ある日、ふとした拍子に思い出した。日本の古い家、庭に咲く紫陽花、優しかった両親。腕に感じていた母の指の力強さと温もり。甕から溢れ出る水のように、脳に蘇った膨大な記憶にカップを持つ指が震えた。
ガシャン――指から零れ落ちたカップが床に落ちて粉々に砕け散る。床にカップの中に入っていた水が広がり、私の横に座っていた人の足元を濡らしたのが見えた。
「名前?」
此処は露西亜。私の部屋となった屋敷の一室。大きなベッド。熱があるせいで頭がふわふわとして気持ちが悪い。そうだ、私は風邪をひいて寝込んでいたのだった。
「名前?」
私の様子を見に来て呉れていたフョードルさんが気遣わし気な声を出して顔を覗き込んで来る。垂れた髪を冷たい指先で拾われて、大きくて薄っぺらな掌が頬を包んだ。そうすれば自ずと視は彼の方へと向く。深くて、赤色にも見える紫色の瞳に息を呑んだ。彼は無表情に私の目を見ていた。心の奥底まで探るかのような視線に生唾を呑みこむ。其れがいけなかった。
「……未だ完全ではないな」
ぽつりと零した言葉は小さかったのに非道く重く響いた。頬を包んでいた掌がゆっくりと首筋を通り、肩を撫で、最期は脚へ辿り着く。
「フョードルさん、私、日本に」
凡てを声にするより先に、脚を掴んだ腕が力強く動いた。引きずられるように脚を引き寄せられ、乱雑にベッドの上へ転がされる。思えば、彼にこんな風に扱われたのは初めてで、私はとても動揺していた。
縋るような思いで、私の脚を掴んだまま無表情に見下ろすフョードルさんを見上げる。厭な予感が当たりませんように。心の底から祈りながら、再度其の名を呼んだ。
「名前」
三度目だ。フョードルさんに名前を呼ばれ、反射的に返事をする。けれど彼は何時ものように褒めては呉れない。無表情のまま、まるで見せ付けるように私の脚に白く細い指を絡みつけ、そして云う。
「約束を破る悪い子にはお仕置きが必要ですよね?」
同時に指に力が籠る。皮膚が圧迫されて骨が軋む音がした。痛みは未だ少ない。けれどこれからの顛末を考えると既に激痛が走っている心地がするのだから不思議だ。
喉が引き攣り、目に涙が溜まる。ゆるゆると首を横に振るが、指から力が抜ける事はない。代わりに見上げた表情が変わった。冷たく引き締まっていた唇が緩やかな弧を描き、ベッドに突いていた片手が私の側頭部に伸びた。優しく、優しく、髪を、額を撫でられる。しー、と泣き喚く幼子を宥めるような音を薄く開いた唇の隙間から発して、体が近づく。脚がよく見えなくなった。
「よしよし、名前。泣いてはいけませんよ。痛くない、痛くない」
大丈夫、痛くない。何度も繰り返す彼の唇から視線を離す事が出来ない。怖くって心臓は破裂しそうな程大きな音を立てているのに、手を振り払う勇気が出ない。
「善い子の名前は、これからぼくがする事を受け入れて呉れますよね?」
ミシリ、先程より大きく骨の軋む音がした。咄嗟に上がりそうになる悲鳴を大きな掌で抑え込まれる。強い圧迫感。鋭く、何処か響き渡るような痛み。息を吸い込んだ拍子、私の脚は――
「其れは其れは、随分と懐かしい夢をみましたね」
思わず髪を拭く指先に有りっ丈の力を籠めた。痛いです、と批難の声が聞こえたけれどちょっとした仕返しなので聞く耳を持つ気はない。否、矢張り後が怖いので少し力は緩めておいた。
記憶を取り戻して一ヶ月と少し。未だ私の記憶は完全ではない。時折こうして、夢や、ふとした拍子に忘れていた記憶が蘇る。今回の其れも同じだ。出来れば思い出したくなかったし、目覚めは最悪の一言だったが思い出してしまったものは仕方がない。
お風呂上り、放っておくと濡れ髪のまま眠ってしまうフョードルさんの髪を乾かし乍ら会話の種にと話してはみたが、彼に限って謝罪等ある筈もない。水分を粗方吸い取り、重くなったタオルを椅子に掛け、今度はドライヤーの電源を入れる。
「フョードルさん、髪伸びましたね」
「そうですか?」
「うん。あんまり痛んでもいないしそんなに違和感もないけど、此処迄長いの初めてじゃないですか?」
元々そう云う面に無頓着な人だし、屹度云われる迄気にしてもいなかったのだろう。乾かした一房を指先で拾い上げた彼は不思議そうな顔をしてマジマジと毛先を眺めている。
丁度乾かし終えたのでドライヤーを切る。櫛で整えて、終わりの意味を込めて肩を叩くが、掌には骨の感触しかしなかった。矢張り細い。食が細いのも前からだったけれど、一月前が尾を引いているのが輪をかけて細くなってしまった。
「フョードルさん、細いし髪も伸びたからぱっと見女の人に見えますよ」
「は?」
どうやら私は彼の地雷を軽く踏んでしまったらしい。振り返った顔は不服そうで、其の声は何時になく低かった。
翌日。何時ものように昼前に起きて来た彼の髪は、以前と同じ長さに切り揃えられていた。余程女の人のようだと云われたのが嫌だったらしい。然も、暫くの間不機嫌だったから今度から気を付けようと心に決めた。
ヨコハマでの衝突から二ヶ月が経過した。矢張りこの屋敷には誰も来ない。恐怖すら覚える程の静かな日常が流れている。
なんとなく露西亜のお菓子が恋しくなってブリヌイを作った。此処最近日本の料理しかしていなかったからフョードルさんもそろそろ母国の味が恋しいだろう。ブリヌイは食事としても愛されているけれど、今日はおやつだからジャムと蜂蜜をたっぷり掛けて、ロシアンティーも用意する。ダイニングに並べて、紅茶が冷めない内にフョードルさんを呼びに行く。
「お茶にしませんか?」
今日のフョードルさんは二階の窓辺に腰掛けていた。ぼんやりと外を眺める横顔は、何処か穏やかに感じられてこうして声を掛けていると、私と彼が置かれた状況を一瞬忘れてしまう。
呼び掛けに、彼は此方を振り向いて穏やかに微笑んだ。険しさや冷たさは何処にも見られない。本当に、普通の人にでもなってしまったかのような錯覚を与える。
「名前、此方へおいで」
手招きをされ、脚が自然と彼の許へ動いた。目の前に立つと、白くほっそりとした指が私の手首を掴む。
「この二カ月間、貴女は本当によくしてくれた。貴女の献身に心から感謝しています」
指先が手首の骨をなぞるように動いているのが感覚的に判った。穏やかだ。穏やかな筈なのだ。其れなのに背筋に冷たい汗が滲む。先日夢で見た記憶が脳裏を過ぎる。あの時と違うのは、私が彼を見下ろしている事。下ろされた目蓋の隙間から紫色の瞳が見えた。
「でもね」
ああ、私はとんでもない勘違いをしていたのだとこの時痛感した。彼は、地下に巣くう盗賊団の頭目で、殺人結社『天人五衰』の構成員。特一級の国際的犯罪者であり、決して私の幻想のような、普通の人にはなれないのだと。
以前聞いた骨の軋みを感じ、痛みが走る。咄嗟に振り払うと、意外と簡単に彼の手は離れた。
「今の貴女はもうぼくの名前ではない。貴女の愛情の皮を被った依存に応えてやる程、ぼくは優しくありませんよ」
それだけ云って、彼は階段を降りて行く。行先はダイニングではなく寝室だろう。足音が遠くなり、完全に聞こえなくなった後、握りしめられた手首を見た。赤く腫れてはいるが折れてはいない。細いけれど、ちゃんと力はある人だから私の手首なんて脚より簡単に折れただろうに。
大きくため息を吐いて、窓の外を見つめる。暗雲が立ち込めているから、もうすぐ雨が降るだろう。雨はあまり好きではない。暗くて、ジメジメしていて体は重いし、何か嫌な事が起きそうな気がして来る。窓から視線を逸らし、階段を降りる。ダイニングへ戻れば、冷め切った紅茶とブリヌイが出迎えて呉れる。
「え?」
その筈だった。椅子に腰掛けて優雅に紅茶を傾けているのは寝室に戻ったと思っていたフョードルさん其の人だ。チラリと視線を投げて、一口サイズに切ったブリヌイを口に運んでいる。なんで、この人何がしたいの。湧いて来るのが怒りなのか呆れなのか判別がつかない。唇を半開きにさせて、独り優雅にティータイムを楽しむ彼を見つめる。
「お茶にするのでしょう? 折角の紅茶が冷めますよ」
「は、はあ」
納得はしていないけれど促されるまま向かいに腰掛け、琥珀色の紅茶を傾ける。慥かに放置したせいで冷めて風味が落ちてしまっている。
彼の思惑が全く読めない。向かいの彼は、すまし顔。回答を呉れる事はないし、私がどれだけ頭を悩まそうと答えへ辿り着く事なんて出来やしない。
もういい、諦めよう。結果がどうなろうと何れ凡て判る日が来るのだから。大きく息を吐いて肩から力を抜く。向かいから小さく笑う声がする。正真正銘腹が立ったので、もう暫くは日本食を続けようと心に決めた。