「1/f」 | ナノ


神様の云う通り


「ドス君って悪趣味だよね。本当最高」

 ウッドチェアに腰掛けた道化師は、夜更けにも関わらず豪快に笑い声を上げている。ベッドに寝そべり、枕に後頭部を埋めたドストエフスキーはそんな同僚を横目で捉えたまま嬉しそうに紫水晶の瞳を緩めた。

「其れはどうも。可愛らしかったですよ、あの子」

 ドストエフスキーは、暖かな部屋に似合わぬ冷めた色合いの唇も緩め、骨ばった指先で左肩を撫でた。シルク生地のナイトウェアの下には真新しい包帯が巻かれている。名前が今にも泣きそうな顔をして丁寧に巻いた物だ。
 二日前、サンクトペテルブルクにて。観劇を愉しんだ後、彼は狙撃されかけた名前を庇い肩に銃弾を受けた。鮮血が噴き出し、激痛が走った。然し、そんな事彼は意にも留めていない。裏世界に身を置いて長く、何より彼は盗賊団の頭目である。そのくらいの怪我で根を上げる程軟な精神はしていない。

「私も見たかったよ。名前、泣いていたんでしょう? ドス君が死んじゃう〜って」
「ふ、ふふ。思い出すだけで嬉しくなってしまいます。思っていた以上に愛されているようですね、ぼくは」

 地面に膝をついたドストエフスキーに駆け寄った名前は、大粒の涙を流し乍ら何度も懇願したのだ。嫌だ。死なないで。独りにしないで。何処にもいかないで。未だ狙撃される心配をして後頭部を抱き締める彼女の腕は無様に震えていた。本心から恐怖していたのだ。自らが狙撃されて死ぬかもしれない、と云う心配ではなくドストエフスキーの呼吸が止まる事をとにかく恐れていたに違いない。
 だからこそドストエフスキーは嬉しくて仕方がない。態々、見え透いた罠に嵌って、負わなくてもいい怪我までした甲斐があった。
 組んだ脚の上で頬杖をついたゴーゴリは、貼り付けていた笑みを一瞬消す。彼の金色の瞳は、目の前のドストエフスキーではなく自室で休んでいる名前へ向けられていた。其の意識を此方へと戻す為、呼びかける。直ぐに道化師らしい笑みが戻った。

「判っているとは思いますが、名前とは……」
「はいはい。会わないよ。今はね。でも近々会わせてね。シグマ君も気にしていたようだから」
「ええ。凡てが終わり次第」

 笑みを残し、道化師は自身の異能で空間へと消えた。するとまるでタイミングを見計らったかのように枕元に置かれた端末が振動を伝える。表示された番号は見た事がない。けれどドストエフスキーには誰からの着信か判っていた。

「はい、もしもし」

 端末越しに聞こえた声に彼は笑みを深めて指先を噛んだ。計画は最終段階へ差し掛かろうとしていた。




「フョードルさん、駄目ですよ! 紅茶なら私が淹れますから座っててください!」
「……過保護ですね。もう大丈夫ですよ」
「駄目です。傷がちゃんと塞がる迄、無茶はさせませんから」
「紅茶を淹れるだけで無茶とは」

 名前が露西亜に帰って来て一ヶ月が経過した。賭けは未だ実施されているにも関わらず、彼女は相変わらず逃げ出す事もなく甲斐甲斐しくドストエフスキーの世話を焼いている。
 血色の善い健康的な白さの頬を僅かに膨らませ乍ら紅茶を淹れ、ジャムと茶菓子として市販のクッキーを数枚用意した彼女は何の躊躇いもなくドストエフスキーの隣に座った。
 名前は決して紅茶を淹れるのが下手ではない。けれど腕はドストエフスキーの方が上だし、其れを判っているから基本的に準備は彼の仕事だった。其れにも拘わらず、これすら没収されてしまうとは流石の彼も多少は息が詰まる。

「名前は家事も得意ですし、善い母親になりそうですね」
「はっ!? な、なにを云うんですか!?」
「汚い。先ずは口を拭きなさい」

 けれどこの生活を心から愉しんでいるのも事実だ。布ナプキンを取り、口元を拭ってやるドストエフスキーの顔には笑みが浮かんだまま消える事はない。

「前言撤回です。こんなに手の掛かる子は、母親にはなれませんねぇ」
「……先刻から話について行けないです」
「貴女の世話を焼くのがぼくは嫌いではない、と云う話ですよ」

 そう告げて、彼は流れるようにへの字に曲がった名前の唇を塞いだ。掠めるように触れて、至近距離で表情を観察する。彼女は真っ赤になって目を潤ませてはいたが、以前のような百面相を浮かべる事はなかった。彼は、其れが意外だったので少しだけ目を瞠る。

「おや、もう逃げ出さないのですか?」
「う……に、逃げたりはしません。死にそうですけど」
「其れは困りました。では、死なないように慣らさないとね。さあ、もう一度」

 唇を吸うと名前は観念したように目蓋を閉じた。けれど体はガチガチに固まってしまっていて、突くだけで其の儘倒れてしまいそうだ。

「こら、呼吸はなさい。本当に死んでしまいますよ」
「む、難しいです」
「困った子だ」

 最後にもう一度軽く触れて、頬に触れていた両手を背中へと回す。すると、ドストエフスキーが引き寄せるよりも先に名前の方から身を寄せて来た。左肩に負荷を掛けないように右側に寄っているのが何ともいじらしい。
 白いシャツを弱々しい力で握りしめられる。未だ僅かな迷いがあるようだった。

「傷の事なら気にしてはいけませんよ。貴女が傷つく事の方がぼくはつらいのですから」
「前に、ゴンさんからも云われた」
「では、信じて下さいね。ぼくは名前の事が大切で仕方ないのです」

 昔、おやすみなさいと告げる時のような声色を出して囁けば、もう制御から離れた筈の名前の目が眠たそうに蕩け出す。そんな所は、記憶と年相応の価値観を取り戻した今でも変わらない。自分で判断する事も出来ぬ幼さも、心の底では庇護を求めている甘えも屹度このまま変化する事はないだろう。
 抱すくめる腕に力を込めた。苦しかったのか名前が身動ぎをする。一寸痛いです、嬉しそうな声だった。

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