「1/f」 | ナノ


楽園は此処に在り


 露西亜に来て四ヶ月が経過した。サンクトペテルブルク郊外の一軒家は、件の夜に燃やし尽くされ今では更地となっているらしい。新しく住み出したのは意外な事に街中のアパートの一室であった。あの家より幾分か狭くなった部屋の間取りは、リビングにキッチン、シャワールームに書斎と主寝室。必要最低限の部屋数しかないおかげで、この一室に私の部屋は存在しない。引っ越して来た当初は其れに不満を覚えてもいたが、一ヶ月経てば人は慣れるもので今ではこのこじんまりした部屋に慣れてしまった。
 先日、ゴーゴリと再会した。「新居祝いだよ!」なんて遅くに突然来訪するものだから不審者かと思って、手近にあったフライパンを投げてしまった。勿論ゴーゴリは、其れを軽く避けて「非道い、名前! 私の事忘れてしまったのかい!?」なんて態とらしい泣きの演技迄する始末だった。ダイニングテーブルに腰掛けて洗い物に勤しむ私の背中を眺めていたフョードルさんは、私かゴーゴリか、何方に対してのものかは判らないけれど「お見事」と笑顔で拍手を送った。

「名前が元気そうで善かったよ。あ、私小腹が空いているのだけどピロシキとかある?」
「ないよ」

 ゴーゴリと会うのはあの一件以来だった。其れなのに彼の態度は以前とまるで変わりない。殺し、殺されかけた者同士とは思えぬ程の気安い会話に肩の荷が下りた心地がした。其れなのに、だ。

「あ、そうだ。墓地で貴女を突き落とす役はぼくでなくゴーゴリさんにお願いしたのですよ」
「お前か!!」
「イッター! スプーンって意外と痛んだね!」

 後になってみれば、フョードルさん絶対態とあの時云ったのだ。ゴーゴリの様子に安堵する私への嫌がらせである。寝る前、自棄に不機嫌そうな表情をしていたから屹度そう。
 シグマには未だ会えていない。様々な人物に利用され、大変な思いをした彼だから、屹度ゴーゴリは勿論フョードルさんともあまり会いたくはないのだろう。私にとっての数少ない友人である彼とは、何時か顔を見て話したいと思う。

「う、わっ」
「おやおや、大丈夫ですか?」

 小さな段差で転びかけた私を抱き留めて彼は、愉しそうに笑う。対して私は、あまり笑える気分ではない。こうして度々転びかけるのも彼に原因がある為だ。
 生活で変わった事はもう一つある。食材や日用品の買い出しに自分で行くようになったのだ。当初、彼は非道く渋った。貴女、露西亜語もまともに話せないでしょう。叩きつけられた正論に反撃するべく私は、寝る間も惜しんで露西亜語を猛勉強した。テレビ番組や本、雑誌。何なら彼に報告にやって来た部下の人を捕まえて実戦練習迄した。思えば、以前の私は本気で露西亜語を習得しようとしていなかった。フョードルさんやゴンさんが居れば大丈夫だと、己の置かれた境遇に甘えていたのである。なんとかキリル文字を読む事だけは出来ていたので、発音を覚えるのに時間はあまり掛からなかった。とは云え、私のレベルは未だ低く、試しにフョードルさん相手に露西亜語で話しかけてみたところ見事な嘲笑を貰った。未だ未だ修行が必要である。

「大丈夫です……受け身得意になりましたから」
「これ以上生傷を増やさないで下さいね」
「は、はい」

 けれど、服も靴も、髪だって凡て彼が用意したもので統一されているのは変わらない。華奢なヒールのパンプスには未だに慣れないし、歩きづらいロングスカートには脚を取られそうになる。髪だって更に伸びた。彼が手ずから手入れして呉れているおかげで痛んではいないが、過去最長の長さは洗うのも乾かすのも大変で偶に気が滅入る。

「赦して下さいね。貴女が独りで歩く事も儘ならず、ぼくに助けを求める姿を見ると安心するのです」
「はあ……そうですか」

 其れらに苦言を呈した事がない訳ではない。けれど、彼は私を丸め込むのが上手くて差し伸べられた手は当然のように繋がれる。冷たい手を私の体温で温めていると、文句も消えてしまうのだから私は、本当に意志が弱い。今日は食材ではなく、洗剤等日用品の買い出しに来た。そこまで重くはない紙袋は、繋がれていない方の彼の腕にある。
 ネフスキー大通りは、サンクトペテルブルクの中心部を東西に通り、帝政時代を思わせる美しい建物が並んでいる所謂観光スポットだ。観光客の中には偶に亜細亜人も居て、時折日本語が耳に届く。寂しさない。ほんの少しの懐かしさを感じるだけだ。

「そうだ。ついでに購い物をして帰りましょうか。先日、名前に似合いそうな靴を見かけたのです」

 頷けばそれだけ自分の首を絞める事になる。其れでもこうして彼の提案を快諾してしまうのは、所詮惚れた弱みと云うものなのだろう。



 フョードルさんは、仕事で時折を空けるようになった。私は置いて行かれる。危ないから大人しくしていなさい、と髪を撫でられキスされる。矢張り子供扱いは変わっていない。
 この日、彼は朝から居なかった。多分帰って来るのは明日だろう。寂しくはあるけれど、不安には思わない。もう置いて行かれる事だけはないと理解しているからだ。独り分の食事を取って、一通り家事を熟し、早々にベッドへ戻った。あの家から唯一持ってきた壁掛け時計は、今でも主寝室に飾られている。秒針の音は偶に耳につく。けれど嫌いではない。こうした独りの時、寂しさを紛らわせて呉れる気がした。
 いつの間にか眠っていたようで、次に目が覚めた時、時計の短針は夜中の二時を指していた。寝返りを打とうとするが体が動かない。上から押さえつけられている。

「フョードルさん?」
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい。退けてもらってもいいですか? お水飲みたいんです」
「嫌です」

 嫌って、ちょっと困ってしまう。この二ヶ月で彼は、ほんの少しだけ幼い一面を見せるようになったと思う。私を甘やかすのも未だ好きなようだけど、時々我儘を云うようになった。私は、其れが嫌ではない。彼の些細な我儘を訊く度、むず痒いような心地と共に幸福感に浸れる。
 此の人は、痩せすぎているけれど身長はとても高いので体重はそれなりにある。故に寝惚けた体で退かす事はほぼ不可能に近い。水を飲むのは早々に諦めて此の侭眠る事にした。

「無視しないで下さい」

 目蓋を閉じたのも束の間、耳朶を甘噛みされてすっかり睡魔が飛んで行ってしまった。首だけを回す。至近距離に迫る紫水晶が暗闇の中で据わっていた。

「怖いです」
「失礼な」

 如何やら彼も睡魔に襲われているらしく、小さく欠伸を噛み殺すと私の首筋に顔を埋めた。

「ねえ、名前。ぼくは思うのです。貴女、何時までぼくの事をフョードルと呼ぶ気ですか?」
「……フョードル・M・ドストエフスキーですよね?」
「そうですよ。でもそうではなくてですね……ん、もう少し距離を詰めてもいいのではないかと」

 耳元で聞こえる吐息が心臓に悪い。お腹に回った腕が熱源を求めてパジャマの裾から皮膚を撫でているので、二重の意味で私の心臓の限界は近かった。
 彼の云わんとしている事は判っている。日本人には馴染みのない文化だが、此方の国の人は名前の他に愛称と云うものが存在する。其れは、親だったり恋人だったり、とにかく親しい人が呼ぶもので、如何せん、呼ぶには勇気がいるのだ。

「六年前は無邪気に呼んでいたでしょう」

 其れは「フョ」が発音出来なかったが故の苦肉の策である。まあ、其れも彼本人から提案され、ゴンさんとの特訓の後になくなったのだが。
 却説、如何したものか。この二ヶ月間で知ったが、彼の我儘は要求が通る迄続く。若し此の侭私が眠ったとして、明日の機嫌が零地点を通り越してマイナスに到達しているのは確実だ。ついでに云えば、機嫌が戻る迄には相応の時間を要する。

「ふぇーじゃ、さん」

 天秤が傾き、今日もまた彼の些細な我儘を訊く事となった。
 私の口から発せられたのは、まさに蚊のなくようなか細い声だった。時計の秒針に掻き消されてしまうのではないかと云うような其れを、彼の優秀な耳は拾い上げたらしい。くすくす、と笑い声がして抱きすくめる腕に力が籠る。

「よく出来ました」

 毛布に包まって長い事経っていたのか、落とされた唇は思いの外温かい。横を向いていた体を正面に向き直され、私の上に乗り上げた彼は、垂れて来る黒髪を耳に掛けて今にも溶けだしそうな笑みを浮かべている。

「なんならフェージャニカでもよかったのですけど。未だ貴女は恥ずかしがって呼べませんよね」
「よくご存知で」
「ふふ。ぼくは貴女の事なら何でも判りますよ。当たり前でしょう?」

 離れていた体がピタリと重なり、布越しに皮膚が擦れ合う感覚がした。掠めるだけの触れ合いを繰り返し、首筋にも唇が降って来る。やわやわと唇で食まれ、軽く歯が当たる。何時か頸動脈を噛み切られるのではないか。そんな不安が脳裏を過ぎる。私は、この触れ合いが少し怖い。

「肉体の擦れ合いだって立派な愛情表現の一つです。共に快楽を終えれば嘸かし幸福でしょう。けれど、今は未だ止めておきましょうね。名前の心臓が止まるといけないので」
「そ、そうしてもらえるとたすかり、ます」
「ふふ、ええ、判っていますよ」

 首筋に顔を埋めていた彼が熱い吐息を吐き乍ら顔を上げた。宵闇の中、紫水晶の瞳はよく見える。

「何時かは受け入れて下さいね。愛する貴女だからこそ受け止めて欲しいのです」

 彼の声は秒針の音より少し大きいくらいで、悲しくなる程に穏やかだ。艶やかな紫色の入った黒髪と妖しく輝く紫水晶のような蠱惑的な瞳。長い睫毛に縁どられた瞳の下にある隈に、病的なまでに青白い肌。骨と皮しかない、教会で見る十字架に磔にされた救世主のような体。其の凡てが美しくて、浮世離れした独りの人間。六年前、私を拾い上げて呉れた時から何一つ変わっていない。
 彼には直接云っていないけれど本当は判っていた。あの日、銃撃されたのだって凡て彼が仕組んだ罠だ。私は、彼が作り上げたシナリオを善い子になぞっているだけだと。

「仮令、」

 私は、彼の声を聞くだけで安心出来た。彼の言葉は麻薬のように体に染み渡り、結果として正常な判断力を根こそぎ奪った。然し、後悔してはいない。今、私の上に乗り、私を愛そうとしているこの人は、凡てを奪う元凶の一端を担ったけれど、私は慥かに彼を愛おしいと思う。

「仮令、死んだとしても傍に居て下さいますか」

 其れだけは、仮令死んだとしても変わる事はないのだろう。
 彼は、少しだけ驚いたように目を見開いて、其の表情は平素より幼く見えた。

「ええ、勿論」

 何処かで聞いた台詞ですね、なんて軽やかに笑うので少し恥ずかしくなって腕を回した背中は、骨が浮き出てほっそりとしている。マットレスが軋む音がして、体に掛けられたままの毛布が擦れる音がした。合わせた額の向こう、壁に掛けられた時計は変わらず時を刻んでいる。明日も明後日も、何年先でもこうして私達を見つめているのだろう。そう思うと何だか私も笑えてしまった。
 私は屹度、この国で一生を終える。悲しくなるような優しい音を聴き乍ら、最後の時を迎える事が出来るなら屹度其れは何より幸福な事だ。退路は自ら断った。私の前には血と闇の色をした罪の道だけがある。其の道へ私は一歩、脚を踏み出した。後悔は一切ない。

「1/f」 end.

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