「1/f」 | ナノ


少女はまだ六歳


「貴女の其れは愛情ではありません。ぼくに対する一種の依存です」

 目を覚まして暫く、掠れた声で告げられた其れに私は否定の言葉を紡げなかった。普段の彼らしからぬ弱々しい声色と疲れ果てた表情だったけれど、説得力があった。其れに何よりも、私自身が彼の言葉に納得していたからだ。



 満身創痍と云うよりは最早半死半生と表現する方が正しい状態のフョードルさんが目を覚ましたのは、ヨコハマから脱出して三日後の深夜の事だった。
 露西亜に戻ろうにも脚はなく、結局戻って来たのは郊外の屋敷。元は、私が十四歳まで両親と共に過ごした実家である。運よく、若しくは何らかの意図があるのか、誰一人踏み込んで来ない此処は唯一の安息の地と云えた。とは云え、彼にとっては違うようで天井を見上げる紫水晶の瞳はボロボロの体とは裏腹に鋭く冴え渡っている。

「其れで? 態々危険を冒してまでぼくを助けてこれから一体如何する心算ですか」
「……考えて、ないです」
「でしょうね。大方混乱する中無意識に体が動いた、とでも云う心算でしょう。全く……これも六年間の成果でしょうか」

 ポツポツと語る彼の目は、一切私の方へ向けられない。対して私は、彼の横顔をジッと見つめている。レースカーテンの隙間から漏れる月明かりに照らされた頬の白さがやけに眩しく映っていた。

「幾ら考えても貴女では答えは導き出せないでしょうから、ぼくから選択肢を三つ差し上げます。一つは、ぼくを此の侭逃がす事。もう一つは、特務課に通報した後ぼくを引き渡す事。そして最後の一つは、」

 矢張り彼は疲れているのだろう。普段の彼ならば私の今後の行動迄凡て読んで、微笑みを携えて観察している筈なのだ。

「殺しませんよ」

 先回りして告げた返答に、初めてフョードルさんの表情が変わった。少しだけ目を見開いて、ゆっくりと眼球だけを私の方向へ向ける。枕元に置いた椅子に腰掛けた私と目が合う。
 なるべく穏やかに話す心算でいた。彼の目が覚めたら、恨み辛みは語らず以前のように穏やかに「おはよう」と云おうと夢を見ていた。けれど現実は、これだ。話の内容は物騒で、私も彼も笑っていない。以前のようになんて、元より無理な話だったのだ。現実の過酷さを静かに痛感する。

「ねえ、名前。貴女、大きな勘違いをしてはいませんか?」

 漸く呼ばれた自分の名前に焦点を合わせる。フョードルさんが話している。血色の悪い唇は水気を失いカサカサに乾燥していて、これ以上話せば切れて鮮血が噴き出しそうだと頭の片隅で思っていた。

「貴女の其れは愛情ではありません。ぼくに対する一種の依存です」

 納得したから否定も反論もしなかった。六年間、其の長くも短い月日の間、培ってきたこの感情は依存と云って差し支えないものだと私自身何処かで理解していたのである。
 フョードルさんは、それから少しだけ話をすると其の儘眠りに落ちてしまった。誰か人の気配があるだけで眠れない筈の人なのに。小さく響く寝息がほんの少しだけ可笑しかった。



 結局、フョードルさんがベッドから起き上がれるようになる迄、一月は掛かってしまった。
 相変わらずこの屋敷には特務課も軍警も誰も訪れない。あの地獄が嘘だったのではないかと疑う程の安寧の中、カーディガンを片手にもう一人の住人の姿を捜し歩く。
 目を離すと直ぐにこれだ。じっとしている事に飽きたのか、起き上がれるようになるとフョードルさんは、屋敷や庭を歩き回るようになった。ある時は二階のテラスでボンヤリと外を眺めていたり、ある時は地下で床に転がっていたり、またある時は今のように庭に出ていたり。彼の行動パターンは読めない。

「風邪ひきますよ」

 庭の紫陽花を観察するようにしゃがみ込んだ背中は、以前よりもほっそりとして頼りなく映った。少しだけ伸びた黒髪が肩から滑り落ちて、白い頬を包んでいる。
 其の背中にカーディガンをそっと掛けると、無言のまま紫陽花と同じ色の瞳が私を見上げた。態と溜息を吐いてみるが、如何やら効果はなかったらしい。直ぐに紫陽花へ視線は戻ってしまった。

「庭の世話、始めたのですね」
「他にやる事もなかったので」
「以前は触れたくないと近寄りもしなかったのに?」
「貴方が其れを云いますか」
「まあ、そうですね」

 庭も、この屋敷も嫌なのだと泣いた記憶は現在も私の頭に残っている。そう云えば、ゴーゴリやシグマは如何したのだろう。多分、彼らの事だから生き残っているとは思うが。

「綺麗に咲いていてよかったです。あのまま枯れるのではないかと心配していたので」
「花、好きでしたっけ?」
「ええ。花に罪はありませんから。けれど此処は元々貴女の家です。庭を綺麗に整えるのも、放置するのも、屋敷自体を手放すのも貴女の自由だ」

 花弁を指先でそっと撫でて、ゆっくりと立ち上がる痩身を背後から支える。矢張り前よりも遥かに細くなっている。ただでさえ虚弱体質で、骨と皮しかないような人だったのにこれでは本当に病人の其れだ。
 不安が手に現れたのだろう。気が付けば、支える手で彼の服をギュッと握りしめていた。頭上で微かに笑う声がする。体の横に垂れていた手が、そっと私の指に触れた。

「未だぼくから離れるのは辛いのですか?」

 一瞬ドキリとした。彼の声色は、以前の私を甘やかすものとそっくりだったからだ。けれど、言葉や声色とは裏腹に、彼の指先は私の指を自身から引き離す。静かに離れて、屋敷に戻って行く背中を見ていると泣きたくなるような切なさを覚えた。
 これが、屹度依存なのだ。愛情ではない。履き違えるな。そう暗に何度も云われても、其れでもこの異常な迄の切なさの逃し路を私は判らずにいる。
 追いかけて、もう一度其の背を支えた。彼は一瞬驚いたように瞬きをしたけれど引き剥がしはしない。

「そうです。私、自由なんです。だから、こうして自分の意思で貴方の近くに居るんです」

 見上げた瞳は、冷たくて愛情なんて何処にも感じられない。けれど、其れでもよかった。以前のような関係を私は望んではいない。依存上等。引き剥がされてもついて行く位の気概がなければ、彼の傍には居られない。あの日、壊滅した街からこの人を連れ出した時、私はそう決めたのだ。

「仕方のない子ですね」

 彼の困った子供に向けたような言葉を聞き乍ら、庭に続く扉を閉める。硝子に締まりのない顔をした私の顔が映っていた。

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