「1/f」 | ナノ


『笑わない王女』


「可愛い名前。これを貴女にあげましょうね」

 救われて二度目の朝、私は彼から初めてのプレゼントを貰った。
 雪よりも白い肌と蠱惑的な黒髪、紫色の瞳を持ったとても綺麗な人。雪山を彷徨い歩き、涙も気力も尽きた私を救うようにと或る約束をして呉れた彼は、幸薄に微笑みながら兎の縫いぐるみを差し出した。熱に浮かされてベッドに転がった私は、覚束ない手つきで其れを受け取る。露西亜の大地のように白い兎からは、抱えられて来たせいか薄っすらとフョードルさんの香りがした。昨晩、吹雪の中しがみついた時にした香りだった。

『約束をしましょう。これから先、貴女にはぼくが居ます。どんな時でも貴女を守り、ぼくが持ち得る限りの愛情を注ぎましょう。貴女が寂しいと云えば抱き締めるし、貴女が怖いと云えば其の不安を取り除いて差し上げます。何でも云って善いのですよ。ぼくはこの世で唯一貴女を愛している存在なのですから』

 其の言葉の通り、彼は約束を守る人だった。あの晩、両親と死別し独りぼっちになった私の心に、彼は持ち得る限りの愛情を持ってすんなりと入って来て居場所を作った。始めから其処にいたかのように、当然のように、私の心の大半を占めてしまった。
 兎の縫いぐるみの次は、洋服と絵本だった。彼の指示でゴンさんが運んで呉れた沢山の洋服は、どれも綺麗で、日本で着ていた物よりも随分と仕立ての善い物だった。膝下丈の品の善いワンピース、白いブラウス、ネイビーブルーのスカート。服に合ったローヒールのパンプス。皮で出来たブーツ。凡てが一級品なのだと幼い私でも判って、最初は戸惑ったものだ。
 絵本は、露西亜語と英語、仏蘭西語。様々な言語の物を与えられた。とは云っても、私は生粋の日本人であって露西亜語は勿論英語だって上手く読めなかったものだから、早々に私は言語の壁に躓いた。挿絵だけを楽しんでもよかったのだけれど、どうせなら内容も理解したい。其れがフョードルさんの母国の物であるならば尚更だった。

『おや、如何しました?』

 この頃の私は、既に彼の事が大好きだったけれど甘え方が判らずにいた。今のように膝に頭を置いたり抱き着いたりなんて絶対に出来ない。若し彼に拒絶されたら生きていけないと思ったからだ。彼は約束をちゃんと守ってくれていたのに非道い被害妄想である。
 故に、絵本を持って彼の自室の扉をノックする時、私は今にも死んでしまいそうな程に緊張していた。彼は、パソコンデスクではなくソファに座っていた。其の前の木製のテーブルにはティーカップとジャム、クッキーが数枚乗った皿があった。お茶の邪魔をしてしまったのだ。血の気が引く思いがして後退る私を止めるように、彼は笑みを浮かべて私を手招く。

『いらっしゃい。其れが読めないのでしょう』

 今思えば彼は、凡て判っていた上で私に絵本を贈ったのだろう。自分から甘える事が出来ずにいる私を、自身の元へ導く為に。
 空いたソファのスペースを叩き、彼は私を呼んだ。ソファのスペースに私の体はすっぽりと収まった。まるでそうなるように誂えたようだった。

『却説、どの話が読みたいのですか? ああ、其れ……ふふ、挿絵に惹かれたのですね』

 おずおずと絵本を開いた私に身を寄せて彼は吐息を零す。其れが鼓膜を震わせて、ビクリと肩を震わせた私を笑うように、傷ついた細い指先が繊細に頁を捲った。フョードルさんの声は、穏やかで私の鼓膜を伝い脳髄に染み込んでくる。彼は、眠る前に読み聞かせをして呉れるお母さんのように優しく、ゆっくりと絵本の文章を読み上げた。
 絵本の題名は『笑わない王女』。露西亜の有名な童話の一つなのだと云う。題名の通り、一切笑う事のない王女と、街の正直者が結ばれる迄の物語だった。

『この王女は貴女のようですね。そして一切笑わない王女を心配して御触れを出した王様は、ぼく。でも善かった。正直者が現れる事もなく貴女はこうして笑みを見せて呉れるようになった』

 絵本を閉じた指先が、お姫様の描かれた表紙に視線を落としていた私の目尻を撫で上げる。釣られて視線を上げると、彼は唇に弧を描いたまま至近距離で私を見下ろしていた。息を呑む。

『今日は貴女が頼って呉れて嬉しかったです。これからも遠慮せず沢山甘えて下さいね』

 彼の言葉が、また脳髄まで響いて来る。其れは不安に苛まれていた私の心を救うように、隅々まで行き渡って染み込んだ。頷いた私に彼は心底嬉しそうに笑った。次いで善い子だと髪を撫でると、テーブルの紅茶とクッキーを食べるように促した。紅茶の温度は丁度よく、クッキーはサクサクとして仄かな甘味が口一杯に広がった。フョードルさんは、お母さんよりもお母さんらしかった。彼は、苺のジャムをティースプーンで掬うと、手ずから私の口に運ぶ。そして、あまりの美味しさに頬を緩ませた私に優しい笑みを向けてくれるのだ。

 露西亜語は日本人の私にとって難しい言語だった。フョードルが云えずヒョードルと発音する私を彼は叱ったりはしなかった。
 この頃には、私はもうすっかり彼に甘える事を覚えてしまって、彼の傍について離れなかった。パソコンに向かう彼の外套を握りしめたまま床に座り込んだ私に時折視線を向けては、根気よく発音を教えて呉れる。其れが嬉しくて、私はよく巫山戯ては彼を困らせていたものだ。

『ふぇーじゃ?』
『そうです。フョが云えないのでしょう? なら其方で呼べばいい』

 けれど、根気がよいと思われた彼は匙を投げるのも意外と早かった。云ってご覧なさいと促す彼は、些か疲れたように頬杖をついていた。彼の予想通り、私はフェージャなら上手く発音が出来た。然し、私は知らなかったのだ。フェージャがフョードルの愛称であり、親しい人が呼ぶものだという事を。
 数日後、フェージャさんフェージャさんと呼ぶ私にゴンさんが絶叫した。『主様を気安く愛称で呼ぶだなんて、貴女は何を考えているのです!?』何時もニコニコと笑っていたからあまりの豹変に私は少し泣いた。けれど、同時にフェージャという呼び方が特別なものだとも理解した。だから私は一生懸命練習した。ゴンさんは途中で匙を投げる事もなく私がフョードルと発音出来るようになる迄付き合ってくれた。そして漸く彼をフョードルさんと呼べるようになると、

『残念です。フェージャと呼ぶ貴女はとても可愛らしかったのに』

 フョードルさんは、其の美しい顔を悲しそうに歪めてそう呟いた。少しだけ心がぐらつき掛けたけれど、ゴンさんの目が恐ろしかったので耐えた。

 道化師ことニコライ・ゴーゴリと出会ったのもこの頃だった。何もない空間から顔だけを覗かせた彼に私は絶叫し、フョードルさんの細い体に力一杯にしがみ付いた。流石に驚いたのだろう。フョードルさんは一瞬ビクリと体を震わせると、彼特有の笑い声を上げるゴーゴリを一瞥して溜息をついた。

『名前、名前、落ち着いて。彼は、ニコライ・ゴーゴリ。ぼくの同僚の一人です。生首でも幽霊でもありませんよ』
『ハハハーハハ! 最っ高、ドス君が普通の子供を拾ったって聞いた時は耳を疑ったけど私を幽霊、生首だって!』

 息を荒げる私を落ち着かせようと背中を撫でて呉れるフョードルさんの腕の中から見たゴーゴリは、笑いの沸点が可笑しいのか腹を抱えて大笑いしていた。そして一頻り私を笑った後、其の場に跪き、手袋をした片手を差し出す。恐る恐ると顔を覗かせると、頭上でフョードルさんが咎めるようにゴーゴリを呼んだ。然し、この道化師が止まる筈もなく、そして少なからず道化師に興味を引かれた私が顔を伏せる事もなく、ポンっと軽い音が鳴る。

『いやあああああああっ』
『本当最高だよ君! 名前は? あ、名前だったね、これからどうぞ宜しく。なんちゃって!』

 誰が宜しくなんてするものか。精巧に作られた人間の生首の形をした人形を片手に、愛想よく笑う道化師と仲良くしていい事なんて一つもない。屹度そうだ。フョードルさんは、もう背中を撫でて呉れなかった。多分、私達のやり取りに呆れていたのだと思う。
 結局ニコライ・ゴーゴリとは今でも会っては揶揄われる関係が続いている。ゴーゴリ曰くフョードルさんは、自分を理解して呉れた唯一の親友なのだそうで、定期的に屋敷に出没するのだ。却説、クイズだ。私は何をしに来たのでしょう。正解は、名前で遊ぶ為、だーっ。なんて巫山戯た台詞を吐く彼も、国際的な犯罪者なのだから世の中判らない。ああ、そうだ。私の大好きなフョードルさんも、同じ犯罪者なのだった。




「『笑わない王女』ですか。懐かしい」

 現在の時刻は午前零時。入浴もとっくに済ませ、ベッドで脚を伸ばしていた私の横に腰掛けたフョードルさんは、私の手元を覗き込んでから小さく笑う。今し方入浴を終えた彼の濡れた黒髪から水滴が垂れて、シーツに染みを作るのが見えた。
 何度も何度も読み聞かせて貰って随分と古びてしまった絵本を手に取ったのは久しぶりの事だった。ただ、懐かしくなったのである。ゴンさんと昔話をして過ごしたせいだ。今では読めるようになった絵本のキリル文字を指先でなぞり乍ら、私はそっと彼の細い肩に頭を寄せた。何時も低体温のフョードルさんも、流石にお風呂上りは温かい。

「貴女は、幾つになっても甘えん坊さんですね」
「……だめ?」
「いいえ。嬉しいですよ」

 垂れた水滴が私の頬を滑り落ちる。私とは違うシャンプーの香りがして、額に柔らかな感触が触れた。胸の奥が締め付けられる感覚がして、思わず緩みそうになる頬を必死になって押さえた。

「可愛い名前、貴女はずっと其の儘……ぼくの名前で居て下さいね」

 彼に可愛いと、善い子だと、ぼくの名前と呼ばれる度、私は云い様のない幸せを感じる。屹度、ゴンさんはずっとこんな感覚の中にいるのだろう。そう考えると、ほんの少しだけ、あの包帯の下が羨ましく思った。
 背中に添えられた手に誘導されるまま、ベッドに寝そべる。今日は一緒に寝ては呉れないらしく、彼は座ったまま私を穏やかに見下ろしていた。私は、其の目が好きだった。優しくて、甘くて、綺麗で、お母さんにも似た、否其れ以上の愛情を呉れる人。ふと脳裏に亡くなった両親の影が浮かぶ。けれど、二人の影はあっという間に消えてしまった。

「おやすみなさい、名前。明日は一緒に書店に行きましょう。最近寂しい思いをさせてしまっていた分、好きな本を購ってあげますからね」

 毛布に包まる事もなく、室内に流れる冷たい空気に触れ続けたせいで彼の指先はすっかり冷え切ってしまっていた。指先は頬を撫でて、髪を梳いて呉れて、比例するように段々と意識がぼんやりとして来て、目蓋が重くなる。頭に触れていた指先が離れる感覚がした。ベッドのスプリングが軽く鳴って、彼の肩に掛かっていたナイトガウンがずれる音がした。そして、扉がそっと閉まる。ああ、矢張り独りだけの寝室は今でも少しだけ寂しい。早く朝になればいい。

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