「1/f」 | ナノ


指先の結末


 露西亜に来て早いもので二ヶ月が経過した。フョードルさんの肩の傷は癒えて来て、最近では書斎でパソコンに向かい合う時間も増えている。対して私はと云えば、あの日観劇に出掛け狙撃されて以来一歩も外に出ていない。相変わらずの引き籠り生活だ。
 変わらず豊富な食材が詰め込まれた大型の冷蔵庫。古い壁掛け時計の秒針が刻む音だけが響くリビング。郊外の古い一軒家。そこまで大きい訳でもなく、小さい訳でもない。二人で過ごすには丁度いい広さのこの場所で過ごす事にもすっかり慣れてしまった。
 先日、寝起きのままリビングのカーテンを開けた時の事だ。近所の子供が外で遊んでいたようで、黒髪ボサボサ、寝起きで目つきも悪い私を見て日本の幽霊と勘違いされてしまった。悲鳴を上げて走り去る少年少女にショックを受けた。其の事を彼に伝えてみたところ、珍しく声を上げて笑われた。後日、少年少女にはちゃんと人間だと認識して貰えたのだが、笑い声を上げていた彼は「この町に慣れて来たようで何よりです」と微笑むばかりだ。少々納得がいかないが、深く考えない事にする。

「髪、伸びて来ましたね」

 夜、シャワーを浴びた後濡れた髪を彼に櫛で梳いて貰っている時、流れに沿って真っ直ぐに垂れ下がった髪を見下ろし乍ら彼は嬉しそうに呟いた。この二ヶ月で慥かに髪は伸びた。肩上だった髪は胸元にまでなり、家事の合間結んでいる事も増えて正直邪魔に思っていたところだ。

「今度髪飾りを贈りますから着けて下さいね」
「切ろうかなって考えていたんですけど」
「いけません。このまま伸ばしなさい」

 髪に絡んだ指に力が籠って結構痛い。然も、其の儘引き寄せて来るから髪が抜けそうだ。膝に頭を置く形になって、横を向いたおかげで彼の顔を見上げる事が出来た。

「日本では髪は女の命と云うのでしょう? ぼくが伸ばさせて飾り立てるなんて、貴女の命を握っているようでゾクゾクします」

 紫水晶の瞳はうっとりと細くなり、口からはとんでもない発言が飛び出した。違う意味で私はゾクゾクします。そんな事を考え乍らも口には出さない。唯、この人のこんなところは、矢張り犯罪者の思考だなぁ、とつくづく実感していた。
 後日、本当に彼は髪飾りを贈って呉れた。明らかにフェイクでない本物の宝石のあしらわれた其れに思わず悲鳴を上げてしまったが、有無を云わさず装着させられた。私にはあまりに過ぎた物で恐怖心の方が勝つのだが、彼は「似合いますよ、思った通りだ」と嬉しそうにするので外すタイミングを逃してしまった。



「明日、仕事で一日家を空けます」

 露西亜に来てもう直ぐ三ヶ月が経とうとしている。露西亜はすっかり冬になって、気温は下がり、リビングの暖炉には煌々とした炎が点っていた。体にぐるぐるとブランケットを巻いた私とは対照的に、何時ものシャツ姿の彼は何でもない世間話をするように私に衝撃を与えた。
 彼が家を空けるのは今回が初めてだ。以前は、置いて行かれる事もあったし、其れが寂しくて泣いたりもしていたが、流石に今回は、涙は出ない。唯、初めて独りになる事実が衝撃的過ぎて困惑しているのは慥かだった。

「出るのは早朝で帰るのは翌朝になると思います」
「何処まで?」
「モスクワです。如何してもぼくが出なければならない取引がありまして」
「そっか」
「お土産を購って来ますから、そんなに寂しそうな顔をしないで」
「そんな顔してます?」
「ええ。ぼくと離れるのがつらい、と。あの日、ぼくに殺して呉れと懇願した時と同じ表情をしていますよ」

 伸びて来た掌が頬をなぞり、目尻を拭う。指先は濡れてもいないのに、まるで私が泣いているかのように振舞う彼に脳が混乱する。

「今日は久しぶりに一緒に寝ましょうか。隣で眠れば少しは寂しさも薄れるでしょう」
「……フョードルさん、私が隣に居て眠れるんですか」
「ええ。寧ろ安眠出来そうです」

 多分其の言葉に嘘はない。誰か隣に居るだけで眠れなかった筈の彼は、ヨコハマでの闘争の後、私の前で寝顔を晒すようになった。療養を兼ねて、あの屋敷で過ごした数ヶ月で何度も目にしているから其れは疑わない。
 釈然としないまま手を引かれて上がった彼の寝室は、所謂主寝室と云うもので私の部屋より奥にある。ベッドとデスクくらいしかない殺風景な部屋だ。月明かりだけが差し込んで、冷たい空気に満ちた其処は、以前住んでいた屋敷を思い起こさせて懐かしくなる。

「如何しました?」
「前に、住んでいた御屋敷ってどうなったんですか?」
「あの家は廃棄しました。今は、更地でしょうね」

 先にベッドに腰掛けた彼が、トントンと横を叩く。拳一つ分を置いて腰掛ければ、マットレスの軋む音と共に頭を引き寄せられた。着地点は、細く頼りない肩でなく彼の膝だった。硬く、脂肪のない骨と皮のような膝は決して寝心地のよいものではない。けれど、其処は六年前から私にとって一番安眠出来る場所だった。
 髪を撫でる指先が起き上がる力を失くさせる。まるで以前の関係に戻った、否其れ以上に優しい触れ合いに、私はすっかり絆されてしまっている。そう痛感した。

「私、もう子供じゃないんです」
「ええ。そうですね。貴女はもう立派な成人女性だ」
「なのにフョードルさん、私の事甘やかそうとばっかり……」
「でも嫌ではないでしょう?」
「ちぐはぐで、混乱するんです」

 露西亜に来て、目が覚めた日。彼が提案した賭けの内容を忘れた訳ではない。携帯端末は今でも私の元にあるし、家の鍵だって持っている。其れなのに私は、誰に助けを求める事もせずこうして家の中に居る。彼の傍で過ごす事を幸福だと感じている。
 私を庇い、血を流して地面に膝をついた彼を見た時、心底恐怖した。若しこのまま彼が死んでしまったら、私は独りになってしまう。日本に帰る、そんな事さえ忘れてこれ以上彼が傷ついたりしないように必死になって、其の痩身を抱き締めていた。私達を狙ったのは、彼が手を出した組織の残党が雇った狙撃手だったようで、部下の人が既に排除したらしい。応急処置を施した帰りの車内、運転手を務めた部下の人が苦々しく教えて呉れた。
 当時を思い出し、身が竦む思いがした。寝返りを打ち、彼の薄い腹部に顔を埋める。すると頭上から微かな笑い声が降って来る。

「今日はまた随分と甘えん坊ですね」
「フョードルさん」
「はい」
「もう、何処にも行かないで下さいね」

 髪を撫でていた手がピクリと震えて一瞬止まった。不思議に思うが、直ぐに元の動きに戻る。

「其れは、ぼくの台詞ですよ」

 其れは優しい声だったけれど、ほんの少し寂しそうにも聞こえて、問い掛けたいのに既に目蓋は重くて動く事さえ儘ならない。せめてと抱き着く腕に力を込めた。すると彼も同じように頭を抱えて呉れるので、あまりの幸福感に涙が出そうになる。
 明日、起きたら屹度彼は横に居ない。たった一日だけど、矢張り寂しい。

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