「1/f」 | ナノ


『時』の娘


 名前を拾った日の事は、今でもよく覚えているとドストエフスキーは語る。
悪夢のような八十八日間。後に云う龍頭抗争。其の終盤、彼は傷ついた少女を遠い露西亜の地へと連れ帰った。然し、其れは決して初対面ではなかったのだと。
 苗字名前。家族構成は両親と彼女の三人だけ。ヨコハマ市街地の森に囲まれた古い屋敷で静かに生活している。父親は製薬会社勤務。異能力はなし。母親は専業主婦。異能力なし。お菓子作りと庭の紫陽花が自慢だった。少女名前の異能力は『記憶の改竄』。但し制御出来ておらず、度々記憶が抜けている為扱いには注意されたし。

「其れが、ぼくが六年前とある組織に渡した苗字名前の情報です」

 其の時、ドストエフスキーは何の感情も抱かなかった。ただ依頼を受け、報酬と引き換えに組織の欲しがっていた情報を与えただけだ。
 苗字名前の異能力は上手く利用出来れば犯罪の隠匿に非道く役に立つ。膨大な金を巡り、血を血で洗う抗争に興じる山ほどの組織を隠れ蓑に少女を誘拐、懐柔した後利用する。其れが依頼主の計画であった。
 異能力者は罪人だ。異能力と云う罪のない世界を創る事がドストエフスキーの願望であり、果たすべき定めである。故に少女がどう生きようが、仮令両親と死別し、組織に利用され哀れな傀儡になり果て何処ぞでのたれ死んだとしても彼には関係ない。いずれこの世界から消えるべき命の一つと云うだけで其の工程に興味はない。なかった筈だった。

「苗字夫妻は、何処からか組織の情報を得たようでして」

 両親は、自身の異能も満足に扱えぬ可哀想な娘を護ろうと躍起になった。襲撃を受ける前、屋敷を飛び出す寸前名前に云って聞かせた事だろう。「いいね、名前。これから大声を出してはいけない。何があろうと全力で走りなさい」文字通り名前は善い子に走った。何に追われているのか、そして行き先も判らぬまま、母に腕を引かれ、父に背を護られて必死に不安と戦い乍ら夜の街を走った。

「彼らの目的地は港でした。予め船主と契約していたようで大方海路を用いてヨコハマを脱出する心算だったのでしょう」

 然し、此処で誤算が生じた。一介の会社員の拙い計画等、裏社会で生きる人間には容易く見抜ける。なお、この時ドストエフスキーは関与していない。ただ観察していただけだ。
 彼の情報に頼る事なく、逃亡経路を見抜いた組織は、港へ抜ける交差点で待機していた。大型のダンプカーを発進させる。一瞬の出来事だった。

「人は業深い。ぼくは苗字夫妻と組織の追いかけっこの行く末に少し興味が湧きました。まあ、凡て予想通りであまり面白くもありませんでしたけど……この時迄は」

 苗字夫妻の誤算は二つある。一つは、計画がバレていた事。そしてもう一つは、娘をただ哀れで非力な少女だと思い込んでいた事だ。
 ダンプカーと衝突する寸前、逃げられないと悟った母親は娘を抱き込んだ。どうせ助からぬのであれば愛娘を独りにはしたくない、共に逝こうと決断したのである。当然愛情深い父親はそんな妻子を庇った。一家諸共車に轢かれてお終い。なんとも呆気ないありきたりなシナリオだ。当然ドストエフスキーは興味をなくし、彼らから視線を背けた。然し、名前は違った。ドストエフスキーが視線を離す寸前。彼女は、咄嗟の判断で腕に絡みついた母親の指を引き剥がし、母の腕から逃げ出した。

「結果として名前は、両親を殺した。否、見殺しにしました。そしてあの子は、両親を見殺しにした事実を消す為に異能を用い、記憶を改竄したのです。皮肉なものです。今迄満足に操れなかった自身の異能を、この時だけは満足に扱えたのですから。母親は自分を突き飛ばし、生かした。父親は母親を庇い、亡くなった。自分は、両親を殺して等いない。異能も持っていないか弱い少女だと、そう記憶を作り独り生き残った名前を見た時のぼくの感情が貴方には理解出来ますか?」

 独り闇の中逃げて行く少女を見下ろした時ドストエフスキーは、慥かに高揚していた。滑稽な少女の姿に慥かにこの世の『罪と罰』を見た気がした。けれど、其の段階では残念乍ら其れは完成してはいない。母と父を見捨てた罪。ならば罰は。そう、罰を与えねばならない。

「だからぼくは名前を追う組織を始末し、偶然を装ってあの子を拾いました。凡てを忘れ、両親の死に関与した男の元で生きる罰を与えました。あの子との六年間は本当に愉しかったです」

 生きながら罪を忘れ、知らぬ間に罰を受け続ける。持ち得るもの凡てを愛情と云う名前で取り繕い、与え続けて六年。こうして『罪と罰』は完成した。

「……彼女は君の盗品の一つ。否、一番高価な盗品と云う訳か」
「ええ、そう捉えて頂いて構いません」
「屋敷はさながら宝石箱。君が与えた愛情とやらは防腐剤。そうか、やっと納得したよ」

 凡てを聴いた太宰は睥睨するように顎を上げた。冷たい視線でドストエフスキーを射抜くように見遣る。

「あの子は未だ六歳なのか」

 否定はなかった。対面の罪人は、穏やかに微笑んだまま太宰の言葉を待っている。けれど太宰は続けなかった。お互いもう凡てを把握しているのだから態々言葉にする必要もないのだ。
 骸砦で会った時、名前は非道く幼く見えた。ドストエフスキーに甘えしがみ付く姿は幼子さながらで、ドストエフスキーの態度もまた幼子を相手にしているかのようだった。其れもその筈。記憶を改竄した時、名前は一度真っ新な状態になった。そう、云わば〇歳児だ。体は成人間近だと云うのに、彼女のドストエフスキーに対する感情は六歳児の両親に対する甘え、そして淡い恋慕の感情に近い。
 だが一つ、疑問が残る。

「一つ君に訊きたい。如何やって彼女の異能を操作している」
「太宰君、『1/fの揺らぎ』と云うものをご存知ですか」
「人の心拍、電車の揺れ、小川のせせらぎ。聴くと人にリラクゼーション作用と与える音の事だろう」
「其の通りです」

 流石ですね、と笑いドストエフスキーは自身の喉へほっそりとした指先を当てた。

「幼少より名前は異能を制御出来ません。両親は、娘の異能を制御する為とある方法を用いていました。第三者に異能の権限を預ける方法です」
「其れが……」
「声です。名前にとっての『1/fの揺らぎ』を作る事によって異能は制御されていた。如何やら彼女は両親の声の導くまま異能を使用していたようで……けれど残念な事に両親はもう居ない。となれば、無意識の内に異能を暴走させないよう誰か制御する人間が必要となります」

 太宰はこれ迄の名前の様子や得た情報を思い浮かべる。以前からから仮説は立てていた。あとはドストエフスキーに確認するのみだ。

「「おやすみ」と「おやすみなさい」、か」
「気が付いていましたか。そうです。現在の名前は、ぼくの声に反応して異能を使用します」
「私の記憶を消したのも矢張り君の仕業だった訳だ。非道い事をするじゃないか」
「ふふ。貴方と会わせる心算はなかったのに勝手に接近するからですよ。必要ないものは消去します。其れが持ち主の権限です」
「所有者か……彼女の事を愛していると謳い乍ら随分な言い草だね」

 其の言葉に、喉に当てていた指を滑らせて心臓の上に当てる。そうしてドストエフスキーはもう一度微笑んだ。愛情深く、まるで目の前に其の感情を与えるべき少女が居るかのように振舞って、彼は当然のように言い放つ。

「ぼくはね、名前が望むなら何でもしてあげる心算でいます。母や父になれと云うのならそのように大切にします。兄であれと云うのならそのように振舞います。恋人になりたいと云えば男として彼女を愛しましょう。家族が欲しいと云うのなら其の為の行為も厭いません」
「……君の其れは狂っている」
「この罪に塗れ穢れ切った世界に正常な愛が存在するとでも?」

 ドストエフスキーが名前に注ぐ愛情は歪で世間一般からすれば『愛情』と呼べない品物だ。けれど彼は其れを理解し乍ら、彼にとっての『愛情』を与える事を厭わない。屹度名前が彼の後ろを追い続ける限り、求める限り、包んだ腕を離す事はしないだろう。
 視線を外し溜息を吐いた太宰に倣い視線を逸らしたドストエフスキーは、頬杖をついて自身の黒髪を指先に絡みつけた。此処に来て随分と時が経った。却説、あの子は今頃何をして居るのだろう。想像して独りほくそ笑む。

「あの子、今頃泣いていないといいのですけど。心配です」

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