「1/f」 | ナノ


何時だって終末は白だった


 二ヶ月と十日――ヨコハマでの死闘から経過した月日である。若しやあの光景は凡て夢で、今この生活が二ヶ月以上前からずっと続いているのではないか、と錯覚してしまう程の安寧の中に未だ私は居る。
 あの日、私の手首を折らんばかりに握りしめたフョードルさんは、今日も変わらずボンヤリと外を眺めているし、私も内心困惑し乍らも今の生活に安らぎを感じていた。彼の可笑しな言動は、手首の腫れが癒えるのと同時に水に流した。
 先日、実に数ヶ月ぶりにピロシキを作った。本当はボルシチを作りたかったのだけど、ビーツを切らしていた為、作れなかったのだ。少し焦げていて形も歪な其れを、彼は文句も云わずに口に運んだ。母国で食べていた物に比べて味も落ちる筈なのに、たった一言美味しいですと呟いて、また遠くを眺めた。多分、母国の大地を思い出していたのだと思う。其の目を見ていると何だか懐かしいような切ないような愛おしいような不思議な感覚がする。
屹度この生活の終わりは近い。彼はもう独りで歩けるし、其の頭脳だって当の昔から本来の働きを取り戻している。彼が、この地を、この国を発つ其の時、私はこの細く頼りない腕に掴まっていられるのだろうか。

「そんな事を、最近考えています」

 リビングのソファとアームチェア。二つに座り向き合ったフョードルさんは、無表情に腕を組んで私を観察している。文字通り、博物館の展示物でも見ているかのような視線に身が竦む思いがした。
 近頃は浮かない顔ばかりしていますね、何かあるなら云ってご覧なさい。促したのは他ならぬ彼なのに、随分な態度だ。そんなに困っている私を見るのが愉しいのか。若しそうなら明日のお茶に出そうと思っていたクッキー全部私独りで食べてやる。

「成程ね……漸く納得がいきました。貴女、ぼくに異能を使いましたね」
「へ?」
「可笑しいと思っていたのですよ。ぼくの寝室と地下室では、既に日本脱出の為の準備が整っていた。其れなのにぼくは今もこうして此処に居る。然も、呑気にお茶なんて飲んで、態々貴女の話迄訊いてやっている始末だ」

 困っている私を、見るのは、そんなに愉しい、のか。
 チェアから立ち上がったフョードルさんは、疲れたように額に手を中てて大きく息を吐いている。対して私は、ソファから動けない。今、立ち上がったら倒れてしまいそうだったのだ。

「二ヶ月と十日ですか。準備をしていたのは、約二週間は前。本調子ではないとは云え、あるまじき失態です。全く、貴女のぼくへの執着心には呆れますよ」
「……私が、異能を使った?」
「薄々そうではないかと思ってはいましたが真逆無意識ですか? 相変わらず自分で制御が出来ていないのですね」

 否定したいのに否定出来るだけの材料がない。其れに納得しているのも事実だった。あの時、手首を掴まれた時に私は咄嗟に異能を使った。だから彼は、今もこうして此処に居て呉れるのだ、と。
 意外と私の脚は確りとしていて、立ち上がっても倒れる事はなかった。腕を伸ばす。けれど寸前に待てが掛かった。

「動くな」

 指一本分程の距離で浮いた腕が無様に震えている。恐る恐ると見上げた紫水晶の瞳は、恐ろしく冷酷で私個人に対して何の執着も感じさせない。もう貴女は要らない、と二ヶ月と十日前云われた言葉が嘘でなかったのだと今更悟る。

「貴女は接触する事で異能を発動する能力者だ。そして、このぼくも。ぼくの異能力は覚えていますね? これより先、指一本でも触れればぼくは躊躇なく貴女を殺します」

 まるでジェットコースターにでも乗っている気分だ。状況は急降下を繰り返し、動揺を誘い、正常な判断力を鈍らせる。
 心は簡単に折れた。あっさりと下ろした腕はカタカタと小刻みに震えていて、彼の名前を呼びたくともまともに話せそうにもなかった。如何したらいい。最適解は何処。決して優秀ではない脳を全力で酷使する。けれどこうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。彼が、此処を去るのが早いか、私が選択するのが早いか。これは、最早賭けだった。
 私は賭け事をした事がない。ルールだってまともに知らない。だから、これが果たして合っているのかも判らない。

「殺して、ください」

 もう一度伸ばした腕は簡単に目の前の人の体に触れる事が出来た。一先ず其れに安堵するけれど心が落ち着く事はない。自分の言葉に一番驚き、怯えている自覚はある。格好よく啖呵を切れればよかったのに、私の声は震えているし、彼の胴に回した腕にだって力が入っていなかった。

「わ、私は、置いて行かれる方が、貴方と離れる方が、つらい」

 言葉尻は窄んでしまっていて届いたのか如何かも判らないが、頭上の彼は何も云わなかった。ただ、腕が動いたのは布ズレの音で判った。
 これが、人生最期の瞬間になるのだろう。肺を一杯にする程、大好きだった香りを吸い込み、硬く目蓋を閉じて唇を引き結ぶ。

「ええ、いいですよ。貴女の望むままに」

 彼の手は、異能を発揮せず、代わりに私の背に垂れた髪を強く引いた。これ迄に何度も櫛で梳いて、手入れして呉れた髪を引かれ、其の儘床に引き倒される。其れでも未だ、異能は使用されていない。私を見下ろす彼の瞳は混沌としている。其れなのに、可笑しい話だ。表情が、柔らかい。まるで幼子を見るような慈愛すら感じられる表情だ。
 そっと首に大きくて冷たい掌が触れた。先ずは軽く気道を圧迫される。少しだけ息苦しくなって息が詰まる。成程、こうやって殺すのか。如何やら異能を使う気はないらしい。手が冷えて行く感覚がして呼吸が浅くなる。そして、私は思い出した。私はこの体験を以前も一度した事がある。ただ違うのは、今回はあの時のように夢ではなく、また起こして呉れる道化師の存在もない。

「ねえ、名前……ぼくは貴女を愛していましたよ。これは嘘ではありません。若し、貴女があの時ぼくの元へ飛び込んでいたのなら屹度こんな事にはならなかった」

 ぽつり、ぽつりと彼は言葉を選ぶようにして呟いた。まるで独り言だ。私の返事を必要ともせず、抱えていた感情を吐露している姿は何処か物悲しく見える。

「仮令この愛が正常なものでなかったとしても。慥かにぼくは、」

 言葉を遮るように気道を圧迫する指に更に力が籠る。意識が遠のく感覚がして、私は諦めるように目蓋を閉じた。死ぬのは怖い。けれど、他ならぬこの人の手に掛かれるのなら、後悔はなかった。そっと、眉間に冷たいものが触れた気がした。



「やあ、名前ちゃん。お目覚めは如何かな?」

 却説、此処で可笑しな話をしようと思う。死んだ筈の人間が実は生きていた、と云うありがちなミステリー物の話だ。なお、生きていた人間は私で、謎を解き明かして呉れるのはもう二度と会う事はないと思っていた蓬髪の男である。

「太宰?」
「矢張り呼び捨てなのだね。ま、別に善いけど」
「……此処は?」
「ヨコハマ市内の病院だよ。君が死んだと思って六時間は経っている」

 白い壁と必要最低限の物だけが詰められた部屋に居るのは、私と太宰の二人だけだ。扉の摺り硝子越しに男の人の背中が見えるから正確には二人きりではないのだけど。
 枕に頭を預けたまま、そっと首に指を添える。頸動脈は今も元気に脈打って、私は生きているのだと知らせていた。

「外に居るのは特務課の人間だ。君が回復したら事情聴取を受ける事になるが、君が罪に問われる確率はとても低い。安心して今は眠りなさい」
「……フョードルさんは」
「居なかったよ。私があの屋敷に脚を踏み入れた時には、奴の居た痕跡は何処にもなかった」
「そっか」
「奴が無事で安心した?」
「うん」

 太宰の声は、笑ってしまう程優しくて、つられて私の言葉も幼くなった。大きく息を吐いて再度目蓋を閉じる。
 彼に置いて行かれるのは、これで二度目だ。一度目は特務課に逮捕された時。そして今回。屹度もう二度と迎えに来てはくれないし会う事もないのだろう。其の現実が、たまらなくつらかった。

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