「1/f」 | ナノ


命の棄て処


 とりあえず私は、自分が置かれた状況を一度整理するべきだ。
 目出度く友達と云う関係になったシグマが仕事で退室して十分。ベッドに転がったまま、ボンヤリと思考を巡らせる。泣いて、叫んで、吐き出して、スッキリしたような、僅かに気持ち悪さの残る体は、たった其れだけで不調を訴えた。若しかしたら熱が出るのかもしれない。露西亜でもあった風邪をひく前の体調の悪さに似ている。
 片手で目に蓋をして光を遮断する。フョードルさんは居ない。ゴーゴリも居ない。今、私を保護して呉れているのはシグマで、此処は彼が管理する天空カジノ。私に出来る事は善い子で待っている事だけだ。

「……武装探偵社か」

 現在武装探偵社は、国家転覆を企てる天人五衰の正体として軍警に追われている。中島敦は勿論、あの太宰も無事では済まないだろう。これもフョードルさんの立てた計画の一部なのだ。行きつく先は、私では想像もつかない。
 考えている内に眩暈を覚えた。一度眠る心算で目蓋を閉じる。然し、眠りに落ちる寸前一気に目が覚めた。部屋、否この天空カジノ其の物が轟音と共に揺れていた。宙に浮かぶ建物で地震はない。では、原因は何か。脳裏を過ぎった予感に冷や汗が流れる。覚束ない脚で床に立った。関係のない人間が入らないよう部屋の扉は鍵が掛かっているけれど内側から開ける事も可能だ。天空カジノに来て八日。初めて自らの手で扉を開けた。

 プライベートフロアを抜け、賭博場へ入る。フロアには数人のスタッフが居るのみで客の姿は何処にもない。そして、シグマの姿もない。不安は募るばかりで、世話しなく視線を彷徨わせる。するとまた轟音が響いた。建物が大きく揺れる。大きな窓硝子の向こう側、カジノの後方で煙が上がるのが見えた。矢張りそうだ。此処はもう華やかなカジノではない。戦場と化しているのだ。
 気が付くと背後にスタッフバッジを付けた男性が立っていた。表情に焦りや不安は何処にもない。

「お客様、宿泊部屋へお戻り下さい」
「……あ、あの」
「配電不良の事故が起こっているのです。大丈夫、明日には復旧致します」
「シグマ、あ、支配人に会いたいんですけど」
「申し訳ありません。支配人は事故処理に当たっております。後程ご挨拶に参りますので。さあ、此方へ」

 男性が私の肩に手を添える。口調や表情は穏やかなのに有無を云わせぬ力だ。男性に導かれるまま賭博場を抜け、エレベーターに乗り込む。然し、エレベーターは宿泊部屋のあるフロアで停まらなかった。最上階で停止した箱から、また男性に導かれて降りる。カツンとローヒールが音を鳴らし、一気に体が硬直した。これは、罠だ。屹度これから嫌な事が起こる。

「却説……」

 男性が振り返る。無表情に、何の感情も宿していない瞳が私を見下ろしていた。

「だ、誰ですか……なんの目的があって、こんな所に」
「愛し君の復活の為、共に来て貰います」
「え、な、なに」

 薄い水色掛かった灰色の髪と薄い色の瞳をした男性の顔をマジマジと見て、私は漸く気が付いた。私は、彼に一度会った事がある。フョードルさんについて、別組織の取引に参加した時、この人は其の場に居た。組合の首領フィッツジェラルドの傍に立っていた牧師――異能力者ナサニエル・ホーソーンだ。
 以前と様子の違う彼に戸惑っている間に白い大きな手が目前迄迫っていた。脚が竦み、逃げ出す事も出来ない私の首に両手が回る。冷たい手に力が籠り、気道を圧迫する。息苦しくて、其れなのに地上から持ち上げられている所為で藻掻く事も儘ならない。苦しくて、苦しくて、あっという間に意識は途絶えた。




「ねえ、名前。貴女は自ら命を投げ出すような真似はしてはいけませんよ。貴女は生きてこそ価値のある人間なのですから。ぼくの為にも、自分を大切になさい」

 また夢だ。フョードルさんが目の前の椅子に座って穏やかに微笑んでいる。琥珀色の紅茶とジャム、数枚のクッキー。程よい音量で流れるクラシック音楽。何もかもが心地よくて、フョードルさんの声に聞き入ってしまう。思えば、私は彼の声が大好きだった。静かで、穏やかで、綺麗な音。私の耳によく馴染み、気持ちを安定させて呉れる。そう云えば、以前似たような話を聞いた。其の音を聴くと安心すると云う。

「ぼくの大切な名前。約束して呉れますね」

 あれは、何と云うのだっただろう。

 目覚めは最悪の一言だった。手足はプラプラと宙に浮いていて、喉は痛くて、頭がずっと揺れている感覚がしている。あ、熱があるんだな。妙に冷静な部分がそう解釈をして、億劫な体をゆっくりと動かした。と云っても動くのは首だけで、胴は抱えられているから自由に身動きが取れる訳ではない。
 矢張りと云うべきか、私を抱えているのはナサニエル・ホーソーンだった。どのような原理か、宙に浮いた彼は無表情に何かを見下ろしている。釣られて私も視線を下へ向けた。そして意識が覚醒する。

「ぁ……あ、ああ……」

 天空カジノ外壁に人が二人。パイプに掴まって誰かを引き上げようと力を振り絞っているのは中島敦だ。そして、中島敦に腕を掴まれ、今にも落ちそうになっているのはシグマだ。グランと頭が大きく揺れて、大きく開いた口から喃語のような声だけが漏れる。

「罪を償え」

 ホーソーンが人差し指を二人の方へ向けた。彼の指に滲む血液がアルファベットの形へ変化し、放たれる。中島敦の額から血が噴き出した。
 咄嗟の事だったと思う。一瞬世界から音が消えた感覚がして、私の体は宙に投げ出された。ホーソーンが少し驚いた顔をしている。風を切る耳が痛い。落下する重力に従う四肢が痛い。視線の先にシグマが見えた。焦り、今にも死にそうな顔をして、同じように落下する私を見上げている。
 だって仕方がなかったんだ。私は、もう置いて行かれたくなかったんだ。あのままシグマが一人落下するのを見送ったら今度は私、何処へ行くのだろう。ホーソーンの元? 否、其れとも別の天人五衰の構成員の処? もう嫌だ。仮令フョードルさんとの約束を破る事になったって、私はもう独りになりたくない。

「――!!」

 空気の抵抗で声は出なくて、開いた口がカラカラに乾くのが判った。伸ばした指先にシグマの手が触れる。しがみ付いて目を閉じる。背中に腕が回ったのが感覚的に判った。ああ、またフョードルさんに怒られてしまう。こんな状況下で考える事案でもないのに、そんな事を不安に思う自分に思わず苦笑した。地上は未だ先。私の命も屹度、其処で途絶える。

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