「よし、では行こう!」
「未だ寝ていたい……」
「だーめ」
干物に卵焼きに法蓮草のお浸し、味噌汁にご飯、お漬物。朝ご飯も純和食で美味しかった。見送ってくれた老店主にお礼を云って、今日もまた太宰に腕を引かれ、背中を敦君に押され乍ら駅へ向かう。果たして今日は、何が待っているのだろうか。
太宰の有給は今日で終わりを迎えるらしい。明日からまた仕事かーなんてぼやく広い背中は、電車の来ないホームで自棄に目立って見えた。
昨晩は、不服乍ら太宰のおかげで安眠出来た。そのおかげか今日は頗る体調が善い。だから正常な判断力が戻っている。私は、今直ぐ家に帰りたい。
「なんでよりによって……」
駅員のアナウンスと共にホームに滑り込んで来た電車の行く先はヨコハマである。もう二度と脚を踏み入れないと思っていた地へ、今から私は連れ戻されようとしていた。
「すみません、名前さん……」
「敦君、そう思うなら手離して」
「む、無理です」
私の心情を察したのか敦君の声は完全に萎れてしまっているが、罪悪感を覚える程の余裕も今はなくなってしまった。引き摺られるようにして乗り込んだ電車は、順調にヨコハマへと向かう。矢張り私に逃げ道は存在しない。
時間を掛けヨコハマに到着すると、其処は数ヶ月前の惨状が嘘のように見事復旧を果たしていた。人々は笑顔で行き交い、其の表情に悲しみや怒り、憂い等は感じられない。まるで私独りが異物のような疎外感があった。
「名前ちゃん、こっちだよ」
残念な事に敦君は別の依頼があるとかで、駅で解散する事となってしまった。二日前のように二人きりになった太宰は、慣れた様子で私の腕を引いて先を歩く。今回も行先は聞かされていない。ヨコハマに迄来てしまったのだ。最早どうにでもなれ。そんな心境である。
駅を出て大通りを抜けて、見たくなかった海を横目に長い階段を登る。今日は日差しが暑い。こんな事ならもっと薄着をして来ればよかったと、上がる息を整えつつ後悔する。
開けた地に出ると、其処は墓地だった。海の臨める静かな場所には墓石が幾つも立っている。其れでも太宰は迷わない。墓参りに来ていた別のご家族と挨拶を交わし乍ら墓地の道を進んで行く。そして一つの小さな墓石の前で立ち止まった。ローマ字で掘られた文字を見て体に電流が流れたような衝撃を受ける。苗字――私の両親の墓だった。
「なんで……」
こんな所に連れて来たのか、と横に立つ男の横顔を睨み上げる。対して太宰は穏やかな表情をしていた。癇癪を起す私を意にも留めず、腕を掴んだまま墓石の前にしゃがみ込む。自然と腕を引かれる形になった私も座り込む。脚処か指一本すら動かない。体に鎖が巻き付いているかのような重さがあった。
「つらいだろう。けれど避けては通れぬ道だ」
「非道い」
「そうだね、ごめん」
両親の墓石の周りには、私達以外誰も居ない。遠くで子供の声はしているけれど、この場所は昨晩の民宿のように只々静かだ。
「私は全部知っている。君が、あの晩母親の手を振りほどき独り生き残った事も。其れを一度忘れた事も。凡てを思い出してもなお、こうなる原因を作った男を好きでいる事も。そして其の事に葛藤している事にもね」
腕に巻き付いていた手が解かれる。そして、包帯の巻かれた大きくて温かな掌が俯く私の頭を優しく撫でた。風が吹いて横に垂れた髪が靡く。こんな事なら髪を切らなければよかったな。見られたくないものを見せてしまった。
「思う存分泣くと善い。此処には私以外、誰も居ない」
大粒の涙が頬を伝い、服に染みを作るのがぼやけた視界に見えていた。どんなに拭っても止まる事を知らない其れは、次第に嗚咽さえも引き起こす。両手で顔面を覆って私は引き攣った泣き声を上げた。太宰の掌は私の頭を撫でたまま、決して離れる事はない。其れもそうだ。だってこれは修行なのだから。私が、今の悲しみを逃したくて記憶を改竄してしまわないように触れている必要がある。其れなのに、何故だろう。今、この瞬間だけは、この男の存在に救われた気がした。
思う存分泣いた後は、存外気分が善いものだ。もう体に巻き付いた鎖のような重さはなく、泣いて腫れぼったくなった目で両親の墓石を見つめる事が出来る。
少しの間独りになりたいと告げた私に太宰は反対しなかった。もう異能を使ったりしないと判断してくれたのだと思う。
墓石には、花が添えられていた。叔母夫婦以外、この墓を訪れる人はいないだろうから屹度彼らだろう。折角ヨコハマ迄来たのだし一度顔を見せて帰るべきだろうか。未だ少し、蟠りはあるけれど今ならちゃんと正面を見て話せる気がした。
眠る両親に声を出して話しかける事は出来なかった。代わりに両手を合わせて目蓋を閉じる。立ち上がり、背筋を伸ばすとあれだけ暑かった太陽は既に傾きかけていた。太宰は、墓地の入り口で待っている。結構な時間待たせたし一言謝って、そして今回の件に対するお礼を云おうと決めた。
「あれ?」
然し、墓地の入り口に見慣れて来た蓬髪と砂色の外套を纏った男が居ない。辺りを見渡すが矢張り其れらしき人物は居なかった。其れ処か、人が誰も居ない。時間帯もあるのだろうが、些か不気味だ。
一瞬背筋が粟立って、慌てて階段を駆け下りる。すると階段の下に太宰らしき人が見えた。よかった、待っていてくれた。片手を振って呼びかける。けれど、私の脚が太宰の元に辿り着く事はなかった。
「残念でした」
耳元で誰かの声がして、背中を強く押される感覚があった。脚が階段を踏み外し、浮遊感が襲う。視界がくるくると変わり、最後に此方を見上げて叫ぶ太宰の声を聞いた。
真っ暗な闇が広がっていた。白い光が遠くに見える。優しい声がする。多分、両親の声だった。
意識の浮上は突然だった。頭上で複数人の話し声がしている。多分一人は太宰。其れと震えている女性の声は叔母だろう。同じく何処か耐えるような声を出しているのは叔父だ。ああ、厭だ。如何やら私はまた病院に居るらしい。階段から落ちて病院だなんて、本当に莫迦をやってしまった。先ず心配を掛けてしまった事を謝ろうと唇を動かそうとした。然し、力が入らない。何処も自分の意志で動かす事が叶わなかった。
可笑しい、なんだ、これは。意識はハッキリとしているのに体の自由が一切利かない異常に脳がパニックを起こしていた。私は起きているのだと、誰か気が付いてほしい。そうだ。太宰は察しが善いから、屹度気づいてくれる筈だ。一縷の望みを託す。だが、叔母夫婦は勿論太宰も気が付いてくれる事はなかった。医師らしき人の声がして彼らを呼んだから、病室を出て行ったのだ。
そうなると私は、この病室らしき場所で体も動かせないままたった独りで居る事になってしまう。半狂乱になって叫んでしまいたい程の動揺が襲っていた。私は指一本さえ動かせないのだから叫ぶ事すら出来やしない。すると、引き戸の開く音がして誰かの足音がベッドサイドへ近づいて来るのが判った。太宰だろうか。其れとも様子を見に来た看護師だろうか。もう何方でも善い。とにかく、私をこの状況から救い出してほしい。
「名前」
其の声を聞いた瞬間ドクン、と心臓が大きく脈打った。然も、可笑しな事にあれだけ動かなかった目蓋をゆっくりとだが開く事が出来た。
霞む視界に人の姿が見える。白衣を着た長身の男性だ。細くて、青白い。肩程の長さの黒髪は紫色掛かっていて、髪と同色の長い睫毛に覆われた瞳は紅色にも似た紫色をしている。幸薄に微笑む其の人に、目尻から一粒水滴が零れた。
「あの日果たせなかった約束を、守りに来ました」
首筋に触れる冷たい掌は私がずっと望んでいたものだ。頸動脈に触れ、脈を取るようにしていた其の人は、微笑みを絶やさぬまま懐から一本の注射を取り出す。細い針から涙のような水滴が零れ落ちた。
しー、そう指を立てて細い指先が針先を私の首筋に向ける。液体が押し込まれる痛みを感じていると、また目蓋が段々と重くなる。約束、そう約束だ。私は、彼に殺してくれと頼んでいた。けれど、私はもう律儀に果たしに来てくれた事を喜んでいられない。ほんの少しだけ、今は生きたいと思えるようになったのだ。