露西亜に来て二週間が経過した。相変わらず私は、この一軒家から一歩も外に出ないままフョードルさんと二人、あまりにも穏やかな生活を送っている。
今日は雨が降っていた。喚起の為に開けた窓から湿った空気が入って来て、耳には雨音が届いている。家事をする気にもなれず、座り込んだソファには、いつの間にかもう一人の住人の姿もあった。
無言。互いに何も話さぬまま、手持無沙汰に私はキリル文字の踊る雑誌を、彼は分厚い文学書を読んで暇を潰す。丁度料理のコラムに差し掛かった。最近は、料理本をお手本に露西亜料理ばかり作っていたからそろそろ日本食が恋しい。肉じゃがとかいいかもしれない。慥か醤油はまだあった筈だ。
考えている私の顎に細く冷たい指先が滑ったのは、この一秒後の事だった。人差し指が優しく促し、首を横へ向ける。何ですか、そう問いかけようとした。
(ん?)
喉元迄出ていた言葉が塞がれたせいで声にならず消えてしまった。塞がれたのは唇で、塞いだのは真横で詰まらなさそうに読書をしていた筈の彼である。
細められた紫水晶の瞳は実に愉し気で、目を瞠る私を観察していた。数秒押し付けて離れる。そして文句を云う暇もなく再度塞がれる。そんな事を三度繰り返し、ゆっくりと顔は離れた。頬を撫でられる。合わせていたせいで熱を持った唇が、今度は一気に冷えて青白く染まるのが判った。
「な、なななななななな」
「間抜け顔」
「うぐっ」
頤に中てられた人差し指が容赦なく上へ押し上げた。奥歯が嫌な音を立てて、舌が挟まる。口内炎になるのは確実だ。
「赤くなったり青くなったり忙しいですね。別にこれが初めてではないでしょうに」
彼は、自身の真っ白い頬に指先を滑らせ乍らそんな事を呟く。慥かにそうだ。所謂ファーストキスとやらは、もうとっくに済ませてある。相手は、目の前にいる彼だ。日本の異能特務課に拘束される間際、動揺して泣き喚く私を宥める為に嘘と共に口づけたのだ。
苦々しい記憶を思い出してしまった。その後の事も含め、私にとっては数ヶ月前の事案凡てがトラウマだ。如何やら表情に出ていたらしい。彼は、困った子供を見るような目をして柳眉を下げる。
「当時を思い出して寂しくなりました? 抱き締めて差し上げましょうか」
「け、結構です」
あの頃の私は、彼が恋しくて恋しくて泣いて喚いて深い思考の渦に飲み込まれ、周囲に多大な迷惑を掛け続けていた。当時の私ならば、屹度今の彼の申し出に泣いて喜び、腕の中に飛び込んでいた事だろう。想像してむず痒い気持ちがした。胸元のシャツを握りしめ、視線を逸らす。動揺して落とした雑誌がカサ、と音を立てた。
「訊かれる前に答えますが、以前云ったでしょう。続きはまたいずれ、と。ぼくは貴女との約束は守りますよ」
逃亡を図り立ち上がった私の背に、彼の静かな声が届く。青く冷めていた筈の唇はまた熱くなり、屹度顔はビーツのように真っ赤だ。振り払うようにリビングを出た。外の冷たい風を浴びたい気持ちだった。
露西亜に来て十七日が経過した。もう半月以上此方に居る事になる。今日の天気も雨。窓は閉めているから、リビングの壁に掛かった古い時計が、小さく秒針の音を響かせていた。
「明日出掛けましょうか」
彼の提案は何時だって唐突だ。紅茶を飲み乍ら突いていたカップケーキを危うく落としそうになった。
「いい加減この家に籠るのにも飽きたでしょう。実はチケットが手に入りまして、観劇でも如何です?」
「行きたいです」
「では明日、十七時に出発しましょう。服は此方で用意しているので是非着て下さいね」
漸く外に出られる機会が巡って来たのだから断る理由はないし、劇場に脚を運ぶのも久しぶりで楽しみだった。思惑通り喰いついた私に、彼は笑みを深める。夕食のデザートに、梨を剥いてあげようと決めた。
翌日、昼食の片づけを終え自室に戻ると、ドレッサーの前には黒色のドレスワンピースが掛けられていた。花の細やかな刺繍と上品に散りばめられたスパンコールが美しい。値が張ると思われる其れに一瞬尻込みする。似合うように髪をセットして呉れるゴンさんはこの家に居ないのだ。
「あ、そうだ。私もう髪長くないんだった」
あっという間に約束の刻限となった。結局ネットの海から捜し出した『初心者でも出来るヘアアレンジ』の記事に頼り乍ら、スタイリング剤で整えた私の黒髪はオイル効果もあって艶々と輝いている。不慣れだが化粧もしたし、この通りドレスワンピースは一級品だ。大丈夫、気後れする程非道くはない。
「約束の刻限丁度ですね。行きましょうか」
「……準備やり直して来てもいいですか」
「駄目です」
今の私の状態は非道くはない。けれど、彼の横に並ぶには未だ未だ足りない。
肌寒くなった気候に合わせ黒色の外套を纏った彼は、普段の装いでなく観劇に相応しいフォーマルな装いだ。顔色は悪いし、前髪も目に掛かったままだけれど、長身だし何より美しい顔立ちをしているから様になる。
二階に逃げ帰ろうとする私の腕を彼は冷たく大きな手でガッチリと捕獲した。今迄一度も開けられる事のなかった玄関扉が開かれて、半月ぶりの外に出る。風が冷たい。夜になれば冷える事だろう。家の前に停まった黒塗りの車から、部下らしき男性が降りて来て後部座席を開ける。促され、先に乗り込み、次いで彼が座席に腰掛けると扉が閉まり、間もなく車はサンクトペテルブルクを目指して発車した。
日本と違う道路を走る事、数十分。石造りの絢爛な劇場の前で車は停車した。ライトアップされ美しく輝く劇場は、まるでこの世の物ではないようで、思わず言葉を忘れて魅入ってしまう。
「名前、行きますよ」
先に階段を登っていた彼は優しい声色で私を呼ぶ。華奢なヒールの踵を鳴らして劇場に入る。劇場に脚を運ぶのは、これが初めてではないのに異世界に迷い込んでしまったような心地がした。
彼が用意したチケットはボックス席の物だった。ベルベット張りの椅子が二脚、其の間には大理石で出来た白色の丸テーブルが置かれている。右斜めに舞台を望める席に他の人の姿はない。本来は数人収容されるのだが、貸し切ったようだった。
「ボックス席は昔、貴族が逢瀬の際に使用する事もあったようですよ」
「そ、そうですか」
慥かに暗がりのこの狭い空間は、密会にはうってつけだろう。他の観客は皆舞台に夢中で背後の箱等気にしたりしないし、秘密話をするにしてもクラシック音楽が其れを掻き消して呉れる。
席につくと同時にブザー音が鳴り響き、会場内の照明が落とされる。始まったバレエの演目は『くるみ割り人形』だ。露西亜の偉大な作曲家が作り上げたあまりにも有名な演目は、否が応でもあの日の事を思い出させる。若しかしたらこれは気分転換ではなく、私に対する嫌がらせではないだろうか。過去の自分を思い出せ、と云う一種の暗示のようにも感じられてきた。
「なにか?」
「なんでもないです」
横目で捉えた彼の横顔は舞台の方向を向いたまま、私を見る事はない。釣られて舞台へ視線を戻せば、クララ役のダンサーが美しく舞っている。雪が降っている。呪いの解けた王子とクララがお菓子の国に旅立った場面だ。
雪――六年前、露西亜に初めて脚を踏み入れた時も雪が降っていた。郊外の屋敷の周りは一面の銀世界で、寂しくて抜け出した私は吹雪の中独りぼっちで泣いていた。両親が恋しくて、独りが寂しいと、誰にも届かぬ叫び声を上げるどうしようもない子供だった。そんな子供を抱き上げて呉れたのは、他ならぬフョードル・ドストエフスキー其の人だ。
あの日交わした約束は、既に私は破ってしまった。けれど、彼は違うのかもしれない。仮令ば、そう。今私が横の席へ手を伸ばせば屹度取って呉れる。握り返して「如何しました?」と優しく問いかけて呉れるに違いない。
「知っていました? くるみ割り人形には、実は二つの劇末があるのです」
「夢から覚めて終わりじゃないんですか?」
「クララは夢から覚めず、そのままお菓子の国にて終わる場合もあるのですよ。まあ、ポピュラーなのは、夢から覚めたクララがくるみ割り人形を抱き締めて終わる方なのですが」
「へえ……」
「名前は、何方がお好きですか? 夢から覚めて現実へ戻るのと、夢の中で過ごしたまま終わるのと」
一幕が終わる。休憩を報せるアナウンスが響き、照明が点る。舞台に注がれていた筈の彼の視線は、私を真っ直ぐに見つめていた。然し、私は答えない。答えられない。ワンピースの黒色の裾を握りしめたまま下唇を噛んでいた。
今回観た演目は、クララが夢から覚めるシーンで終わった。拍手が鳴り響き、観客たちがぞろぞろと外へ向けて歩き出す。人混みに混ざる気はないようで、暫くしてから外に出ると案の定気温は低くなり、夜風は身を切らんばかりの冷気を纏っていた。
「どうぞ、寒いでしょう」
「ありがとう、ございます」
肩に掛けられたストールは、先程まで彼が首に巻いていた物だ。低体温な彼だけど、其の体温を吸ったのか、ストールは仄かに温かくて思わず安堵の息をついてしまった。
夜の繁華街を彼は迷う事なく歩き出す。其の後ろを私は追う。広場の時計へ視線をやれば、既に時刻は二十時を越していた。
「夕食を取って帰りましょう。裏に静かで善い店があるのです」
振り返った彼の吐く息は白い。青白い肌は夜の闇に溶けてしまいそうで、柔らかく弧を描く唇は少しだけ赤い。差し出された手を取った。迷う事もなく握りしめて、引き寄せられるまま腕を組む。
頭の中では先程の演目の劇末がずっと流れていた。クララは、王子やお菓子の国の住人達との出来事を凡て聖夜の奇跡――楽しかった思い出として処理をして現実世界で生きて往く。完成された美しい結末だ。皆、満足して劇場を出た。其れなのに私は? 何故こんなにも思い悩む必要がある。
「先程の問いですが、ぼくは夢から覚めない方が好きです」
「え?」
「だって其方の方が面白いでしょう?」
裏路地は薄暗く人の気配もない。だから不自然な灯りが直ぐに目につく。赤色の光線が一直線に此方に向けて伸びていた。気が付いた時には遅い。私の左胸を真っ直ぐに狙った点が、何を意味するのか。そのくらい私でも判る。
「名前」
耳元で彼の声が聞こえた。肩を押され、地面に倒れ込む。一発の銃声が夜の闇を切り裂いて鮮血が噴き出したのが見えた。
「あ、あ、あああ」
其の場に膝をついた彼の肩から滴り落ちる赤色の液体を見て、漸く何が起こったのか理解した。庇われたのだ。彼は、思考の渦に飲まれて辺りをよく見ていなかった間抜けな私を庇って撃たれてしまった。
頭が一瞬真っ白になって次いでカッと熱くなる。駆け寄って覗き込んだ顔には脂汗が滲んでいて、らしくもなく歪んだ表情に血の気が引く。荒い呼吸に苦し気に漏らされる吐息。凡てが現実だ。夢なんかじゃない。視界が涙でブレて、嗚咽を抑える余裕さえもなく彼の痩身にしがみ付いた。
漸く受け入れた。私は、夢から覚めたくない。ずっとこのままでいたいのだ、と。