「1/f」 | ナノ


少女、六歳


 未だ露西亜に来て間もない頃の私は、突然変わった生活環境に中々慣れる事が出来ずにいた。日本のような四季はあっても其の大半を寒気が占める北の大地は私を受け入れまいとしているようで非道く心細かった。フョードルさんやゴンさんは日本語で私に話し掛けてくれたけれど、あの頃の私は両親を喪った哀しみに浸りきって彼等の手を取れずにいた。食事を取りなさい。いやいや。そんな所に居ては寒いでしょう、暖炉のある部屋へ行きましょう。いやいや。そんなだから今でこそ考えられないが、フョードルさんは次第に私に飽いて行き、ゴンさんもまた主に倣って私を放置するようになった。心細さは倍増した。与えられた解熱剤を呑んで毎日泣きながらベッドに突っ伏したあの頃は、今思い出しても苦しくなる。
 部屋の中は寒かった。日本は寒くないのに。だって風邪をひいたらお母さんやお父さんがずっと傍に居て看病してくれていたから。大丈夫、直ぐに善くなるよ。そう云って髪を撫でてくれた指先を思い出すと私はまた涙をポロポロと流した。

 屋敷を飛び出したのは、そんな寒い雪の日だった。心細くて寒い屋敷から何処か別の場所へ行きたかったのだと思う。熱に魘されていたから正常な判断等出来る筈もなく、私は宛もないのに山道をふらふらとさ迷い歩いた。そして指先や足先が凍傷を起こした頃、気が付いた。この大地を幾らさ迷ったって両親にはもう逢えない。誰も私を庇護しては呉れないのだと。途端に体から力が抜けた。崩れ落ちるように雪原に倒れ込み弱々しい泣き声を上げた。怖い、寂しい、悲しい、つらい。涙と声さえ凍り付きそうな程の吹雪の中叫んだ言葉は誰にも届かない、筈だった。

『今日は雪遊びするには些か天候が悪いと思いますが……どうします? 家へ帰りますか?』

 眼球だけを動かした先にあったのは、慈悲とも取れる薄い微笑みを浮かべた青白い男性の顔だった。私に飽いて暫く会っていなかった彼は、その場に屈み込んだまま静かに私の返答を待っていた。其の姿が脳裏の両親の姿と重なったのは仕方のない事だった。

『……かえ、る……いえ、かえりたい……』

 嗚呼、何故私は今迄この手を取ろうとしなかったのだろう。こんなにも近くに救いはあったのに。私を抱き起こして着ていた外套に包み込む彼の手は、雪のように冷たく私の体温を更に奪う。其れでもよかった。もう離れないようしがみついて細く頼りない肩に顔を埋めた。彼は、フョードルさんはそんな私の背中を撫でながら一歩一歩元来た道を戻って行った。

『ねえ、約束をしましょうか』

 其の時、彼と交わした約束を私は今もずっと守っている。




「……」
「何です、先刻から人の顔をじろじろと見て」
「フョードルさんって」
「はい」
「全然老けないですね」

 私に付き合って午後のティータイムを楽しむフョードルさんに私が放った一言は、ティースプーンを動かす彼の指をピタリと止めた。視線が私へと向いて、それから細い指先が伸びる。向かった先は私の耳朶だ。

「人に年齢を訊くのは野暮ですよ」
「いたたっ、別に訊いてはいないんですけど」
「そうですか」

 パッと離れた指先を急いで掴まえる。そうだ、そうだった。今日は指先が荒れがちな彼の為にハンドクリームを持って来たのだった。
 いそいそと懐からチューブを取り出した私にフョードルさんは何も云わず、手を貸してくれる。細く骨と皮しかない指を一本一本丁寧にマッサージしていると、フョードルさんはもう片方の手で頬杖をつきながら私の名前を呼んだ。

「ぼくだって年を取りますよ。人間なんですから」
「そうですか? フョードルさん、六年前と全然変わらない気がするんだけどなぁ」
「貴女ね、ぼくとの年の差を考えてご覧なさい。幼く手を焼かせていた貴女も、もう直ぐ二十歳になります。ぼくも貴女もあの頃から六歳年を取っているのですよ」
「うーん」
「……未だ納得が行きませんか」

 フョードルさんの呆れを孕んだ冷たい視線が私の頭頂部に突き刺さる。内心冷や汗を流し乍らハンドクリームを塗り終わった手を離すと、今度はもう片方の手を差し出された。とりあえず嫌がられてはいなかったようだと安堵しつつ、また指先にクリームをつけて行く。

「六年、結構早かったです」
「そんなものですよ。一年なんてあっという間に通り過ぎる」
「六年経っても私、露西亜語上手くなりませんでした」
「そうですね。貴女一人じゃ購い物にさえ行けませんものね」
「フョードルさんから貰った絵本は読めるようになったんですけど発音が難しいです」
「そう云えば貴女、ぼくの事もヒョードルって発音していましたね」
「其れは忘れてほしいのですが……」
「無理です」

 思い出噺に浸っていたら思わぬ所で自身の黒歴史を掘り起こされてしまった。小指を塗り終えてパッと手を解放する。心なしか艶々になった両手を見下ろしたフョードルさんは、薄く笑みを浮かべて「ありがとうございます」と口にする。それに返事をすると、紫色の瞳が私の方を向いた。

「名前は、大きくなりましたね」
「へ?」
「ぼくが拾った頃は小さかったのに今ではこんなに美しい女性になった。実に喜ばしい事です」
「……え、あ、うあ」

 フョードルさんはよく私を善い子だと褒めて呉れるけれど、こんな風に褒めて呉れる事は珍しい。思わず頬を押さえて後退りする私に、彼は血色の悪い唇を持ち上げたままクスクスと笑い声を溢した。

「まあ、ぼくの贔屓目が入っている事は否めませんけどね」
「……ソウデスカ」

 頬の熱が急速に冷めて行くのが判った。いいんだ、自分でも判っている事だから。机に突っ伏した私の髪をフョードルさんが優しく撫でる。彼は昔から飴と鞭の使い分けが本当に上手い。

「よしよし、ぼくの可愛い名前。拗ねないで」
「拗ねてないー」
「そうですか。ならもういいですよね」
「やっぱり拗ねてます」
「素直で宜しい」

 彼の手は人の命を奪う。こんなに細く弱々しい指先なのに、意図も簡単に命の糸を千切ってしまう。其れでも私は彼の手が好きだった。だって私にとっての彼の指先は、何時だって優しく与えて呉れるものだったから。 そう、彼と約束を交わしたからだ。

『約束をしましょう。これから先、貴女にはぼくが居ます。どんな時でも貴女を守り、ぼくが持ち得る限りの愛情を注ぎましょう。貴女が寂しいと云えば抱き締めるし、貴女が怖いと云えば其の不安を取り除いて差し上げます。何でも云って善いのですよ。ぼくはこの世で唯一貴女を愛している存在なのですから。但し、一つ約束をして下さい。もう二度と亡くなった両親を恋しがってはいけません。死者を悼む気持ちは悪い物ではありません。けれど貴女はもう充分に傷付き、彼等を悼んだ。もういいのです。貴女の罪はもう充分に見せて頂きました。だから貴女は今を生きなさい名前。生きながら貴女は罰を受ける事が出来るのですから』

 六年前、雪の日。凍傷を起こした私の指と足先を温めて呉れたのは他ならぬ彼だった。母国から遠く離れた北の大地で、私は両親以外からの愛を受け取った。その愛は今でも私を包み込み、守って呉れている。冷たい屋敷と冷たい指先の下、其れが私の居場所となった。

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