「1/f」 | ナノ


世界は無色


 空は何処までも青く、広く。宙に投げ出された体は、広大な青の中を重力に従い落ちていく。自由を、感じた。

 人間、死ぬ間際に走馬灯を見ると云うが其れは本当の事だったらしい。掴んだシグマの服の感覚も既に判らなくなり、閉じ切った目蓋の裏にはこれ迄の人生が代わる代わる流れていた。と云っても、其の記憶はフョードルさんに拾われてからの六年間で、ほぼ凡てが彼で構成されている。倒れ込む私の額を優しく撫でた冷たい指先や、抱き上げて呉れた腕の感覚。
 ああ、矢張り私は彼なしでは生きていけないのだろう。仮令、太宰の云うように記憶を消されていたのだとしても。

「ダイジョーブ! そんな事はない!」

 其の声を聞いた瞬間、全身に電撃が走った。閉じていた目蓋を開けば、もう体は地面に落ちていると気が付いた。否、正確には地面に寝かされていた。体には傷一つない。
 そしてもう一つ信じられない事は、これだ。地面に寝転んだまま目を見開く私を見下ろす奇抜な格好をした男は、慥かに死んだ筈。

「うそ……ゴー、ゴリ?」

 ニコライ・ゴーゴリは、私の問い掛けにニコリと微笑む。体に傷一つなく、八日前に別れた時と寸分違わぬ姿でゆっくりと腰を折った。
 ゴーゴリは仮面を取った。そして私を抱き起こすと其の儘背に腕を回す。ギュッと抱き締められているのに、私は現実だと思えずにいる。だってゴーゴリは死んだ。天人五衰、フョードルさんの立てた計画に従い、武装探偵社を罠に嵌める為、胴を切り落とし絶命した。もう独りになりたくない私を優しく突き放し、逝ってしまった筈なのだ。

「よかった。君がちゃんと目を覚まして呉れて」

 其れなのに私を抱き締める腕の強さも、温もりも、声も、凡て作り物でない本物だ。
 現状は全く理解出来ていない。何故私は生きているのか。共に天空カジノから落ちたシグマは如何したのか。抑々、ゴーゴリは何故生きて此処にいるのか。訊きたい事は山ほどある。けれど、何れも声にはならず、震える手で彼の外套を掴む事しか出来なかった。喉と目蓋が熱くなって、肩口に顔を埋めて情けなく震える声を押し殺す。
 ふと、一瞬冷静になった。フョードルさんの、夢でみた言葉が脳裏を過ぎる。

「名前、以前僕が君に云った言葉を覚えているかい?」
「え……?」
「矢張り覚えてないか。そうだよね。あの時君は彼に会えない寂しさで泣いていたから無理もない」

 何故その身をぼく以外に触れさせたのです。

 背筋に冷たいものが流れて思わず距離を取った。ゴーゴリは少しだけ驚いた表情をした後に、金色の瞳をゆっくりと細めた。心臓の音が響いているのではないかと不安になる程に震える指先を手袋に包まれた指先が捕えた。

「名前は判りやすいから云われなくても全部判る。君が知りたがってる事、全部僕が教えてあげる」

 そうだな、そう前置きをしてゴーゴリは語り出した。

「シグマは生きているよ。今は休んでるけど、多分もうすぐ此方に来るんじゃないかな。善かったね、名前。今度は独りぼっちにはならないよ」

 先程からそうだ。ゴーゴリは、いつも通りなのに何処か違和感を感じさせる話し方をする。一人称、口調、声色、表情。凡てが少しずつ歪で私の中の不安を掻き立てる。

「それじゃあ君が一番知りたい事。僕が何故こうして生きているか教えてあげる……ドス君をね、殺す為だよ」

 一つ瞬きをしたゴーゴリの金色の瞳が爛々と輝いていた。彼は世紀の大発見でもしたかのように嬉しそうで、弾んだ呼吸を整える事もなく続ける。

「僕は鳥が好きだ。真の自由、其れを僕は求める。親友を殺す事によって僕は真の自由を得られるんだ。名前、君も自由になりなよ。世界は君が思うような色をしていない。自由を手に入れれば其れが判る筈だ」

 呆然とした。悲しいのか怒っているのか、其れすら判別がつかない程の動揺。
 ゴーゴリは可笑しい。当たり前だ。彼は、優しいお兄さんなんかじゃない。殺人結社『天人五衰』の構成員、犯罪者なのだから。
 そして、其れはフョードルさんも変わらない。
 そんな当たり前の事を今更乍ら実感する。振り払ったゴーゴリの手は、宙に浮いたまま止まった。表情は無。フョードルさんと違ったのは、瞳に未だ暖かな色が残っている事だけである。けれど、其れがまた歪だ。

「狂ってる……」
「そうだよ。僕は狂人さ。でないと殺人なんて出来やしない。ドス君も、君も、僕も皆何処かが狂っているのさ」
「わ、私が?」
「云ったでしょ。君はドス君に埋め尽くされてる。可哀想にね、名前」

 伸ばされた腕が、もう一度私の背を捕らえる。然し、直ぐに解放された。代わりに頭蓋骨を覆うように頭を固定される。

「此処が檻。判るかい? 人間は皆、囚人なのさ。そして君の檻は、更に強固に出来ている」

 なんと云っても魔人のお手製だからね。そう付け加えてゴーゴリは私の頭を掴む指に僅かに力を込めた。
 微かな痛みに眉を顰める。すると彼は、其れを観察するかのように顔を近づけた。髪と同色の銀色の豊かな睫毛が音を立てるように揺れる。金色は私をしっかりと射抜いていた。

「君の檻は、僕では壊せない。否、誰にも屹度……だからね、決めたよ。名前、君の事は僕が殺してあげる」
「……え」
「ドス君を殺す前に、彼の目の前で君を殺す。事切れる最期の瞬間、世界と君を閉じ込めた彼の顔をよく見ておくんだよ。屹度、其の時本当の世界が判る筈だから」
「あ、ぁ……私」
「ん?」
「私、死にたくない」

 漏れた言葉は多分本音だ。フョードルさんに云わされた言葉なんかじゃない。私個人の生存本能。
 ゴーゴリは、私より何倍も頭が善い。だからそんな事判っている筈なのだ。それなのに彼は、気が付かない振りをする。悲しそうに微笑んで恐怖に硬直する私の額に、自身の額を合わせる。

「名前、僕は君の事が大好きだよ。親友とはまた違う。恋人とも違う。妹、とでも云うのかな。若し、君を見つけたのが僕だったなら……なんて、嫉妬深いドス君に殺されそうな事を考えた事もある」
「嫌だ……ゴーゴリ、考え直してよ。フョードルさんも殺してほしくないし、私死にたくない……」
「大丈夫、君は苦しまないように殺す。痛みもない。一瞬だ。お願いだから云う事を訊いてよ。君が、あの日ベッドで泣いていた時僕は決めたんだ」

 静かに囁いて頭を覆っていた手が離れる。立ち上がったゴーゴリの向こうから誰かが駆けて来るのが見えた。シグマだった。シグマは非道く焦った顔をして、ゴーゴリの横を素通りすると座り込んだ私の肩を抱く。其処で気が付いた。私は恐怖を感じ乍らも震えてはいなかった。

「そろそろ自覚しなよ、名前。悲劇のヒロインなんて柄じゃないだろう?」

 ゴーゴリの云う通りだ。私も、ゴーゴリも、フョードルさんも、皆、狂っている。

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