ワイシャツのボタンもしっかり閉めて、髪も三つ編みにして……蘭くん、私にお揃いって笑ってくれたばっかで。なのに、二十八歳ってどういう事? 私の知ってる蘭くんは十八だよ、髪が長くって、そんな、スーツなんて着てなくて、っ、こわいよぉ」
「おいおい、マジかよ。泣くな、間抜け面がますます酷くなるぞ」

 記憶しているより大きく武骨になった掌が乱雑に髪を撫でる。それでも私の涙は止まらなくて、必死に嗚咽を殺しながら病衣の袖で目元を拭い続けた。
 やがて蘭くんは、大きく息をつくとその場に立ち上がり片手で携帯を操作し始める。その間も、もう片手は私の頭に乗せられたまま、緩やかに髪を撫で続けていた。

「あ、どうもー。出んの遅いわ。殺されてぇの? はあ、まあいいや。どうせ家なんだろ。大至急こっちに戻ってこい。じゃ」

 誰かに電話をかけるその横顔は、ぞっとする程冷たく冴え渡っていた。十二年間の重みと言うのだろうか。私が記憶している十八の彼よりもずっと、ずっと恐ろしい何かを感じさせる。
 横顔を見上げている内に涙も引っ込んだ。呆然と見上げる私に、彼は目元を柔らかく細めて、細長い指先で額を小突いてくる。

「心配すんな。オマエの事は、今も昔もちゃあんとオレが面倒みてっから」
「う、ん」
「よしよし。返事が出来て名前はいい子だなぁー」

 息せき切った妙齢の医師が病室に転がり込んで来たのは、それから三十分後の事だった。やけに怯えた様子で顔色は悪く、問診を取る口ぶりもどこか覚束ない。先程目が覚めた時に様子を見に来ていた医師と同一人物だと気が付いたのは、医師が脂肪の乗った重たい唇を開いたあとだった。

 医師の見立ては解離性健忘。通称記憶喪失。現在は二〇十七年四月末日。私の年齢は紛れもなく二十八歳。職業は無職。私が記憶している十六歳の自分は、十二年前の話であって現実ではない。

「……」

 なんとなく察知してはいたけれど、実際に医師からその言葉を聞くと、あまりのショックに言葉を失くした。震える手は、救いを求めて横へと伸びて、私の物とはまるで違う大きな手に拾われる。
 蘭くんは、昔から頭の回転が早かった。だから既に分かっていたのだろう。彼は表情一つ変える事なく全てを聞き終えた。ただ、医師を見下ろす目はやはり氷のように冷たい。

「じゃあ、名前はこのまま連れて帰る。いいよな」
「!? まだ、目が覚めて一日目ですよ」
「ああ? 名前が寝ている間なーんにも出来なかった医者が、今更になって偉そうにナニをほざいてんだ?」
「し、しかし、“奥様”のお身体の事も考えるともう暫く当院で様子を見られた方が……っ!」

 あまりに一瞬の事だったから情報を処理するよりも前に、目の前の光景に絶句した。蘭くんの片手には拳銃が握りしめられていた。銃口には、ドラマなどで見た事のある消音装置というものがついていて、安全装置を外す動作があまりにも手慣れていたものだから、現在の彼の立場を知ったような気分になる。
 それでも私の手は握りしめたまま、銃口を押し付けた蘭くんの前で、医師は大袈裟なほどにガクガクと震えた。左右に首を振って言葉にならない声を発する。それは、この場の支配者に対する無謀な命乞いに他ならなかった。

「オレ、他人に指図されるのが嫌いなんだよ。特にオマエみたいに、オレらがバックについてるって思い込んでブクブク私腹を肥やしてる馬鹿からの御意見? 諫言? そう言うの聞いてるとうっかり指が滑っちまいそうになる」
「は、灰谷、さん」
「医者ってのは頭が良いんだろ? なら、答えは一つだよな。もう一回聞くぞー」

 私自身が主題のはずなのに、もはや他人事のようだ。支配者である蘭くんは、答え次第で本当に引き金を引いてしまう。そもそも灰谷蘭という男は、齢十三で人をひとり殴り殺しているのだ。十二年の間に何が起こったのか、私にはまったく分からないが、今の彼は、あの頃よりも更に深くへと足を踏み入れているに違いない。

「妻が心配なのでこのまま連れ帰ってもいいですか、センセ?」

 衝撃的な事実である。どうやら私は、十二年間の間に幼馴染である灰谷蘭と結婚したらしい。

 医師は涙を流しながら、壊れた玩具のように何度も何度も首を縦に動かした。カチ。安全装置がはまる音がやけに大きく響いていた。

20211023