「やあ、名前ちゃん、最後に会ってから二か月ぶりだね! 元気だったかい?」
「お引き取り下さい」
肩に掛けたトートバッグを勢いよく振る。然し、目の前の男は砂色の外套を揺らすばかりで一向に殴れる気配はない。腹が立ったのでとりあえず大きく舌打ちをしておいた。すると、これにはショックを受けたようで、焦げ茶色の瞳に涙を溜めた。十中八九嘘泣きである。無視しようとしたら腕を掴まれた。如何やら逃がす気はないらしい。
病院で目覚めた私を待っていたのは、特務課の取り調べと叔母夫婦との再会だった。特務課に在籍していると云う太宰の知人の男性は、以前フョードルさんを逮捕した人で、私の顔にも覚えがあるようだった。神経質そうな彼は、言葉を選び乍らこの二ヶ月間の事を訊いた。嘘はつかずに答えた。多分、見抜かれるし、その間何か罪を犯した訳でもないのだから隠す必要もなかったのだ。
叔母夫婦は、私との再会を泣いて喜んでくれた。善い人達なのだと思う。私を心配してくれていたと云う言葉に嘘はなく、頻りに太宰達探偵社にお礼を告げていた。現在、私は特務課の監視と叔母夫婦の庇護の下、ヨコハマから離れた内陸地で暮らしている。彼らは共に住もうと提案してくれたけれど、もうヨコハマに居たくはなかったし、何より海を見たくなかったのだ。
「私、貴方に現住所知らせてましたっけ?」
「いいや。私が此処に来たのは暇潰し……イタタタタ、爪を立てないでくれ給え!」
「犯罪の自白が聞こえたので」
「嘘だよ、嘘。本当は君の叔母夫婦にまた頼まれたんだ。自分達が行くと委縮するだろうから代わりに可愛い姪っ子の様子を見て来てほしいって」
「……」
「愛されてるねぇ」
本当は納得したくなかったのに頭は既に納得してしまった。叔母夫婦は、私を犯罪に巻き込まれ青春時代を過ごした可哀想な被害者だと思っている。だから当初は、この独り暮らしにも反対されたし、如何にか了承を得た今も定期的に連絡を取り合っている。然し、連絡を取り合うだけでは安心はして貰えないらしい。嬉しいような恥ずかしいような、其れでいて息苦しいような感覚に少しだけ唇を噛んだ。
太宰は、私が持っていた買い物袋を持つと教えてもいないのに勝手にアパートの階段を登り始める。次いで鍵を貸せと片手を差し出されたので、渋々渡した。扉を開けるとキッチン、そしてリビング兼寝室がある普通の1DKのアパートが今の私の城だ。叔母夫婦が用意してくれた女性らしい可愛らしい家具の数々に太宰がニヤニヤと笑っている。
「今更だけど、髪を切ったのだね」
「気分変えたくて。叔母夫婦も賛成してくれたし」
「姪っ子が過去と決別する善い機会になると思ったのだろう。でも、私は長い方が好きだったなぁ、惜しいなぁ」
「じゃあもう伸ばしません」
「君、前から思っていたけど私に対して冷たいよね? なに、私の美貌が気に喰わない?」
そう云う処が苦手です。声には出さずに答えを返す。用意した麦茶を流し込み、テレビをつけた。アナウンサーがニュースを読み上げている。近所で催された子供会の取材映像だった。実に平和な光景に気が抜ける。
「まあ、元気そうで何よりだ。如何? この町は住みやすいかい?」
「ええ。程よく賑わっていていい町だと思いますよ。お隣さんも善い人ですし」
「そう、なら私も安心だ。これでもね、君の事は気に掛けているのだよ。叔母夫婦から依頼がなくとも後々様子を見に来る心算でいたんだ」
「……前から訊きたかったんですけど」
「うん?」
「貴方は何であの日、あの家に来たんですか」
ローテーブルを挟んで向かい側に腰掛けた太宰は頬杖をついたまま薄い唇の端を持ち上げる。其の笑みは、優しくてそれでいて何処か寂し気だ。
「あの屋敷が何故二ヶ月間も無事だったと思う?」
「特務課や軍警が見つけられなかったからじゃないの」
「違う。あの街の特務課と軍警は無能じゃない。只の屋敷なら見つけるのは容易かっただろう。名前ちゃん、君の実家は見つからないようにと或る仕掛けがされているのだよ」
太宰曰く、亡くなった私の両親は異能を満足に扱えない私を憂い、家の中で大事に育てた。此処と最期迄は凡て以前訊いた通りだった。ただ、一つ新事実を聞かされる。両親は、と或る異能力者に依頼して屋敷に目隠しの異能を掛けて貰っていたのだと云う。
「だから君は誰にも見つからず奴とあの場所で束の間とは云え安寧の時を過ごす事が出来た。無効化の異能を持つ私によって今、其の異能は解かれてしまったがね」
「あの人は其れを知っていた?」
「ああ。知っていたとも。以前も話したが六年前、君の情報を売ったのは奴だ。其の時から既に屋敷の絡繰りに勘付いていた筈だよ」
だからあの人は、あの屋敷を日本での隠れ蓑に選んだのだ。思い返せば実に非道い人だと思う。何も覚えていなかった私を、何も教えずに生家に住まわせたのだから。まあ、各云う私も二ヶ月前傷だらけの彼を連れてあの屋敷に逃げ込んだのだから人の事は云えない。
「太宰は何で二ヶ月間も私を野放しにしたの?」
「おや、気づいてた?」
「だってタイミングが善過ぎるじゃない。丁度フョードルさんが居なくなったあの日……どうせ最初から全部、本当は判っていたんでしょう」
太宰は微笑むだけで何も云わなかったが、其れが答えとなった。矢張り私は、この男が苦手だ。あの人と同等の頭の善さも、人を喰ったような態度も凡てが落ち着かない。
「却説、ではそろそろ本題に入ろうかな」
「は?」
「私が今日、此処に来たのは依頼も勿論あるがもう一つ目的がある。名前ちゃん、君の異能の制御、其の修行さ」
「はあ?」
「え。其処は「わあ、有難う太宰さん!」って云う処じゃないの」
誰が云うか、そんな言葉。僅かに鳥肌の立った腕を抱いて太宰を見るが、表情を見るにこの男嘘はついていないらしい。本当に私の異能力を制御させる心算で、遥々ヨコハマからこの地を訪れたようだった。
「何で態々そんなに気に掛けてくれるんですか。私、会ったの数ヶ月前ですよね」
「云ったでしょう? 君の事を気に掛けているって。と、云うのは建前で実はね……有給消化なのだよ」
「……有給?」
「うん。消化」
自棄に重々しく何を云うかと思えば、真逆の回答に思わず面食らう。其れでもなお、真面目くさった表情をした太宰は、組んだ手を口元に添えると憂いを帯びた溜息を吐く。つられて私も生唾を呑んだ。有給消化に面食らったばかりだと云うのに、自分でも呆れるくらい私もノリが善い。
「本当は、下の喫茶処の女給さんや最近近所に出来た花屋の看板娘ちゃんとかと仲良く逢引したかったのだけど二人ともから辞退されてしまってね……其処で私は、暇つぶしゲフン、名前ちゃんの事を心配しこうして修行の手伝いに来たと云うわけ、イッター! 普通リモコン投げるかい!?」
「今すぐご帰宅下さい」
「そんな風に親指立てないでよ、どっかのマフィアみたいじゃないか」
バッグは中らなかったが、リモコンは見事其の額に的中した。大の字に倒れた男は、いくら帰宅を促しても転がるばかりで玄関に向かう様子はない。そうこうしている間に外は薄暗くなって来た。そろそろ夕飯時なので本当に帰ってほしい。
「ふふ、君は顔に出やすいね。そんなに心配しなくとも近くの民宿に泊まる事になっているのだよ。流石の私も独り暮らしの女性の元に泊まろうなんて考えてはいないから安心し給え」
「そうですか。どうぞご帰宅下さい」
ラグの上でダラダラと転がっていた太宰は、麦茶を一気に飲み干すと漸く玄関へ向かった。靴を履いて振り返る。包帯の巻かれた大きな掌が私の頭の上に乗った。
「じゃあね、また明日も来るから寂しくて泣いたりするんじゃないよ」
「泣かないよ」
「善い子だ」
優しい声で囁いて太宰は、部屋を出て行った。外からカンカンと階段を下る音がする。鍵を閉めて、私は其の場に膝をついた。扉を背に、立てた膝と置いた腕に顔を埋める。
泣いたりするんじゃないよ。ああ、如何してあの男は全部判ってしまうのだろう。私が未だ、あの人の事を引きずっている事を。髪を切って、遠い北の大地を思い出す海から離れて、知らない町で生活してもなお、ずっとずっと寂しくて涙が溢れる事に、何故気づいてしまうのだ。
鼻を啜り、呼ばないよう閉ざした唇を噛み締める。私が欲しいのは、もっと冷たい掌なのに。