「1/f」 | ナノ


ロココ


夢主十四歳


 諸事情とやらで今日はフョードルさんに近付いてはいけない、らしい。

 朝、朝食の席に何時もの黒髪がなく、寂しがる私にゴンさんが伝えた言葉だ。一人分の朝食を用意した彼は、張り付いた笑顔のままそう告げると、静かに退室した。食事を美味しくないと感じるのは、露西亜に来た当初以来の事だった。朝からでは重いと云われても強請って作って貰ったフルーツと生クリームがたっぷり乗せられたパンケーキが、今は砂のように感じられる。折角ゴンさんが作って呉れたのだから、なんとか完食は果たしたが私の膨らんだ腹に詰まった物が何なのかイマイチ判らずにいた。
 食事を終えた私はダイニングを出る。以前、食器は其の儘にしていて善いと云われたので、空になった其れ等は木製のテーブルに並べられたままだ。脚は、見えない糸に引き摺られるようにフョードルさんの部屋へと向かった。彼の部屋は、一階の奥にあり、寝室の更に奥にある扉は仕事部屋である地下室へと続いている。窓の外の一面の雪景色を横目に挟み、先ずは寝室へ繋がる扉の取手に指を掛ける。然し、私の指先に力が籠る事はなかった。体を小さな土人形、数体に持ち上げられた為だった。

「いけませんよ、名前。云ったでしょう。今日は主様に近寄ってはなりません、と」

 背後から話しかけるゴンさんの顔には、変わらず笑みが張り付いている。其の手には、水差しと硝子のコップ、白い袋が乗せられたトレイがあった。小さな体の何処にそんな力があるのか、土人形達はあっという間に私の体を運んで行く。にこにこ笑うゴンさんの姿が見えなくなって、自室の床に落とされる迄、一言一句口に出来なかった。

 何故、フョードルさんに近寄ってはいけないのか。今日の私の疑問である。
 自室のベッド。フョードルさんが呉れた兎の縫いぐるみを抱き締めて首を傾げる。仕事が忙しいから? いいや、其れならそうと云ってくれる筈だし、今迄にも忙しい時期があったが接近禁止を云い渡された事はない。では、誰か来ている? 否、其れもない。だってゴンさんの持っていたトレイには、水差しとコップが一つに白い袋だけだった。若し来客があったなら紅茶を運ぶ筈だし、何よりこの屋敷の来客と云えば、あの道化師位しか居ないのだ。では、他に考えられる言葉は?

「真逆……」

 ピンと来た。と云っても遅すぎる位だが。フョードルさんは、とても色が白く、体も他の男性に比べて細い。ゴンさんだって細身だけど、フョードルさんは其れ以上なのだ。目の下には濃い隈が在り、何時だって体温は低く、如何にも幸薄な雰囲気を纏っている。以前、聞いた事がある。フョードルさん自身でなく、ゴーゴリの発言だったけれど。「ドス君は体弱いんだから鉄分取らないとー、私の血でも飲む?」フョードルさんがツンドラの氷並みに冷めた視線を送っていた記憶が蘇る。ああ、なるほど。自分の思考の浅さに思わず気が滅入った。

 その日、私は大人しく一人で過ごした。自室でまだまだ難しいキリル文字を読んでみたり、ゴンさんに紅茶の煎れ方を習ったり。最初こそ楽しく過ごしていたものの、其れが数日と続けば、段々と隠していた感情も吐露になる。夕食の最中、ポロっと私の目から涙が溢れた。その日は、何故か其の日はゴーゴリが来ていて、彼は何をするでもなく、私の隣に座って黙々と咀嚼する私を眺めていた。其れなのに、私が突然泣き出した所為で道化師の顔が崩れた。わああ、と多少大袈裟にも感じるリアクションを取った彼は、少しだけ慌てた後に人が変わったように大人の態度を取る。

「泣かないで、名前。君が泣くと私まで悲しくなってしまうよ」

 普段、私を揶揄って愉しんでいる道化師と同一人物とは思えない豹変ぶりだ。驚くのと同時に、寂しくもなる。ゴーゴリに揶揄われ、逃げる私を庇って呉れるのは何時だってフョードルさんだった。「おやおや。名前、大丈夫ですよ。ぼくが居ますからね」そう云って包み込んで呉れる冷たい両腕を思い出すと、更に涙が溢れる。最早、夕食どころではなくなり、必死に波を拭い、嗚咽を噛み殺す。十四歳と云う年齢がそうさせるのか、非道く私は情緒不安定だ。
 ゴーゴリは、私の涙を手袋で拭い、そっと濡れた手を持ち上げる。恭しく身を屈め、見上げる姿は整った容姿がそう魅せるのか御伽話の王子様のようだった。彼は云った。「可哀想に」揶揄いなんてない、心の底から私を哀れんでいる声色だ。

「君の心は彼に埋め尽くされているんだね。其れは、君にとって幸せなのだろうけど私は可哀想だと思ってしまう。ごめんね、名前。お詫びと云うにはささやかだが、可哀想な君に私から一つ贈り物をしよう!」

 そう云って立ち上がったゴーゴリの顔に、もう先程の色はなかった。嬉々とした表情を浮かべ、外套を翻す。一瞬視界が黒く染まって、体感温度が変わる。開けた視界に、ぐっと唇を噛み締めた。

「矢張りこうなりましたね」

 灯りのない薄暗い寝室。大きなベッドで背中をふかふかの枕に預けた彼は、小さく咳込み乍ら呆れたように眉を顰めた。フョードルさんだ。数日振りに見た彼は、記憶より幾らか窶れたように見える。額に張り付いた髪もしっとりとしていて、其れを横に流す指先は悲しくなる程に弱々しく映った。
 ゴーゴリは、一頻り笑うとフョードルさんに軽い挨拶をして屋敷から姿を消した。彼の異能は、本当に便利だと思う。仮令ば、こうして呆れ、少し怒った人の前から逃げる時に役に立つ。フョードルさんは、ゴホゴホと咳き込んで背中を丸めた。思っていた以上に深刻な状態に、涙は引っ込み、同時に血の気さえも引く。如何する事も出来ず、ただ佇む私を彼は一瞥した。濡れたような紫水晶が思考を巡らせるように揺れて、暗に此方へ来るようにと指示を出す。おずおずと近寄ると、彼の血色が普段よりよくなっている事に気が付いた。発熱しているのだろう。

「名前、先ずは、何かぼくに云う事があるのでは?」
「ごめんなさい……云い付けを破りました」

 フョードルさんの小さな声につられて私の声も小さくなった。彼は一つ溜息を吐く。そして宙を睨んだ後、平べったい大きな手を差し出した。

「寂しい思いをさせてしまいましたね」

 触れた手は温かい。弱々しい力で握られたので、変わりに私が力を込める。

「ゴンさんも居るし、最初の内は平気だったの……なのに、段々寂しくなって、泣いちゃった……」
「そうでしたか」

 手を握り締めたまま、マットレスに顔を埋める。ずっと寝ていたのだろう。フョードルさんの匂いがして、途端にまた涙腺が緩み出す。泣き顔を見せまいと顔を伏せたままでいる私に、屹度彼も気付いている。小さく微笑して、彼は私の手の甲をすりすりと撫でると、もう一度口を開いた。

「全く。貴女はぼくが居ないと生きて往けませんね」

 絵本を読んで呉れる時にも似た優しい声色に肩がピクリと跳ねた。恥ずかしいけど、否定は出来ない。フョードルさんが居ないと生きて往けない。其の通りである。たった数日だけで、こんなにも寂しいのだから、もっと長い期間と考えるだけで如何にかなってしまいそうだ。寂しくて、悲しくて、安心を求めて両腕を伸ばす。彼はそっと其れを止めた。

「いけません。ぼくはこの通り病人です。今、貴女を抱き締めてはあげられない」
「……う」
「治ったら沢山抱き締めて、貴女がもういいと云うまで甘やかして差し上げますから。だからもう少し我慢して。ね?」
「もういいなんて云わないもん……」
「そうですね。では、ぼくとしたい事してほしい事を沢山考えていなさい。可愛くて愛しいぼくの名前。もう少し善い子でいてくれますね?」

 寂しい、甘えたい、抱き締めてほしい、額や頬にキスしてほしい、一緒に眠ってほしい、愛してるってもっともっと云ってほしい。離れていた分の我が儘が喉元に込み上げるのが判った。けれど、私は凡てを飲み込んだ。善い子でいなければ、屹度ご褒美もない。断腸の思いで繋いでいた指先を解くと、フョードルさんは「そう、善い子ですね」と囁く。ベッドから離れて部屋を出た。一切振り返る事はしなかった。




 結局フョードルさんが全快する迄に、其れから三日も掛かった。余程しつこい風邪だったらしい。寝室から出て来た彼は、矢張り窶れていて、微笑んだ顔が少し痛々しい。其れでも彼は、約束を守る人だから目一杯私を甘やかそうとした。先ず、フョードルさんが寝室から出て来て驚く私を正面からギュウと抱き締めて「漸と貴女を抱き締められる」と鼻先にキスをした。次に、私の手を引いて暖かいリビングに入り、ソファに並び座る。其の間も手はずっと繋がれたままだ。フョードルさんは、私が観たがっていた映画を一緒に観て呉れた。優秀過ぎる頭脳を持った人だから、こんな子供騙しの推理映画なんて詰まらなかっただろうに。それでも最後まで一緒に観て呉れた彼は、矢張り面白かったとは云わなかった。

「ふふ、目が溶けそうですね。どうぞ。痩せて柔らかくもない膝ですが、枕代わりに使って下さい」

 ああ、これは少しだけ「もういい」と云いたくなるかもしれない。促され、頭を乗せた膝は宣言通り固く、正に骨のようであった。けれど、寝心地の悪い其れを私は嫌だとは思わなかった。髪を、額を撫でられて、寧ろ気持ちいいとさえ思う。うとうとして来た頃、ぼんやりとした視界にフョードルさんの顔が映る。楽しそうに頬を緩ませて、声はまるで少女のように弾んでいる。青白い顔にミスマッチで何だか少し可笑しかった。

「ねえ、目が覚めたら次は如何しましょうか?
映画は観たし、今度は絵本でも読みますか? でも其れだと何時もと変わりませんね。ああ、そうだ。チェロを弾いてあげましょう。これでも音楽には精通しているのです。貴女、チャイコフスキーは判りますか? 母国の偉大な音楽家なのですが……あ、もう限界ですね」

 フョードルさん、チェロ弾けるんだ。凄いなあ、格好良いなあ――返事は声にならない。彼の微笑んでいる顔が好きだ。影のある何処か女性的な美貌は、見る人によっては恐怖心を抱くのだろうけど、私にとっては安心感を与えるものでしかない。髪を撫でていた指先が目尻をなぞる。何度も何度も往復して、極小音の鼻歌が聴こえ始めると私はすっかり目蓋を閉じていた。チェロ、楽しみだなあ。

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