「死ねぇ!!」
背後から聞こえた男の声に、今自分が何処にいるのか一瞬見失った。咄嗟に体を翻すけれど既に遅く、足先に焼け付くような痛みが走りその場に崩れ落ちてしまう。
つい最近も同じような事があった。あれは、屋敷でフョードルさんもゴンさんも居ない夜だったから今とは全然状況が違うのだけれど。ならば、今の状況は。思い出す。此処は死の家の鼠の潜窟の一つ。地下奥深くに伸びた地底基地で、昨晩フョードルさんにお願いしてついて来たのだった。ああ、そうだ。だから私が倒れ込んだ床は土で出来ているのだ。
せっかくフョードルさんが購ってくれた服が土に汚れてしまった事にショックを受ける私の傍に男が歩み寄る。小太りで髪の短い知らない男だった。死の家の鼠の構成員だろうか。そう云えば昨晩、新しい構成員を雇ったとフョードルさんが云っていた気がする。慥か、その異能は――
「なんだ生きてやがるのか。まあ、いい。俺の異能力でお前は今から苦しむ事になる。母親から教わらなかったか? 切り傷一つでも気をつけな、ってな」
ニヤニヤと笑って男は爪先で私の体を転がした。仰向けになると呼吸が少しし易くなる。けれど其れは一瞬の安寧に過ぎなかった。心臓が一度大きく跳ねて、次第に思考が鈍り出す。ぐるぐるぐるぐる。目が回って四肢が震え出す。強烈な吐き気が襲って咄嗟に片手で唇を覆ったけれど、浮かび上がった脂汗が私の動きの邪魔をした。
ウイルス型異能力者、アレクサンドル・プシュキン。欧州の異能力者専用の刑務所から先日フョードルさんの手引きで脱獄した男。其の情報だけが私の頭の中で唯一正常に作動していた。
「しかしなんだ、この女。ドストエフスキーから構成員にこんな女が居るなんて話は聞いちゃいなかったが……侵入者か? それにしては随分弱っちいが」
ああ、矢張りそうだ。鼠の構成員で、フョードルさんと面識のあるメンバーは私も会った事がある。プシュキンは、先日加入したばかりだから、私と会った事がないのだ。
そうと判れば事情を説明すれば善いだけの話だ。然し、私の口は上手く動かないし何ならもう体の自由さえも利かなくなってしまった。プシュキンは繁々と私を見下ろして、それから嫌な笑みを零すと懐からナイフを取り出す。
「まあ、善い。恨むならこんな所に迷い込んだ自分を恨むんだな」
これは善くない流れだ。首筋に宛がわれたナイフの銀色は非道く冷たくて、只でさえ難しくなった呼吸を更に妨げる。プシュキンが一ミリでも刃を動かせば私の皮膚は裂け、血が噴き出すだろう。考えただけで血の気が失せて、私は助けを求める為に視線を揺らした。
そして気が付く。薄暗い地下の廊下からコツコツと足音が響いて来る。足音は私達の背後で止まった。
「おや、名前。遊んで貰っているのですか?」
話しかけられた私より先にプシュキンが動いた。ナイフをサッと上げて声の主、フョードルさんと反対側に飛びのいた彼は、私の目から見ても判る程に動揺していた。
でも善かった。これでもう安心だ。そう安堵して、ひゅうひゅうと喉で呼吸を繰り返し乍ら、強烈な眩暈を逃すように目蓋を閉じる。其れでも込み上げる吐き気は抑え切れず、壁に寄り掛かったまま今度は両手で口を押えた。
「プシュキンさん、異能を解いて貰っても? 貴方の『遊び』は名前には些か過激すぎるようなので」
「わ、判った、云う通りにする! ほら、解いたぞっ」
「結構。けれど、名前。今回は貴女も悪い。ぼくは云ったでしょう? 一人で外に出てはいけません、と。部屋へ戻りましょうね」
フョードルさんは何時も通り綺麗に笑っていたけれど一寸苛立っているようだった。プシュキンは脱兎の如く逃げ出して、薄暗い地下の廊下には私とフョードルさんしか居ない。だから、彼の苛立ちがよく判る。眩暈と吐き気が消えて楽になった私の腕を引く彼の背中は何時にも増して冷たく、私の手首を握りしめる指先だって何時もより力強い。骨と皮しかないような細い体なのにフョードルさんは意外と力が強いのだ。
地下通路の奥深く、ちょっとしたフリースペースに到着すると、フョードルさんは私をソファに座らせて部屋を出て行ってしまった。代わりにゴンさんが部屋に入って来る。彼は片手に水と薬と持っていて、悲しそうな顔をしてそれらを差し出した。
「ああ、主様は大変悲しんでおられます」
「悲しむ……フョードルさんが?」
「ええ。名前、貴女は主様にとって大切な御子。貴女が傷つけば、其れは主様の傷にもなるのです。貴女は本当に幸せな子ですね」
フョードルさんによって脳を弄って貰ったと云うゴンさんは、たまにこうした難しい話をした。水で錠剤を流し込み、コップを返す。するとゴンさんは笑みを深めたまま、大きな手で私の頭を撫でた。
「貴女も大切な此処を主様に触って貰えば善い。そうすれば主様も貴女の事で余計な心配をする事もなくなる……ああ、なんて幸せな事なのでしょう!」
ゴンさんの事は嫌いではない。優しいし、お菓子の作り方や紅茶の淹れ方だって教えて呉れた人だから、むしろ好きだ。けれどこんな時の彼は少しだけ怖い。フョードルさんも一緒だ。大好きで、大好きで、ずっと一緒に居たい人だけれど、彼もたまに怖い時がある。
ゴンさんの提案に私は頷く事も拒否する事も出来ずにいた。脳を細工して貰えば、恐怖や絶望から解放される。ゴンさんのように多幸感の中で生きて行けるだろう。其れは甘美なようでいて、少し否とても怖い事だ。
「ゴンチャロフさん、もう結構ですよ。下がりなさい」
この一方的とも云える会話を終わらせたのはフョードルさんだった。呆れて部屋を出て行ってしまったかに思われた彼は、片手に黒色の服を持ってこの部屋に戻って来たのだ。
ゴンさんはフョードルさんの命令に逆らわない。ただ、笑みが消えて途端に悲しそうな顔をして「主様、出過ぎた真似を致しました」と敬服すると、足音もなく部屋を後にした。
入れ替わるように私の前に立ったフョードルさんが黒色のそれを私の膝に置く。ひざ丈のシンプルなワンピースだった。
「着替えなさい。土と汗を吸って気持ちが悪いでしょう」
矢張りフョードルさんの声色は何時もより少し硬い。背中を向けた彼に頷いて土と汗を吸った服を床に落とす。肌触りのワンピースを着て、背中のファスナーを上げようとするけれど、上手く出来なかった。
「フョードルさーん……」
泣き言を漏らす私に彼は溜息をつきながら振り返り、ファスナーを上げてくれる。最後に、巻き込まないように上げていた髪を整えて、彼は真正面から私を見据えた。私はソファに座り、彼は腰を屈めているから顔が近い。
「侍従長に云われた言葉は予想が付きます。どうします? 貴女、ぼくに此処を弄ってほしいですか?」
何時も私がしがみついて見上げる事が多いから、こうして真正面からまじまじと彼の顔を見るのは久しぶりだった。白を通り越して青白い肌は相変わらず不健康そうで、実際貧血体質なのだから時折私は心配になる。其の白い肌に配置されたパーツは精巧な人形のように整っていた。中でも目を引く紫水晶のような瞳は、髪と同色の長い睫毛が覆っている。目の下の隈は痛々しいけれど、本当に美しい人だと思う。絶望すら感じさせる美貌、其れが私の中で彼に一番似合う言葉だった。そんな人が私を大切にして呉れているだなんて、今更ながらに現実離れしているとつくづく思う。
「ぼくの顔をそんなに見つめても答えは出ないでしょう」
そんなに凝視していた心算はなかったのだが、実際私はそうしていたらしい。彼が可笑しそうに笑う声に合わせるように頬が熱くなる。
両手で覆って俯くと額に添えられていた彼の指先が其の儘くるくると弧を描いた。くすぐったくて、けれど逃げられない。びくびくと肩を揺らす私に、彼は更に面白そうに笑う。
「云わなくてもいいですよ。ぼくは貴女の事は何でも判っていますから。ええ、屹度この世界で一番理解しているのはこのぼくだ」
「……うう、そうだと思います」
「おや、随分素直なんですね」
「だってフョードルさん、何時も私の欲しい物とか判るじゃない」
私の言葉にフョードルさんは瞬きを繰り返して、長い睫毛を伏せる。額に触れていた指先がなぞるように私の頭を滑り落ちる。もう片方の手は私の赤く染まった頬に添えられた。
「では、今一番欲しいものをあげましょうね」
フョードルさんは、たまに怖い。でも何時だって私には優しかった。現に今も、先程の苛立ちは何処かへ消えてしまったかのように、お母さんのような微笑みと共に欲しいものを呉れる。
「愛していますよ名前。だからぼくを悲しませないで下さいね」
額に触れた温もりは、やけに甘ったるく感じた。