「1/f」 | ナノ


たった独りの信徒として


 彼はとても頭の善い人なので、そんな人の思考を読む等凡人たる私に出来るはずもなかった。

 露西亜に来て三日が経った。私は、サンクトペテルブルク郊外のこの一軒家から一歩も外に出ずに、彼と二人、驚く程平穏に過ごしている。一軒家は築年数が相当経っているようで造りは古く、間取りは寝室が二つに小さな書斎が一つ。あとはリビングにキッチン、トイレとバスルームだ。柱は、暇潰しを兼ねてどんなに一生懸命掃除しようとピカピカになる事はなく、今も霞んだ木の色を見せている。

「三日間此処で過ごしましたけど、時計がないと不便です。購って下さい」

 起きるのが遅い彼に合わせた遅めの朝食を取り終え、後片付けを済ませた後の事。リビングのソファの背凭れに後頭部を預けた彼は、ぼやけた瞳で背後に立つ私を見上げた。

「此処で生活する意志が固まった、と」
「違います。本当に不便なだけです!」
「成程。これが俗に云う反抗期ですか。困りました」

 表情が全く困っていないし、抑々反抗期ですらない。
 見上げ続ける事がつらくなったのか、彼は頭を上げて体を反転させた。頬杖をついて唇の端を緩やかに持ち上げる姿は本当に楽しそうだ。

「何時迄も意地を張っていないで、そろそろぼくに甘えてみては?」
「い、いやです」
「如何して?」

 却説、困ってしまった。嫌な理由を明確に説明する言葉が浮かばないのである。
 すっかり口を噤んでしまった私に、彼は困った子供を見るような目で笑ってソファから立ち上がった。迂回して私の前に立つ。

「これだけぼくに執着しているのに、難儀な子ですね。矢張りぼくが導いて差し上げなければ」

 凡人、若しくは凡人以下の私には異星人のような彼の思考は理解出来ない。何故、私を殺さず露西亜へ連れ帰ったのかも、こうして甘やかす理由も何もかもが不可解だ。
 伸ばされた手は、以前と変わらず荒れていて、撫でられた頬が少しだけ痛んだ。私の表情が歪んだせいだろう。彼は、意地悪く笑みを深めて、両手でちっぽけな私の頭を引き寄せた。

「ね? 意地を張ったって善い事等一つもないでしょう」

 脚が縺れて、肩口に顔を埋めるように飛び込んだ腕の中は思っていた以上に温かい。対して、縋り付く事も出来ず握り締めた私の掌は氷のように冷たかった。



 露西亜に来て一週間が経過した。相変わらず私は、この一軒家で彼と二人で穏やかに暮らしている。
 逃げる事も、甘える事も出来ずに、ぐらぐらとした感情を持て余したまま鍋の中身を掻き混ぜる。如何いう仕組みか、冷蔵庫の中には常に様々な食材が準備されていて夕食のレパートリーに困る事はなかった。多分、部下の人が私が気付かない内に補充して呉れているのだろう。
 今日の夕食は、ボルシチにした。今迄せめてもの抵抗のように日本食ばかり作っていたから、露西亜に戻って来て初めて作る露西亜料理である。然し、可笑しい。

「……日本に浮気された気分です」
「私の母国は日本です」
「時期に露西亜が母国になりますよ」
「なりません」

 見た目はボルシチなのに何かが違う。ビーツだってトマト缶だって入れたのに、何かが決定的に欠けていた。正直云ってあまり美味しくない。ボルシチを作ったのは、これが初めてではないのに、たった数ヶ月で作り方を忘れてしまったらしい。無意識に異能力を使用してしまったのだろうか。
 珍しく渋い顔をし乍らもスープ皿の中身を完食した彼は、グラスに注がれた水を飲み干してから、口元をテーブルナプキンで拭った。

「明日はウハーを作ってください」
「日本食じゃ駄目、ですかね?」
「駄目です。早々に此方の料理を思い出して貰わなくてはなりませんから」

 と云われ、翌日作ったウハーは思っていたより上手く作れた。けれど、彼の舌を納得させる事は出来なかったようで、明くる日の朝リビングには露西亜料理の本が置いてあった。露西亜に来て初めて、本気で逃げてやろうかと考えた瞬間である。なお、その後意地でリベンジしたボルシチは両者共に納得の味だった。其の点では、料理本に感謝である。

 リビングの壁に掛けられたアンティーク時計の長針が15時を指し示す。お茶用に焼いたクッキーがちょうどよく焼き上がって、湯気と共に甘い香りを立てていた。
 紅茶の茶葉をセットした後、二階の書斎に彼を迎えに行く。ノックをして扉を開けると、其処にはこじんまりとした部屋があった。濃い木目調のデスクには大型のパソコンが設置されていて、其れを囲むように同じ色合いの本棚が二個置いてあるだけの部屋だ。彼は出窓に腰掛けて外を眺めていた。日本とは造りの違う家が建ち並び、少し遠くには鬱蒼とした樹々が見える。
 何を、見ているのだろうか。妙な焦燥感を覚えたのは、彼が此方を見る事も、声を掛ける事もして呉れなかったからかもしれない。多分、日本のあの日を思い出したと云うのもある。私が無意識に異能を使い、彼を繋ぎ止めた時の事だ。
 丁度後ろに立って、骨張った肩にそっと手を添える。すると、初めから判っていたかのように大きく薄っぺらな掌で握り返された。

「何を見ているんですか?」

 彼は微笑む事もなく窓の外から視線を外さずに答えた。

「観察しているだけですよ」
「人を?」
「名前、ぼくはね、この世界に存在する凡てを平等に愛しているのです。道を歩いている親子や、家の前に生えている雑草だって、凡て神の御業。云うなれば奇跡です。其の奇跡の業を眺める事が愉しくない筈がないでしょう」

 多分、彼なりに私にも伝わるように優しい言葉で説明して呉れたのだと思う。神を心の底から信じている人だから、彼の言葉には迷いが一切存在しない。だからこそ可笑しい。今の私には、其れだけが理解出来る。
 諦めにも似た気持ちを抱き、私は崩れ落ちるように彼の肩から手を滑らせ、其の儘冷たい床に座り込んだ。垂れた彼の手を両手で握り締めて俯く姿は、さながら神に懺悔する信徒のようだろう。

「判りません。フョードルさん。私には、貴方の考えも、これからの身の振り方も全部、何もかもが判らないのです」

 六年前、私を拾った彼を、私は神様のようだと思った。美しい顔に鮮やかな嘲笑を乗せて抱き上げて呉れた腕の細さと冷たさを今でもちゃんと覚えている。その後の六年間、慥かに私は幸せだった。彼の呉れた愛情の元、幼い子供のように彼を慕う事で耐え難い幸福を得ていた。
 私は、その頃をとても懐かしく思っている。何も考えず、ただ純粋に彼を慕えるだけの幼さが在ればどんなによかっただろう。執着と云う名の愛情を抱え乍らも、日本にいる血縁者や知人達を考えると罪悪感に苛まれてしまう私は、導かれるまま素直に彼に甘える事が出来ずにいる。
 彼は、窓の外から視線を外し、私のつむじを見下ろしているようだった。大きな掌が髪を撫でて、次いで顎に掛かる。顔を上げて驚いた。想像以上に顔が近かった。

「寂しくて泣いていたのでしょう? こんなに寂しくて悲しくて堪らないのならあの日、ぼくに殺されていた方がマシだったと思って過ごしていたのでしょう?」

 紫水晶の瞳が語り掛けて来る。ほら、見ろ。莫迦な意地を張り続けるからこんな事になるのだと私を嘲笑っているようだ。

「善いですよ。また、ぼくに依存しても。以前のように沢山甘やかしてあげましょうね。抱き締めてキスをして、夜も一緒に眠りましょう。貴女が望むものを凡て差し上げます」
「……」
「自分で決断する力が貴女にはありません。何故ならそのようにぼくに育てられたからです。其れは仮令記憶を取り戻し、年相応の価値観を得たとしても変わらない」

 然し、何故だろう。彼が語れば語る程、私の頭は急速に冷えて冴え渡って行く。騙されてはならないと警鐘を鳴らし、理性を総動員させる。
 私の理性は衝動的に体を動かした。顔を背け、両手で薄い胸板を突っぱねた私は、大きく息を吐いて立ち上がる。じっとりと汗をかいた手を隠すように後ろ手を組んだ。

「お茶を用意したんです。下に行きましょう」

 何もかもなかったように振る舞うだけの演技力が私に備わっているとは思えないが、この場を切り抜ける事さえ出来れば善いのだ。早口に告げて今にも崩れそうな表情を無理やり保ち見下ろした彼は、美しく微笑んで「ええ、いただきましょう」と誘いを快諾した。
 凡てから目を背けた、この穏やかな日々が私は心底恐ろしい。ああ、頭が可笑しくなりそうだ。

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