寝ぼけ眼を擦る私に彼が手渡したものは二つ。一つは、この家の鍵。そしてもう一つは彼の番号のみが登録されている携帯端末だった。
「では、ぼくは行きますから。善い子で留守番しているのですよ」
露西亜帽に外套、何時もの恰好をしたフョードルさんが毛布に包まり横たわる私の髪を優しく撫でる。一頻り撫でて、冷たい風と共に額にキスを落とされる。夢見心地で片手を振れば、微笑を呉れて部屋を出て行ってしまった。
夢から覚めれば一気に現実に引き戻される。昨晩の事もあって今更照れてきて、額を片手で押さえ乍ら降りた階段の先に勿論彼は居ない。正真正銘私独りきりとなった一軒家は、そう大きくもないのにやけに広く感じられた。
テレビも点けていないリビングは静まり返っている。時折窓の外から近所の住人らしき露西亜語だけが聞こえて来るだけだ。ソファの右端、ブランケットを羽織った状態で膝を抱えて約一時間、そろそろ食事でも取るべきだろう。時刻は十一時半だから朝食兼昼食である。
今日はあまり寒くもないのにブランケットを脱ぎ捨てられないのは、この室内の空気が冷たかったせいだ。落ちそうになる其れを片手で握り、冷蔵庫を開ければ、調理しなくても善いように温めて食べられる独り分の昼食と夕食が既に用意されていた。部下の人の心配りには感謝してもし切れないが、現状を鑑みるとあまり嬉しくはない。寧ろ暇潰しを奪われたようでガッカリとすらしている。昼食は、行儀が悪いがリビングのソファで食べた。カッテージチーズと蜂蜜を乗せたパンを口に運び乍ら、手持無沙汰につけたテレビを眺める。華やかな露西亜美女が、マイクを片手にスタジオで何やら話している。偶に観客から爆笑が起きるから、屹度バラエティ番組なのだろう。私は、キリル文字は読めても発音するのは下手くそだ。ゆえに聞き取るのも上手くはない。彼が部下の人と話す時だって、何を云っているのか判らなかったし、その度妙な疎外感を覚えていた事を思い出す。
「……」
すっかり空になった皿を見下ろしていると、忘れていた寂しさがこみ上げた。もう私は、六歳児とは違う。二十歳を過ぎた成人女性であり、あの人に甘えてばかりの子供ではない。昨晩の自分自身は棚に上げて、何度か自分に云い聞かせる。いつの間にか手に持っていた端末はソファの端に放り投げた。
私は、独りが嫌なのではない。約三ヶ月間、毎日一緒に居たあの人と離れる事が嫌なのだ。実感すると同時にどうしようもない恥ずかしさがこみ上げる。「あー」唸り声をあげて両手で頭を押さえた。同時にブランケットが肩から落ちて、膝で歪な形を作り固まる。
結局、其れからの三時間。私はソファの上で過ごした。テレビ番組は切り替わり、今度は真面目なトーク番組が始まっていた。眼鏡をかけた如何にも真面目そうな年配の男性が声を張り上げて何かを訴える。向かい合うもう一人の男性も負けじと反論した。同じ露西亜人でも、彼は声が小さい方だ。私に合わせて日本語を話して呉れる事が多いから、彼の露西亜語を聞く事は偶にしかないけれど。嗚呼、駄目だ。頭の中には彼が住み着いていて、矢張り寂しさがぬぐえない。
ふと、端末と同時に三ヶ月前に貰った鍵が目に留まった。なんの変哲もない古い鍵は、この家の玄関の物である。今迄一度も使った事のない其れをまじまじと見つめて、ん? 首を捻る。
「何で……鍵を呉れたんだろう……」
この三ヶ月間、私は独りで一度も外に出ていない。必要な物は凡て揃えさせます。貴女は此処に居れば善いのです。そう云って自分の横をトントンと叩くのだ。其れに賭けの内容は、私が逃げ出せるか否か。逃げ出す際に鍵は必要ない。思い出せば思い出す程混乱する。ならば、この鍵は、何のために――
「っ!?」
ピピピピピ――突然ソファの左端に投げ込まれていた端末が鳴き声を上げた。慌てて手に取れば、液晶画面には知らない番号と共に日本では馴染み深いテルテル坊主が表示されていた。よくよく見れば、このテルテル坊主、知人の男によく似ている。私はとても緊張していた。この電話に出るべきか悩んでいたのだ。すると、私の迷いを悟ったように画面が切り替わる。通話中。日本人の私に合わせて日本語で表示された感じに心臓が大きく跳ねあがった。
『名前ちゃん、其処に居るのだろう?』
静かな声色だけど、微かに怒りの滲み出た其の声に口の中がカラカラに乾いた。返事をしようにも唇は糸で縫い付けてしまったかのように動かす事さえ儘ならない。また画面が切り替わった。テレビ通話である。
蓬髪に甘い顔。砂色の外套。日本人。三ヶ月前に見て以来になる太宰治の顔が其処にはあった。太宰の液晶にも同じように私の顔が映っているのだろう。困惑顔で固まる情けない子供の顔が。
『名前ちゃん、時間が無いから単刀直入に云うよ。君を連れ出す手配は整っている。今直ぐ私を信じて其の家を出るんだ』
ドクンドクンドクン、心臓は今にも爆発しそうな程暴れまわっている。液晶に映る太宰は、何時になく真面目な表情をして私に外に出るようにと再三促した。
私は、フョードルさんや太宰のように頭の佳い人間ではない。混乱すれば、正常な判断等出来ないし、何時だって誰かに助けを求めているような矮小な人間だ。
『名前ちゃん』
有無を云わさぬ太宰の声は麻薬のように私の思考を奪った。震える脚でなんとか立ち上がり、リビングを抜けて玄関を目指す。ドアノブに手を掛けて、漸く止まる事が出来た。
落ち着け、冷静になれ。ちゃんと自分の頭で考えろ。
『名前ちゃん?』
「……なんで、この番号、知ってるの?」
口を縫っていた糸も同時に解かれたようで、ゆっくりとだが会話が出来るようになった。震える口調で問い掛けられた事が意外なのか、太宰はほんの少し目を見張って、渋々語り出した。
『君の御察しの通りだよ』
嗚呼、成程。私は、漸く凡て納得した。この家も、用意された服も、髪飾りも、鍵も、端末を与えられた意味も、太宰からの電話も、賭けも、其処にある彼の思惑も。
怒りや悲しみはない。寧ろ靄が消え去り、すっきりとさえしている。ドアノブから指を離す事に迷いはなかった。太宰が其の行動を咎めるように鋭く私の名前を呼んだ。
『君は、今迄の自分を捨てるのか?』
鋭い問いだ。私の迷いを的確に突いて来る。端末に映る太宰は眉根を寄せて真っ直ぐに私を見据えていた。
「太宰、私を両親の墓に連れて行って呉れたじゃない? あの時、私両親に謝ったんだよ」
『名前ちゃん……』
「私、矢っ張り好きなんだ……今回の事も含めて、全部あの人の掌で踊っていただけだとしても、其れでも善いって思ってしまっている……」
『後悔は、ないのかい?』
多分、太宰は凡て読んだ上で私に電話を掛けた筈だ。こうなる事を見透かした上で、最終確認を下すように、じっくりと私と会話をして呉れている。恵まれている。叔母夫婦も、太宰も、敦君も。私なんかには勿体ないほどに優しい人が日本には居る。
「ごめん、捨てるよ」
私の言葉に返事はなかった。背後から伸びた細長い白い指先が強制的に通話を終了させたのだ。唯、画面が消灯する寸前に見えた太宰は、子供を見るような目をして笑っていたように思う。だから、後悔はなかった。
「善く出来ました」
端末から腕を撫で上げ、首筋を通り、頬へと触れた指先は血が滲み、非道く荒れているようだった。屹度先程迄噛んでいたのだろう。この人の悪癖は今も健在で、これからも直る事はない。まるで首を絞められているかのようだった。大きな掌は、頬から首に移動して両手でそっと包み込まれる。体温はゼロを通り越してマイナス。ずっと外にでも居たのだろうか。ずっと、私の動向を監視していたのだろうか。
「太宰君も可笑しな事を訊きますね。捨てるのではなく、既に過去の名前は死んでいると云うのに」
「フョードルさん、全部」
「ああ、云わなくても結構ですよ。いらっしゃい。向こうで凡て話して差し上げます」
戻ったリビングでお互いソファには座らなかった。端末はダイニングテーブルに置かれて傍にはなく、テレビも消えているし、近所の話し声もしないから、今はお互いの声しか聞こえない。向かい合って行儀悪く座ったフョードルさんは、頬杖をつき乍ら、実に楽し気に指先を噛む。傷が更に深くなって赤色が滲むのが見えたので、私は溜息をついて其の手を取った。唾液でしっとりと濡れた指先が温もりを奪うように私の指先に絡みつく。
「先ずは、善かったです。ぼくは安堵しています。貴女を殺さずに済みましたから」
「太宰に端末の番号を流したのはフョードルさんですよね?」
「ええ、そうです。真逆真っ向勝負を挑んで来るとは思いませんでしたが……ふふ、彼今頃どんな顔をしているでしょうね」
弾んだ声と表情が私とは対照的で、まるで別世界を眺めているような心地がした。
太宰との会話、そして今の発言で判った事がある。フョードルさんは、私を殺す心算だった。若しあの時、玄関を出ていたら私は今頃物云わぬ死体となっていた。約束を破る子は要らないと。簡単に、躊躇もなく、私の命を摘み取っていたのだと。考えると、私はこの三ヶ月間今にも落ちそうなつり橋の上にいた。私を傍に置いたのは監視の為で、今日は其の最終試験。出題者は太宰で試験管はフョードルさん。結果は見事合格。賭けは彼の勝利。だから、こんなにも喜んでいる。
「名前、ぼくは一度貴女を捨てました」
「そうですね……」
「其れなのに、貴女は其の執着心でぼくに縋り付いて離れなかった。折角最期の親切心で無事に解放して差し上げようと思ったのに貴女と来たら「殺して下さい」と云って来るから……流石にぼくも驚きましたよ」
過去を懐かしむように彼は長い睫毛を伏せた。
「あの瞬間、ぼくは考えましたよ。これからの事。貴女の事。ぼくの事。神の僕として、忠実に生きて来たこのぼくが私情で動いたのです」
伸びた手に、優しく肩を押されて絨毯の上に仰向けに横たわる。私の上に跨った彼は、血色の悪い唇に不釣り合いな赤で舌なめずりをすると自身の上着の釦を一つ外した。
「先ず、露西亜で貴女を迎え入れる準備を整えました。其の後は、日本に渡る手筈。其の後は、独り暮らしを始めた貴女の監視。真逆、髪を切って太宰君や虎の少年と接触迄するとは思いませんでしたが……其れは寛大な心で赦します」
私の体温を吸って温くなった掌が頬を撫でる。至近距離に近づいて軽く掠めるように唇が触れ合った。肩が震える。
「ぼくは幸福です。若し貴女を殺す結果になったとしても骨迄愛する心算ではいましたが、どうせならばこうして体温を分け合い触れ合っていたいですから」
「あの時、階段から突き落としたのも……?」
「嗚呼、あれは賭けでした。打ちどころが悪ければ即死。若しくは後遺症が残る可能性も考えた。勿論其れでも傍に置く心積もりでした。けれど貴女は、こうして後遺症もなく生きている。実に幸運です」
「其れ、非道くないですか?」
「この世に正常な愛等存在しませんから」
早口に語り、額に、目尻に、頬に、顎に、キスを落としていく。この人、如何やら興奮しているようで時折掛かる吐息は熱を孕んで今にも溶けてしまいそうだ。同時に悟る。矢張り、彼、気が狂っているのだな。列記とした愛を語り乍らも、其の実愛を知らない。凡そ普通の感性等持ち合わせてはいない。私の上に跨るのは、そんな狂人だ。
鼻先をくっつけ合い、少しでも身動ぎすれば唇が触れ合いそうな程の至近距離に迫った彼は美しい顔をとろとろにさせて、甘い声色で私の名前を呼んだ。紫水晶の瞳が、溶けた氷菓子のように流れ出さないか思わず心配になった。
「日本の貴女はね、死にました。約束通りぼくが殺しました。もうあの国に苗字名前と云う戸籍は存在しません。神の赦しを得て、凡てを捨てた貴女は今この瞬間生まれ直したのですよ。だから愛せます。正真正銘、未来永劫ぼくだけのものになった貴女だからこそ、こんなにも愛おしく思える」
垂れて来た細い黒髪からはシャンプーの善い香りがした。何度も何度も角度を変えて擦り付ける唇は、指先のように荒れている。今語られた内容は、決して聞いていて気持ちのよいものではないのに、私の心は穏やかな海のように凪いでいた。軽いリップ音を立てて唇は離れた。其れでもすりすりと額を擦り合わせて離れる気配はない。体温を奪われるような触れ合いに頭がボンヤリとしている。
「眠いですか?」
「ううん……」
「なら、もう少しお話をしましょうか。貴女に渡した鍵ですが、あれはこの家の物ではありませんよ」
「え?」
「此処は賭けの為の仮住まい。明日には予め用意しておいた新居に引っ越しましょうね」
「若し、私がこの鍵を使って家を出ていたら?」
「鍵穴が合わない事で貴女が何かを悟るか見たかった。まあ、貴女はこの通りお利口さんなので一切外に出る事もなかった訳ですが」
嗚呼、成程。悪趣味極まりないが、こちらにも納得がいった。
「ねえ、名前。今後もお利口なぼくの貴女でいて下さいね。他の誰にも、この体に触れさせてはなりませんよ。ぼくに貴女を殺させるような真似は二度とさせないで。貴女は愚かしい程にぼくに依存しきっているけれど莫迦ではないから。ちゃんと頷けますよね?」
訊きたい事はほぼ凡て聞く事が出来た。もう心の中に靄は存在せず、迷いはない。以前、ゴーゴリに云われた言葉を思い出す。悲劇のヒロインなんて柄じゃない。其の通りだ。私は、自らこの道を選んだ。狂っているのはお互い様。正常な愛は、互いの間に存在していない。
「好きです。これが依存であったとしても、私は矢っ張り貴方が一番好きです」
体の側面に放り投げていた両手で白く冷たい彼の頬を包み込んで告げた言葉は、情けない事に僅かに震えてしまっていた。其れでも、彼は嬉しそうに微笑む。神様のように美しい顔に鮮やかな嘲笑を乗せて、涙の溜まった私の目尻に優しくキスを落とす。
「ええ。知っていますよ。六年前から」