「1/f」 | ナノ


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 気が付くと、古い中華風の建物の前に立っていた。
 何処だ、此処。先ず空気が違う。私は露西亜の屋敷に居て、フョードルさんを捜していた。現在の露西亜の季節は冬。外は一面の白い雪で覆われ、彼を誘って暖炉のある部屋でぬくぬくと紅茶を飲もうと思っていた所だった。其れなのに、可笑しい。この建物の気候は春のそれだ。穏やかで、過ごしやすい陽気と小川の潺、何処からともなく聴こえて来る弦楽器の音色が眠気を誘う。
 背後を振り返るが扉は閉まっていて、押してみるが開きそうにない。目の前には石畳の道があり、一直線に建物に続いている。進めと指示されているようだ。

 建物に入ると、ほんの少しだけ空気が涼しくなった。暑い訳でもなかったけれど、露西亜の冬に順応していた体には暑かったので冷たい風にホッとする。庭に面した廊下を歩いていると一室の窓が開いている事に気が付いた。誰かが居る気配に恐る恐ると顔を覗かせる。

「あ」
「ん?」

 窓の向こうの室内では、全身真っ白な美しい男性が書物を紐解いていた。如何やら此処は書庫のようで、山ほどの書物や書簡が机や棚に置かれている。後、何故か頭蓋骨も。男性の生気のない瞳も相まって心底不気味である。

「ああ、君も来たのか」
「えっと……」
「私は澁澤龍彦。まあ、どうせ忘れてしまうだろうし覚えていなくてもいい」
「はあ」

 全身白の中、唯一紅色をした双眼が実に詰まらなさそうに細くなる。髪と同色の長い睫毛が実に美しい。新しい書簡を手に取った彼は、紐を解きまた内容に目を通し始める。私には蚯蚓がのた打ち回ったようにしか見えないが彼は読めるのだろうか。

「君は」
「はい!」
「フョードル君を捜しているのだろう。彼なら池を抜けた先の庭園に居る」
「あ、ありがとうございます」

 暗に早く何処かへ消えろと云われているようで私は、速足に其の場を立ち去る事にした。取り敢えず云われた通り、池を目指してみよう。

 回廊を抜けると建物に似合う絢爛な庭が目前に広がった。無数の蓮の花が咲く池は、この世のものとは思えぬ程美しい。思わず感嘆の息を吐いていると突然背後から誰かに肩を叩かれた。

「誰!?」
「ええ〜、矢っ張り覚えていないのだねぇ」

 振り返った先に居たのは白い衣装に身を包んだ蓬髪の男性だった。秀麗な顔立ちに明らかな落胆を乗せて肩を落とした男性は、髪につけた紅色のリボンを揺らし乍ら動揺する私の横に立つ。

「真逆、君も此処に来ちゃうなんてね。忠犬のようじゃないか。私、犬は嫌いだけど」
「なんだこの人」
「まあまあ。丁度私も暇をしていたんだ。どう? 私とこの美しい池を眺めつつ杯でも交わさないかい?」

 急いで首を横に振り、拒否を示す。飲酒は止めておきなさい、とフョードルさんに以前云われているのだ。そうでなくともこの人と酒を飲む気にはなれそうになかったし、何より今はフョードルさんを捜す事を優先したい。
 肩を竦めた男性は、ちぇっと唇を尖らせて池の畔に座り込んでしまう。胡坐をかいて頬杖をついた横顔は端整で、思わず見惚れてしまうものだったけれど如何にも私は、この人が好きになれそうにもなかった。

「君、此処は何処だと思う?」
「判りません……気が付いたら此処に居たので」
「私達と同じか。私はね、極楽浄土かと思ったよ」

 極楽浄土――要するにあの世だと男性は云う。あまりに非現実的なのに、この世のものとは思えぬ美しい光景があながち嘘ではなさそうだと信憑性を持たせる。然し、だとしたら私は死んでしまった事にならないだろうか。何だか段々と怖くなって来た。早くフョードルさんに会いたい。

「行くのかい? 彼なら、あの橋に居るよ」

 男性は微笑みを浮かべて池に掛かる紅色の橋を指差した。少し遠いが、慥かに誰かが居るのが判る。早口にお礼を告げて駆けだした。男性は楽しそうに片手を振っていた。

 池の周囲を走り、橋を目指していると弦楽器の音色が大きくなっている事に気が付いた。段々姿が大きくなって、其処でフョードルさんが何か楽器を弾いていると気が付く。橋に脚を踏み入れると音色はピタリと止んだ。今し方出会った男性二人のように見た事のない白い中華風の衣装に身を包んだフョードルさんが、金色の髪飾りを揺らして此方を見る。

「おや、矢張り貴女も来ましたか」
「フョードルさん〜!」

 薄く浮かんだ笑みに漸く心の底から安堵した。最後の力を振り絞り彼の元へ駆け寄ると、長い裾の間から白い指が伸びて乱れた私の髪を整えて呉れる。

「心細かったでしょう。よく此処が判りましたね」
「澁澤って人と、もう一人の男性が教えて呉れたの」
「ああ、太宰君ですね。お二人にはぼくからも後でお礼を云っておきましょう……如何しました? ボンヤリとしていますけど」
「えっと……先刻の二人もそうだったけど、フョードルさん其の服凄く似合ってる。綺麗」
「え? ふふ、何を云うかと思えば……有難う。貴女もよく似合っていますよ。可愛らしい」

 云われてみて気が付いた。先程迄は普段着でいた筈の私の服装が、フョードルさん達のような白い中華風の衣装に変わっていた。ひらひらとした裾が歩き難い事この上ない。否、抑々私は着替えなんてしていないのに、これはどんな絡繰りだ。
 独り慌てる私が面白いのか、それとも呆れているのか、フョードルさんは何処からか出した扇子で口元を隠し乍ら眉を下げている。屹度扇子の向こう側の唇は緩やかな弧を描いている事だろう。

「フョードルさん、此処如何なっているんですか……何かの異能なの?」
「さあ、どうでしょうね。太宰君の云う通り極楽浄土か、其れともぼくらに何らかの恨みのある異能力者の仕業か……太宰君の力を持ってしてもこの箱庭からは出られないようですし、若しかしたら貴女の夢かもしれませんね。さながら胡蝶の夢のように、ね」
「ええ……」
「そんなに怯えた顔をしないで。折角です。貴女もこの現状を愉しんでみては?」

 パタン、と扇子を閉じてフョードルさんが腰掛けた柵の横を叩く。若し、これが彼の云う通り私の夢であったならば、目の前の此の人や道中に出会った二人も夢の産物と云う事になる。けれど、今は唯心細くて仮令偽物であったとしても彼の傍に居たかった。
 柵に腰掛けてギュッと横の細い腕にしがみ付く。冷たい掌が羽織を握りしめた私の手に重なって緩やかに握り返された。

「大丈夫、ぼくが居るでしょう。そうだ、二胡を弾いてあげましょう。善い音色ですよ。ぼくも気に入りました」
「うん」

 重ねていた掌が私の手を退かし、穏やかな音色が響き始める。絢爛な中華庭園によく似合う美しい音色は、矢張り眠気を誘い、次第に目蓋が重くなる。

「おやすみなさい」

 もう一度目が覚めた時、私は現実の彼に会えるだろうか。

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