凡てが偽物だったのだと。与えられた愛情は慥かに其の名を冠してはいたけれど、其れは決して世間一般で云う品物ではなかったのだと。過ごした六年間、出会いから終わり迄凡てあの人の計画通りに進んでいた。事の顛末を聞き終えた時、私は泣く事さえ出来ず、ただ自身の腕を力の限り握りしめたのだ。
「残念です。心の底から私は悲しんでいます。ええ、こんなにも胸が引き裂かれそうな思いをするのは生まれて初めてだ」
瓦礫、粉塵、怒号、硝煙、流血、遺体。何処までも澄み切った青空とは不釣合いの大量の異物が転がる街。大凡中央に立つ男は、世界の支配者のように見えた。肩まで伸ばした艶やかな黒髪を露西亜帽に隠し、死人のように青白い肌と、蠱惑的な紫水晶の瞳を持つ異国人。魔人。美しかったヨコハマの街を、こんな無惨な有様へと変えた張本人。
男は、対峙する女の目を真っ直ぐに見つめて、大袈裟な程に声を震わせている。言葉の通り心底今の状況が悲しいのだと、紫色の瞳を歪めている。屹度今、男の元へ戻るのは簡単だ。必死に抑え込んでいる感情を漏らして、其の胸に縋り付けばいい。矢張り傍に居たいと、ごめんなさい、と謝れば男は微笑んで優しく抱き締めてキスを呉れるに決まっている。其れでも動かないのは、背後に立つ傷だらけの少年達や、蓬髪の男が支えるように背に手を添えて呉れているからだ。
男は、長い睫毛を持ち上げて血の気のない唇をゆっくりと吊り上げる。其れが非道く現実離れして女には見えた。「そうですか、本当に残念です」男は、そっと呟く。
「もう貴女は要らない」
其れは、六年ぶりに真実を取り戻した女にとっての死刑宣告に他ならなかった。
88日間も続いたとされる龍頭抗争も、実際はこんな呆気ない幕切れだったのかもしれない。瓦礫の中、目を覚ました女は、そんな事を考える。大小様々な怪我はあるが、幸い骨は折れていないようだ。痛みを訴え此の儘倒れていたいと云う体に鞭を打ち、大きな瓦礫を支えに立ち上がる。そして息を呑んだ。非道いと思っていたヨコハマの街は、更なる壊滅を遂げていた。武装探偵社、ポートマフィア、組合、死の家の鼠、天人五衰、国内外問わず様々な異能集団を巻き込んだ抗争は終わりを迎えていた。そして今は、ただ静かに再建の時を待っている。
では、私がする事は――女は、諦めたように溜息を吐くと覚束ない脚取りで歩き出した。瓦礫の間を縫うように歩き、世話しなく視線を左右に向ける。頭の中に思い描く特徴は、何処にも転がってはいなかった。もしかしたら、ふと脳裏に予感が走る。嫌な予感は中る。勿論外れる事も間々あったけれど、多分、今回は必ず中る。女は、来た道を戻り始めた。瓦礫の海を越え、『本』が在ったとされる場所を目指す。其処は大きな窪みが出来ていた。人が三人倒れている。一人は血と粉塵で薄汚れているが元は真っ白な少年、もう一人は全身真っ黒な短髪の青年。そして――
「……矢っ張りね」
二人から少し離れた場所に、其の人は居た。トレードマークの露西亜帽は何処かへ消えて、乱れた黒髪に隠れて目元は見えない。乾いた唇はガサガサで、酸化した血液がこびり付いている。肩から掛かった毛皮のファーが付いた黒の外套はボロ雑巾のようになってしまって、中の紫色のラインのついた白い服だって擦り切れて汚れてしまっている。
ボンヤリと其の人を見下ろして、取り敢えず致命的な傷がない事に安堵する。膝を折って口元に耳を寄せれば、弱々しい呼吸音が聞こえた。生きている。フョードル・ドストエフスキーは生きているのだ。グッと唇を噛み締め、痛む体に再度鞭を打った。男の脇の下に腕を差し込んで勢いをつけて持ち上げる。節々に激痛が走るが気にしてもいられない。何時、男を追って軍警や特務課が来るとも限らない。少しでも早くこの場を去る必要があった。
矛盾している。そんな事は当の昔に自覚している。男を憎いと思う一方で悲しいとも、また愛しいとも感じている自分は立派な犯罪者の一員だ。
頬が緩む。柔らかな風が吹く。男は目を覚さない。女は、確りとした脚取りでヨコハマの街を後にした。屹度、もう二度と脚を踏み入れる事はない故郷に別れを告げるような足音を響かせ乍ら、家への帰路に着いた。