「1/f」 | ナノ


泡沫が消える頃には


 500人以上の招待客を収容してもなお余りのあるパーティー会場は、天井に飾られたシャンデリアを中心に宮殿の如く絢爛な光を放っていた。
 今宵のパーティーも無事成功した。見ろ、この締まりの無い顔を。このホテルの所有者でありパーティーの主催者でもあるフィッツジェラルドは、招待した仕事関係者と杯を交わし乍ら満足気に笑みを深める。各種酒類にホテルお抱えの料理人が腕によりをかけて作り上げた芸術品のような料理の品々、一流の楽団と歌手による今宵限りの特別演目――凡てが招待客を楽しませ、彼の手筈通りに事が運んでいる。
 フィッツジェラルドは実業家として成功する一方、強力な異能力者を擁する組合の長としても名を知られている。今回のパーティーには実業家としての友人達や各界の要人達の他に組合としての商談相手も招待しており、今し方其の商談相手との対話を終えて来たばかりだ。シャンパングラスを傾け、次の挨拶相手を捜すべく其の場を離れると窓辺の壁に寄り掛かる一人の女に目が止まった。ソフトドリンクの注がれたグラスの柄を手持ち無沙汰に遊ばせ乍ら俯いている女は、実年齢は二十歳間近だろうが少女と呼んでも差し支えがない幼さを内包しているように見えた。肌の色や顔立ちからして亜細亜人だろう。長い黒髪を丁寧に編み込み、上品なデザインのパーティードレスに身を包んでいる。商談相手でもない少女に近づいたのは単に興味が湧いたからだ。次に着手する街が亜細亜諸外国、日本に在ると云うのもある。シャンパングラスを少女のグラスに中てると漸く目線が上へ上がった。

「浮かない顔だな、可憐なお嬢さん。俺の用意したパーティーはそんなに退屈かな?」

 試しに日本語で話しかけてみたが如何やら予想は中りだったようだ。少女はあからさまにホッと息を吐くと下手くそな愛想笑いを浮かべた。

「いいえ。凄く煌びやかで別世界に来たみたいで楽しいです。ただ私は英語もあまり判らないので会場の雰囲気に少し疲れてしまって」
「成程。其れは配慮不足で申し訳なかった。真逆、日本の女性がこんな処に来て呉れるとは思わなかったんだ」
「そんな、抑々招待されたのは私じゃないのでそんなに気を使わないで下さい」

 其の言葉にフィッツジェラルドは一瞬笑みを引っ込めた。そして少女が可笑しく思わないタイミングで再度精巧に作り上げた笑みを浮かべ腰を折る。少女は耳にイヤリングを着けていた。フィッツジェラルドの好みではないが、紫水晶のあしらわれたドレスに似合うデザインの品物だ。然し、裏社会にも精通するフィッツジェラルドは直ぐに気が付いた。これは骨伝導式の通信機である、と。

「失礼、お嬢さん。其の招待された相手と云うのは何方かな?」
「ああ……」

 躊躇する事なく少女は云った。其れは、組合の長としての商談相手の名だった。
 成程、この少女はあの鼠の――笑みの裏でフィッツジェラルドは思案する。鼠、ドストエフスキーが同伴者を連れて来る事は事前に知らされていた。だが、其れは鼠の構成員でありこんな極一般的な少女だとは露にも思わなかった。それに態々この少女を此処へ連れて来て、独り会場に残した理由は何だ。
 少女はフィッツジェラルドの笑みの裏にある考え事など知る由もなく、ステージ上のパフォーマーに目を奪われている。其れを横目に捉え、シャンパンの泡沫で喉を満たし、同じように視線をステージへと向けた。

「然し、ドストエフスキーにこんな可愛らしい恋人がいるとは知らなかった。彼とは何処で出逢ったんだ?」
「こ、恋人!?」
「何をそんなに慌てる。態々露西亜からこんな別国にまで連れて来たんだ。其れ相応の関係があるのは見て取れるさ」
「ええっと……否、本当に私恋人なんて大それたものじゃなくて……今回連れて来て貰ったのも元はと云えば私の我儘で……」

 落ちて行く声色と共に視線がステージから外れ、また脚元へと注がれてしまった。暗い雰囲気を纏ったまま少女は懺悔するかのように続ける。

「フョードルさん、本当は独りで此処に来る予定だったんです……でも、其の、少なくとも三日は家を離れる事になるって云われて寂しくなっちゃって……耐えきれず我儘を云ってしまいました」
「はあ……ではドストエフスキーは君の我儘を受け入れて此処へ連れて来た、と」
「はい……今こうして会場に居るのも私が初めてのパーティーをもっとちゃんと体験したいって我儘を云ったおかげで……フョードルさんは早々に具合が悪くなって別室で休んでるんです」

 別室と云うのは、先程フィッツジェラルドがドストエフスキーと商談を結んだ防音加工の成された部屋の事である。都合よく遠ざけられた事など知らぬ少女は、心底申し訳なさそうに語り終えた。
 ふむ、とフィッツジェラルドは自身の顎に指を添える。今日は、なんと云う日だろうか。商談の成立の他に、ドストエフスキーの懐に居る女の存在を知る事になろうとは。
 いつの間にかグラスの中身は共に空になってしまっていた。近くを通り掛かった給仕に新しいドリンクを用意するよう伝える。すると少女は、其れを慌てたように制止した。

「もう大丈夫です! 元々三十分だけの約束だったので私、部屋へ戻りますから」

 通信機に加えこれとは、何とも過保護なものだ。内心呆れ半分、興味半分、フィッツジェラルドは空のグラスを給仕へ預けると少女の目前へと立った。顔の側面に垂れる髪を払うように手を伸ばす。そして慌てふためく少女の声を無視してイヤリングを片方外し取った。ザザ、と電子音が聞こえ、次いで第三者の呼吸音が耳に届く。

「やあ、先程振りだ鼠。随分と大切にしているようだな」

 フィッツジェラルドの身長はドストエフスキーよりも更に高い。故に亜細亜人の平均的な身長しかない少女の腕ではイヤリングを取り戻す事は出来ず、然も英語での会話は理解も出来やしない。真逆自分の事を話されているとは思ってもない少女は、何度も飛び跳ね乍らイヤリングを返すように繰り返した。だがフィッツジェラルドに返す気は微塵もない。少なくとも今は。

「如何やらレディは退屈しているようだったのでね。僭越乍ら俺が相手をして差し上げていたところだ」
『其れは、其れは……ぼくの同伴者が大変お世話になりました。貴方が態々相手をして下さっていたのならあの子の退屈も紛れたでしょう』
「然したった三十分とは非道い話じゃないか。灰被りでさえ十二時まではパーティーを楽しんだんだ。もう少し自由にさせてやらねば彼女も息が詰まるだろう」
『ふふ、そう思われるのなら本人に訊いてみては?』

 そう云われ再度見下ろした少女は怒りと悲しみを滲ませた瞳で一心にフィッツジェラルドを睨み上げていた。まるで宝物を奪われた子供のような瞳をしている。嗚呼、成程。本日何度目かになる納得である。
 同時にドストエフスキーとの会話は終わった。最早、この少女に対する興味は消え失せつつあった。

「すまなかった。さあ、行くといい」

 奪い取るようにイヤリングを受け取ると、少女は挨拶もなく走り去った。幼い背中を見送り、思わず肩を竦める。するとタイミングを合わせるように背後からシャンパンの注がれたグラスを差し出され、其れを受け取った後扉へ向けて背中を向けた。会場には相変わらず華やかな世界が広がり、招待客達が主催者である彼を今か今かと待ち構えていた。期待に応え乾杯の合図を取る。掲げられたグラスの数々に心から満足した。



 乾杯の合図を背中に、名前は駆け足でパーティー会場を飛び出した。背後で扉が閉まるともう華やかな笑い声は届かない。落ち着いたクラシック音楽の流れる廊下を進み、エレベーターに乗り込み上階へ。部屋番号を確認し予め用意していたカードーキーで入室すると、待ち人はソファの上で仰向けに寝転がっていた。

「ううっ、フョードルさーん!」
「嗚呼、お帰りなさい」

 会場に到着した時はしっかり留められていた筈の胸元のタイを緩め、白い目蓋を自身の腕で覆い隠していたドストエフスキーは、名前の呼び声にゆっくりと腕を上げた。然しソファから起き上がる気はない。体調があまり優れないのは事実であり、名前が彼の体勢を気にする事なく抱きついて来る事も予想済みだったのである。

「如何しました? 折角だからパーティーに出たいと云ったのは貴女自身でしょう。楽しくはなかったのですか?」
「だって、だって……英語判らないし独りだと心細いし、寂しいし、あの主催者って人にイヤリング取られたりして……とにかく疲れたんですよぉー!」
「おやおや」

 見事予想通り、ドストエフスキーの上に乗り上げるようにしてしがみ付いて来た名前は心底疲れたように盛大な溜息を吐いた。そしてドストエフスキーの胸元に額を押し当てて深呼吸を繰り返す。其の呼吸に合わせるように背中を摩ってやると次第に気分も落ち着いて来たらしい。すん、と一度鼻を鳴らすと顔を上げ、今度は頬を押し付けた。瞳がとろとろと揺れている。如何やら本当に疲れているようだった。
 却説、如何したものか。僅か三秒間の間に幾つかのパターンを考え、シミュレーションを繰り返し、最適解を導き出す。

「実はぼくも寂しかったです。この通り体調迄悪くなってしまって名前が早く帰って来て呉れないかと願っていました」
「本当?」
「勿論、本当ですよ。そして祈りは通じて貴女は約束を守りこうして戻って来た」

 両頬を包み込むように耳を飾り立てるイヤリングを取り外し、指を其の儘滑らせる。すると名前は、嬉しそうに頬を緩め掌に擦り寄って来る。其の様子はまるで猫のようでドストエフスキーも頬を緩めた。

「いらっしゃい。これ以上、他の男の匂いが染み付いている貴女を其の儘にして置くのは我慢ならない」

 仕上げに腕を広げて見せると、勿論名前は躊躇等しなかった。幼子が親を求めるかのような仕草で腕を伸ばし、ほっそりとした首に回すと力を込める。離れない、離れたくない、そう云うように目蓋を固く閉じて密着させた其の体をドストエフスキーもまた抱き返した。
 鼻腔を擽る香りは、フィッツジェラルドの香水の物だろう。あの組合の長らしく高級感溢れる香りだがあまり好ましくはない。其れが、己の所有物に染み付いているのなら尚更だ。視界に映り込む丸い頭頂部にそっと口付けて、ふと窓の外へ視線を投げた。輝く街並みに吸い込まれるように真っ白な雪が降っていた。嗚呼、そう云えば――視線を戻す。

「今日は世間的に云えば降誕祭でしたね」
「……え?」
「十二月二十五日ですよ」
「ああ、そう云えば。露西亜だと降誕祭は一月だからすっかり其の認識になってしまって」
「ふふ、すっかり母国の文化に慣れてしまいましたね。喜ばしい事ですが……却説、名前何か欲しい物は? 貴女の望む物は何でも用意させますよ」
「其れ毎年悩むんですよね」
「ゆっくり考えなさい」

 悩むように小さく唸りつつ、名前は両脚を揺らす。幾つか候補がある事は知っていた。実年齢より幼い名前はドストエフスキーの庇護の元、裏社会に身を置いているが、一般人と変わらぬ物欲を持っている。彼女が毎年強請る物はそう高価な品物ではない。街で見かけた縫いぐるみであったり、洋服であったり、時には美しい挿絵の描かれた本であったり、ドストエフスキーは与えた物凡てを記憶していた。

「先に云っておきますが携帯端末は駄目ですよ」
「ちぇ」
「こら、其の表情はやめなさい。はしたない」

 膨らんだ頬を嗜めるように指先で押すと、空気の抜ける音と共に名前の顔は再度ドストエフスキーの胸元へ埋まった。今度は本気で悩んでいるらしい。唸り声は暫く止まず、その間ドストエフスキーは汚れの一つもない天井を眺め続けていた。答えが出るには未だ未だ掛かるだろうが、急かす心算は微塵もなかった。どうせもうパーティー会場に戻る気はないし、母国での降誕祭まで時間もある。其れにこうして悩む名前を見ているのは嫌いではなかった。
 背中に添えていた指先で名前の編み込まれた髪を解き、指先で梳かし乍ら重い目蓋を閉じる。何時しか名前の呻き声は、あまり上手とは云えない賛美歌へと変わり段々と小さくなって消えていった。健やかな寝息に小さく息を吐き、体から力を抜く。今夜は此の侭ソファで明かす事になりそうだ。

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