「1/f」 | ナノ


地獄は此処に在り


 意識が浮上して目蓋が開き、指が動き、唇からは息が零れる。当たり前の事なのに其れが今はとても尊い事のように感じられる。私は、未だ生きているようだった。

 ベッドから起き上がり、辺りを見渡せば、直ぐに此処が病室なのだと判る。スリッパはないので裸足のまま窓辺へ寄り、カーテンを開いた。空は快晴。病院の中庭を臨む病室であったらしく、下を向けば散歩をする入院患者や車椅子を押す看護師の姿が見えた。

「おや、名前ちゃん。起きていちゃ駄目じゃないか」

 病室の引き戸が開いて薄いカーテン越しに太宰の声がする。コツコツと革靴の音が響いてベッドサイドへ回って来た。けれど、強烈に違和感を覚えた。今日の太宰は何時もの砂色の外套を着ていなかった。見慣れない黒いスーツを着て、片手には黄色と白の花束を抱えている。違和感が強まる。何処かで見た事のある花束に頭痛がして額を押さえた。

「ほらね、だから云っただろう。さ、ベッドへ戻って」
「う、うん」

 背中を支える太宰の掌は異様に暖かく、対照的に私の体は芯から冷え切っていた。違和感は更に強くなり、促されるままベッドへ寝そべった時、其れは頂点へ達した。私は、病院着を着ていた筈だ。其れなのに今は、真っ白な着物を着ている。

「駄目だろう、死体が動いちゃ」
「え……」
「何を驚いた顔をしているんだい?」

 思い出した。太宰の持つ花束は菊の花だ。昨日、墓地で何度も目にした。息が上がり、信じたくない思いで太宰を見上げる。太宰は微笑んでいた。悲しそうに、もう決まってしまったのだと告げる神様のような表情をして冷え切った私の頭を優しく撫でる。

「君は昨日、此処で死んだだろう」



 ハッ、と大きく荒い息を吐いて弾かれたように起き上がる。先ず自分の体を見下ろした。死装束は着ていない。真っ白でゆったりとしたデザインの丈の長いワンピースを着ていた。其れに一度安堵して、今度は視線を巡らせる。普通の部屋だ。取り敢えず、私は生きている。だって握った拳が温かい。これが死後の世界で、死後も体温がある、でもない限り私は今でもこの世界で息をしている。
 私が寝かされていたのはセミダブルサイズのベッドだった。アンティーク調で古く、けれど作りは確りとしている。
 ギシ、とスプリングを軋ませ乍ら脚を床に降ろす。夢の中ではなかったスリッパが其処にはあった。ワンピースと同じ色のフワフワとした其れを履いて立ち上がる。何処から如何見ても病室ではない。あるのはベッドが一つ。キャビネットにドレッサー。窓はあるけれど鍵が壊れているのか開きそうになかった。残るは、部屋の出入り口であるがドアノブを捻ってもガチャガチャと不快な音を立てるばかりで開きそうにない。向こう側から鍵を掛けられているようだ。

「ま、真逆ね」

 先程窓の外を見た時に、或る仮説が頭の中に浮かんだ。けれど、そんな筈はないと直ぐに否定していたのに迫って来る足音が其の仮説を実証する。態とらしく足音を立てて歩いて来た其の人が部屋の前で止まった。鍵を差し込む音がして、ドアノブが回る。ゆっくりと扉を開けた其の人は、黒髪を揺らし乍ら微笑んだ。

「ああ、起きましたね」

 フョードルさん、声にならず唇を動かすだけになった私に気分を害した様子もなく彼は微笑みを絶やさない。後ろ手に扉を閉めて、呆然と立ちすくむ私の頬に片手を添える。死人のように冷えた掌が私の体温を奪っていくようだった。

「おはよう、名前。随分とゆっくり寝ていましたが体調は如何ですか?」
「大丈夫、です……其れよりどうなっているの?」
「混乱するのも無理はありません。でも先ずは、何か口に入れましょう。喉も乾いているでしょう。さあ、此方へおいで」

 頬に触れていた掌が背中を押して寝室らしき場所を出る。短い廊下を進んで角を曲がると其処にはリビングがあった。火のついていない暖炉に、向かい合わせのソファが二つ。木製のテーブル。其の奥にはダイニングテーブルが置かれている。把握すると同時にテレビから流れる言葉に確信する。間違いない、此処は露西亜だ。
 指示された通りソファに座る。程なくして紅茶を持ってきたフョードルさんが向かいに座った。「どうぞ」促され、紅茶の入ったティーカップを手に取る。この二ヶ月間避け続けていた紅茶の味が口内に広がった。

「先ず、貴女も御察しの通り此処は露西亜です。更に云えばサンクトペテルブルグ郊外の一軒家です。この日の為、母国に帰ってきて直ぐに用意した隠れ家の一つですよ」

 向かい側でカップを傾け乍ら彼は続ける。

「ふふ。何故自分が生きているのか、と云いたげな顔ですね」
「当たり前です。私、絶対死んだと思って……」
「安心なさい。約束はちゃんと守りますよ。そうですね……これは賭けです」
「賭け?」

 温かな湯気の向こう側で青白い唇がつり上がったのが見えた。カップをソーサーへ戻した後、其の場に座り直した彼は、外套のポケットから一台の携帯端末を取り出してテーブルの上に置いた。「どうぞ」と促されて手に取る。私の端末で間違いない。

「賭けの内容は、貴女がぼくの目を掻い潜り逃げ遂せる事が出来るか如何か。敢えて期間は設けません。なんなら今から逃げても善いし、暫く此処で過ごし従順な振りをしてぼくを油断させるのも手でしょう。端末は、其の際に必要でしょうからお返ししておきます」
「待って待って」
「嗚呼、異能力を使用しても構いませんよ。太宰君に制御方法を習ったのでしょう? 但し、貴女が異能を使用するのならぼくも手段は選びませんので其のお心算で」
「否、待って下さいって」
「他は……そうだ、この家の鍵も渡しておきますね。貴女、日本での独り暮らし中偶に鍵を開けたまま購い物に行っていたでしょう。女性の独り暮らしとして感心しませんね。此処は日本と違って物騒なのですから留守にする際は、ちゃんと戸締りをするのですよ。まあ、今のところ貴女独りで外出させる気はありませんけど」
「あの、若しかして監視していたんですか?」
「さあ、どうでしょう」

 にっこりと微笑んで小首を傾げた姿に、追及しようと奮い立っていた気持ちがしなしなと萎んで行くのが判った。六年間の経験から判るのだ。これ以上訊いても彼は、もう何も教えては呉れないのだと。
 然し、だとしても可笑しな話だ。何故態々彼は、危険を冒して迄私を露西亜へ連れ帰ったのだろう。其れに賭けの内容も気にかかる。約束は守ると云った癖に、彼の云った内容は賭けの期間中私の生存を約束するものだった。然も、期間は未定。裏を返せば、この家に居る限り私はずっと生き続けられる事になるのではないか。

「其の賭けをする事でフョードルさんに何かメリットがあるんですか?」

 彼が与えた私の手札はこの携帯端末と家の鍵。鍵は未だしも、端末さえあれば電話や電子文書を使って助けを求める事も可能だ。対して、彼の手札は全く読めない。人智を超越した頭脳を持つ人だから道具は必要ないのかもしれない。

「勿論ありますよ。けれど此処で種明かししては賭けが面白くならないでしょう」
「はあ……」
「却説、如何やら貴女も今直ぐ行動する気はないようですし夕食にしましょうか。準備をしておくので先にシャワーを浴びていらっしゃい」
「え、フョードルさんが作るんですか? ゴンさんは?」
「侍従長は居ません。如何にかなりますよ、多分」

 否、多分如何にもならない。六年間で一度もキッチンに立つ姿を見た事がないので断言出来る。
 なんとも不安になる一言と共に押し込まれた浴室は、嬉しい事に浴槽があるタイプだった。数日間溜まっていたと思われる汚れを洗い落として温かなお湯に浸かると、先程の不安も忘れ思わず長い息が零れる。私の呼吸に合わせて透明なお湯が揺れる。其処に映った表情は情けなく歪んでいて、思わず水面を強く叩いた。

「失敗しました。名前が作って下さい」

 体はほかほか、気持ちもある程度は落ち着いて、何も接種していなかった胃腸は空腹を訴えている。然し、現在私の前に置かれているのは黒焦げの謎の物体。其の後ろに立つ製造者は、悪びれた様子もなくにこにこと微笑んでいる。無言のまま横を通り、残った材料を確かめる為に冷蔵庫を開いた。ほら見ろ、矢張りこうなったじゃないか。云ってやりたいのは山々だが、空腹には変えられない。

 無事自作した夕食を取り終えると、忙しい事に今度は強烈な睡魔が襲ってくる。彼曰くゆっくりと眠っていたそうだが、入浴を済ませ満腹になった体は睡眠を欲していて最早泥のようになってしまっていた。最後の力を振り絞りソファにうつ伏せに転がる。フョードルさんは、入れ替わるようにシャワーを浴びているので今此処には居ない。

(あれ? これがチャンスってやつでは)

 今、私がこの家を飛び出したとして、彼は直ぐには追って来られない。若しくは、テーブルに置かれたままになっている端末で助けを呼べば賭けも終了するのではないか。考えて、止めた。もう指一本も動かせそうにないし、それに――

「そんな所で寝ると風邪をひきますよ」

 ソファが軋み、平素では考えられない温かな手が後頭部を優しく撫でた。同じボディソープの匂いがする。其の事実に胸の奥がこそばゆくなる。振り払いたいような、このまま撫でていて貰いたいような複雑な心境だ。寝返りを打ち軽く身動ぎをして身を丸める。もう善い。寝てしまおう。未だ冬ではないのだから露西亜でも風邪をひいたりはしない筈だ。

「仕方のない子ですね」

 そう決意したのも束の間、呆れたような言葉と共に頭を撫でていた手が肩の下に回された。もう片方の手も、膝の下に差し込まれる。頭が揺れてすっかり脱力した体は、浮遊感と共に吸い込まれるように彼の胸元へと寄せられた。嗚呼、抱き上げられているのか。以前の、子供のように。
 階段を登り、部屋に入り、ベッドに横たわる。冷たいシーツの感触に、其処で漸く目蓋を開ける事が出来た。

「フョードルさん……」
「もう眠りなさい。話はまた明日しましょう」

 ぼやける視界に映る彼の目は、非道く優しい。毛布を掛けられて背中をゆっくりと撫でられると、まるで以前のように戻ったようで云い様のない幸福感に包まれてしまう。
 ふと、枕元へ視線を移せば其処には先程迄はなかったはずの兎の縫いぐるみがあった。ゴーゴリが預かっておくと云い、私の手元から消えていたあの縫いぐるみだった。胸がしくしくと痛んで、毛布を頭迄すっぽりと被る。「おやすみなさい」其の言葉と共に手が離れた。扉が閉まり、部屋には私独りきりとなる。以前のように直ぐに眠りに落ちる事はない。当たり前だ。もう私の異能力の制御は彼の手から離れたのだ。
 其れなのに、この人がこんな風だから本気で私は逃げたいと思えない。この家の玄関から飛び出して端末を使い、助けを求める事は簡単なのに行動に移す気も更々ない。心の何処かで現状を喜んでいる自分が恥ずかしい。結局私は、何時まで経とうと未だ彼の庇護の下、生きる子供でしかないようだった。

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