「1/f」 | ナノ


いざ行かん修練の道


「さあ、名前ちゃん。今日から修行だ! 張り切って行こう!」
「ヨコハマへお帰り下さい」
「やだ帰らない」

 翌朝、塵捨てに出た私を待ち受けていたのはドラム缶に嵌った蓬髪の不審者だった。入ったら抜けなくなったと云う太宰を奇異の目に耐え乍ら如何にか引っ張り出し、今日もまた腕を引かれて町の中心部迄繰り出す。駅前の時計塔の前に誰かが居た。

「おーい、敦くーん」
「え、中島敦」

 白い不揃いな髪と蜂蜜色の瞳を持った少年が弾かれたように振り返る。そして疲れ切ったように大きくため息を吐いた。瞬時に悟った。彼もまた、太宰の暇潰しの被害者なのだ。

「えっと……名前さん、ですよね。お久しぶりです」
「久しぶりです。えっと、中島敦君?」
「あっ、敦でいいですよ」
「え、じゃ、じゃあ敦君で」
「ねえ、何だいこのむず痒い空気」

 頭上から拗ねたような声が降って来たので、一先ず挨拶を終える。中島敦こと敦君は、何も聞かされぬままヨコハマから此処迄遠路はるばる独りでやって来たらしい。以前会った時から苦労していそうな雰囲気があったが、今日で更に同情してしまった。其れと同時に僅か乍ら罪悪感も覚える。幾ら太宰の暇潰しとは云え、原因は少し私にもあるのだ。
 では行こうか。太宰はもう私が逃げないと悟ったのかパっと腕を離すと疎らな人混みの中を歩いて行く。顔を見合わせ後を追えば、男の長い脚は古い映画館の前で止まった。

「名前ちゃんは嫌な事があると無意識に異能を発動する癖があるようだ。其処で、だ。今から君には此処で、私とこれを観てもらう!」

 太宰の指の先を見て、咄嗟に脚が動いた。正に脱兎の勢い。映画館とは反対方向へ駆け出す私の背に太宰の掛け声が木霊する。結果として、申し訳なさそうな敦君に捕らえられた私は映画館の座席へ連行された。成程、敦君を呼んだのは私の捕獲要因の為だったらしい。

「今巷でトラウマ続出と話題のR18-Gのスプラッターホラー。訊く処によると君は恐怖系が苦手だと云うじゃないか。涼しくポップコーンを食べ乍ら修行も出来る。なんて快適な修行だろう!」
「最悪最悪帰りたい」

 慥かに私はその手の類が大の苦手である。何時もあの人に泣きついていたし、なるべく避けていたのも事実だ。片手を異能力無効化が出来る太宰に、もう片手を逃亡防止に敦君に握られた私に逃げ場はない。結果として映画は最期迄観た。エンドロールの終わりに血塗れの手が出て来た処迄凡て余すところなく記憶に焼き付けた。精神的に半分死んだ気分である。

「よし、じゃあ次だ!」
「帰りたい……もうヤダ……」

 どんなに呟いても、死にかけていても聞く耳を持ってくれる事はない。太宰に腕を引かれ、背中を同じく顔色の悪い敦君に押され次にやって来たのは隣町の遊園地だった。こじんまりした遊園地だが、アトラクションは粗方揃っているし週末になると家族連れで賑わっていると云う。
 軽やかに三人分のチケットを購入した太宰は、迷う事なく遊園地の奥へ向かう。如何やら頭の中で修行と云う名の、嫌がらせ計画が出来ているらしい。実を云えば、この遊園地に来た時から厭な予感はしていた。なんと云っても有名なのだ。一番の目玉。ジェットコースターは中々の怖さだと、お孫さんを連れて行った八百屋のおばちゃんに以前聞かされていたのである。

「よし、二人共行き給え」
「え!? 太宰さんは乗らないんですか!?」
「私は降り口で待っている。このジェットコースターは急降下と回転を繰り返す。名前ちゃんは異能を使っている暇はなく、あるとすれば降りた其の時だ。故に、残念だけど私は降り口で彼女を待っていないといけないのだよ……さ、後ろの人の邪魔になるでしょ。早く行った行った」

 しっしっ、とでも云うように右手を振った太宰はもう既に私達に意識を向けていない。降り口に向かうべく、係の女性を口説いている背中を冷めた気持ちで眺めていると、横の苦労人も同じだったらしい。あれだけ暖かかった蜂蜜色の目が、今は氷のように冷たい。
 結果、ジェットコースターには乗った。最早悲鳴さえ上げられず途中気を失いかけたが、敦君の絶叫のおかげで意識を保っていられた。アナウンスが掛かり、マシンが停車する。頬を染めた女性を背後に清々しい笑顔で出迎えた太宰がそっと私の肩に手を置いた。

「はい、人間失格」

 腹が立ったので震える指で手の甲を捻じっておいた。然し、効果は今一つだった。

「ありゃ、もう夕方か。時間が経つのは早いねぇ」
「…………帰って、いい?」
「駄目」

 その後も数々の絶叫マシンを乗り回し、最後はお化け屋敷も越えた私の体は既に限界を迎えつつあった。体力がある筈の敦君もぐったりとしていて、指で突くだけで今にも倒れてしまいそうな程である。
 帰宅要望を須らく却下した太宰は、又もや迷わぬ足取りで駅を目指す。今度は何処だ。本物の心霊スポットか。其れとも他の遊園地に梯子でもする心算か。独り元気な男の背を項垂れ乍ら追う亡霊が二人。実に異様な光景だが、止めてくれる人は居ない。
 乗り込んだ電車は、私の住む町へ向かった。駅で降りて、太宰に導かれるままアパートと逆方向へ進む。到着したのは、太宰が宿泊していると云う古びた民宿だった。

「今日は此の侭此処に泊まって貰います」
「やだ」
「大丈夫。敦君も居るから間違いは起きないよ。はい、入って入ってー」

 この男は性格こそ難ありだが誰の目から見ても美男だし、こんなちんちくりんに手を出すとも思えないので誰も間違い等心配していない。只、私は自宅へ帰って慣れた枕に顔を埋めて眠りたいだけなのだ。
 玄関先で靴を脱ぎ、階段を登り、一番奥の襖を開けると一般的な畳の部屋が姿を現す。先ずダウンしたのは敦君だった。部屋の入り口に倒れ込んだ彼を跨いだ太宰は、棒立ちする私を手招きして呼び寄せる。本音を云えば脚を踏み入れたくはない。けれど此の侭逃がしてくれるとも思えない。腹を括る他ないようだ。

「疲れただろう? 夕飯は、後で用意してもらうから暫くゆっくりするといい。小さい乍らに浴場もあるから先に入って来てもいいよ」
「後でいい、です」

 窓を挟むようにして距離を取り、壁を背にして座り込む。テレビも点けていないから部屋は実に静かだ。偶に敦君の苦悩に満ちた寝言は聞こえるけれど。
 窓辺で頬杖をついて外を眺める太宰は薄っすらと笑っている。黙っていれば、本当に綺麗な顔立ちをしているのに、と熟この男の事を残念に思った。

 夕飯は、奇をてらった物などない純和風の定食だった。煮付けが美味しくて、味噌汁の出汁の風味が疲れた体に染み渡る。夕食を終え、聞いていた浴場で入浴を済ませると直ぐに就寝となった。最悪な事に明日も太宰の修行計画が出来ているらしく、遠出をするとの事で早起きをする為だった。
 部屋の右端に太宰と敦君。左端に私の布団を敷き、部屋の灯りを落として寝転がる。なんの音もしない。相変わらず偶に敦君の寝言は聞こえるけれど、其れ以外は何の音もしない。実に寝心地が悪かった。寝返りを打ち、壁の方を向く。体温の移っていない冷たいシーツに軽く身震いをした。

「眠れないのだろう?」

 背後から声を掛けた太宰は、音もなく私の背後に座り込むと背中を優しく叩いた。うっ、と息を呑む。如何か止めてほしい。厭でもあの人の記憶を思い出してしまう。

「君の奴に対する感情は理解出来ないが判ってはいる心算だ。君は奴に善い子に育てられてしまったが故に我慢ばかり覚えてしまっている。奴と離れてこの二ヶ月、まともに眠れたのは何日ある?」
「判ら、ない。気が付いたら眠っていたり朝だったりして……」

 よしよし、善い子ですね名前。ゆっくりお休みなさい。ぼくが傍に居ますからね。ああ、厭だ。空耳迄聞こえて来る始末だ。
 両手で耳を押さえて縮こまる私を太宰は、困った子供を見るような眼差しで見下ろしているに違いなかった。背中を叩く手は止まらない。敦君を起こさないよう、声量を落として優しく名前を呼ばれる。

「君は嫌な事があると無意識の内に異能を使う……けれど、ドストエフスキーの記憶だけは消さなかった。何故か判るかい? 其れはね、奴の事だけは忘れたくないと本能がストップを掛けているからさ」
「……」
「髪を切って、住む場所を変えて、其れでも忘れられないなんてね。君、本当に男の趣味が悪いよ。あんな男に惚れるなんて一体何処が善いんだい?」
「……でも、好きだもの」
「執着に似た恋慕か。何時か、君なりの終着点が見つかるといいね」

 規則的に背中を叩く手が、緩やかに眠気を誘う。目蓋が重くなって来て、体から力が抜けていくのが判った。昨日から何度も降れた太宰の手は冷たくない。暖かくて、大きい、男の人の手をしている。あの人とは全然違う。其れが矢張り寂しい。

「おやすみ、名前ちゃん」

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