「1/f」 | ナノ


殴り壊して再形成


 町で男の人と仲良くなったのだと、名前がやけに嬉しそうに報告するものだから本へ落としていた視線を右側へ傾けてしまった。
 二人の座るソファの左斜め側に置かれたテレビの液晶画面は、名前が観たいと云う音楽番組を映し出している。日本語で流れるバラード曲を小耳に挟み乍ら「今、なんと云いました?」と問いかける。ドストエフスキーの膝で頬杖をついた名前は、折り曲げた脚をプラプラと揺らして小首を傾げた。如何やらシンプルな問いの真意を判っていないらしい。

「其の男の事を詳しく話しなさいと云っているのです」
「ああ、成程」

 名前は頬を支えていた手を伸ばす。そして膝にべったりと頬を押し付けた後、記憶を辿るように語り出した。
 其の男と会ったのは、何時も購い物に出掛ける屋敷の麓の町だったと云う。夕食のデザート用に果物を購おうと店迄の近道として裏道を通った時、突然後頭部を強打され意識を失った――其処迄聞いてドストエフスキーは待ったを掛けた。右手に抱えたままにしていた本をそっとローテーブルへ置き、其の儘名前の耳朶に添えると力を込めた。

「イッ! イタタタタタッ! 話してるのになんで!?」
「この莫迦者。裏道を使った? 後頭部を殴られ気を失った? 今迄よくもぼくに黙っていましたね。これは仕置きです。甘んじて受け入れなさい」

 ギブアップを云わんばかりに膝を叩いていた手が止まった。同時に抓み続けていた耳朶から手を離す。

「続けなさい。話は終わっていないのでしょう」
「……其れで、目が覚めたら見知らぬ倉庫に居たんです」
「倉庫」
「は、はい」

 再度耳朶へ伸びかけた指を寸前で耐えた。話は未だ終わっていない。再度非道く叱るにしても、凡て話を聞き終えた後で善い。
 リラックスしていた筈の名前も、流石に場の空気を読んだらしくソファの上で正座をした。両手を膝の上で固く結び冷や汗を垂れ流し、視線を逸らす姿は哀れの一言であったが今、優しい言葉を掛けてやる事はしない。叱るのと同じだ。事後のケアは六年間名前を見続けて来たドストエフスキーにとって得意分野である。

 倉庫で目が覚めた名前は、両手両脚を縛られた上縄紐を噛まされていた。大方、人身売買の類だろうと予想はついた。以前、ポートマフィアのAに奴隷として購われた時も似たような経験をしていた事もあり、こんな最悪な状況でも多少は冷静でいられた。とは云え、心臓は今にも爆発しそうな程高らかに鼓動を響かせていたし、心は屋敷で待っているだろうドストエフスキーを求め続けていた。
 自分でも単純だとは思うが、其処を聞いてドストエフスキーの機嫌は少し持ち直した。固く握りしめられていた拳にそっと掌を乗せる。名前の目が光り、此方を見上げた。「続けて」なるべく優しいよう心掛けて囁いてやる。

「えっと……暫くして男が複数人入って来たんです」
「其れが誘拐犯だった、と」
「多分……うん、そうだと思う」
「ハッキリしませんね」
「それが、其の人達倉庫に入って来た時追われていたみたいで……」

 倉庫に逃げ込んで来た男達は、転がされた名前に目もくれず、慌てた様子で拳銃を手に取った。そして今し方自分達が入って来た入り口に向けて銃口を向けた。

「でも誰も居なかった」

 入り口には誰も居なかった。どれだけ待とうと誰も現れない。男達の顔に微かな安堵の色が見える。名前は理解出来ないまま、事の一部始終を目撃していた。安堵が見えたのは一瞬だけだった。地響きと共に爆音が響き、土煙が舞う。白く塞がれた視界の先で男達の悲鳴が上がった。風に吹かれ土煙が晴れた時、男達は皆地に伏していた。唯一人を除いて。
 なんだ手前は。黒い外套に両手を突っ込み、中折れ帽を被った小柄な男が、先の戦闘で薄汚れた名前を見下ろし呟く。そうは云われても縄紐を噛まされているのだから返事など出来る筈もない。唯、視線をウロウロと彷徨わせ乍ら見上げる名前に男は痺れを切らせたようだ。長い外套の裾が汚れる事も気にせず、其の場に座り込むと乱暴に名前の口元の紐をちぎり取る。

「なんだ手前。女が何故こんな処にいる。誘拐でもされたか」
「……た、多分」
「ンな顔すんな。何も殺しはしねぇよ。唯、知っている事を吐いて貰う。其れだけだ」

 名前は自らに起きた一部始終を男へ話した。購い物途中、後頭部を殴られ気を失った事。目が覚めるとこの倉庫で、後は今起きた出来事を目撃した。話せる内容は少なかった。名前は誘拐された被害者であり、今この場では唯の一般人である。怯え切った表情が信憑性を生んだ。男は溜息を吐くと片手で後頭部を掻き、あからさまに面倒臭そうな表情を浮かべた。

「まあ、いい。なら帰んな。此処はもう直ぐまた戦場になる。死にたくはねぇだろ」
「帰る?」
「ああ。なんだ先刻から自棄にボケっとしてるな。変な薬でも嗅がされたのかよ」
「薬は、多分嗅いでない、です……でも、あの」
「あ?」
「此処、何処ですか?」

 数秒の間が存在した。男は再度あからさまに嫌そうな表情をして大きな溜息を吐いた。名前を縛り上げていた紐が解かれる。よろよろと立ち上がると、小さいと思っていた男の目線が自分より僅かに低い事に気がついた。大きな態度とミスマッチで思わず凝視してしまったのがいけなかったらしい。男は気分を害したように舌打ちを溢すと何も云わずに背を向けた。
 壁を破壊されて風通しのよくなった倉庫を出ると此処が森の中だと知った。道は一本。崖の上に建っているらしく見落とした先には小さく町が見える。下って行けば帰れるのだろうか。恐る恐ると男を見る。男は、顎をしゃくり、道を示した。矢張り此処を下れば善いようだ。

「……」
「フョードルさーん? 怒ってます?」

 一部始終を聞き終えたドストエフスキーは、無言でいた。目の前で正座をしたまま不安そうな表情を浮かべる名前は随分と派手に冒険をして来たようだ。

「仲良くなった、とは?」
「へ」
「助けられた、迄は判りました。ですが何故其の男性と仲良くなったのか……其の理由は聞いていません」

 名前はまた語り出した。流石に疲れたのか正座は崩し、ソファの背もたれに側頭部を預ける。眠いのか虚ろな目をしている。時計の短針は十一時を指していた。


 名前は男の指示通り道を下ろうとした。然し、一歩踏み出すよりも早く、また知らぬ男達の怒声が響いた。云われた通りだった。此処はまた戦場になる。声は車のエンジン音と共に道の先から聞こえる。倉庫迄の一本道を登って来ているのだ。今、この道を下れば確実に男達と鉢合わせする。男と名前の思考は一致した。
 男は小さく舌打ちをした。本日二度目の其れに肩が震えた。柄が悪い。怖い。間接的に助けて貰った相手に対して失礼だが、なるべくなら関わりたくはない人だ。一歩後退りすると「おい」声が掛かる。

「ぎゃあぎゃあ喚いたら捨てるからな」
「はい?」

 男の手が名前の腕を掴んだ。小柄な外見に似合わず其の力は強い。驚く名前の思考を置いて、男は地を蹴った。なんの躊躇もなく崖の縁から飛び降りた。風の鳴る音はこんなにも五月蠅かったのかと驚いた。頬を流れる風は身を切らんばかりに冷たくて、悲鳴を上げたくとも声になる事はなかった。横目で捉えた男の表情に焦りはない。重力に従って落ちて行く。地面が近い。衝突すれば無事では済まない。悪ければ即死だろう。目蓋を固く閉じた。一応、裏社会に身を置いてはいるけれど痛みには慣れていない。然し、二人の体は地面に衝突する寸前に止まった。足場は何もない。空に浮いていた。

「ンな驚く事でもないだろ。俺の異能力だ」

 ゆっくりと脚が地面に着く。掴まれていた腕を解放された途端、腰が抜けた。へなへなと其の場に座り込んだ名前は思わず遥か頭上を仰いだ。男達の怒号やエンジン音は聞こえない。今頃、男達はもぬけの殻となった倉庫だった物を見て唖然としているのだろうか。視界に男の顔が映り込む。漸く真正面から見る事の出来た男は、眉根を寄せて不機嫌そうな表情をしていたが顔立ちは端整で、年上である事が窺えた。

「俺は戻る。後は自分で何とかしろ」

 今度こそ一部始終、凡てを聞き終えた。ドストエフスキーは人差し指と中指で片頬を支えつつ自らの所有物の運の悪さを再認識していた。
 抑々、其れは仲良くなったと云えるのか、そして相手が誰であるのかも知らぬ名前に呆れ半分相槌を打つ。名前が会い、意図せずして助けられたと云う男は中原中也だ。Aが秘密裏に記録していたポートマフィアの構成員異能者リストに載っていた。却説、如何したものか。ドスとエフスキーは表情に出さず思案する。その間僅か三秒。結論は出た。

「名前、話して呉れてありがとう。もう夜も遅い。眠りなさい。部屋へ行きますよ」
「う、うん」

 中原が掴んでいたと思われる名前の腕を掴み、階段を登り部屋へ入る。優に二人は眠れる広い寝台に名前独りを寝かせてドストエフスキーは薄っすらとした微笑みを作り上げた。

「おやすみなさい、名前」

 やがて寝室に健やかな寝息が響き始める。すっかり寝入った名前を見下ろし、ドストエフスキーは笑みを深めた。結論は出た。そんな要らない記憶は消してしまえば善い。

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