「1/f」 | ナノ


ひと匙の悪意


「名前ちゃん、本当に『善い子』だね」

 窓などない密閉された真っ白な空間。天から吊るされた匣の中、正面に見据えた蓬髪の日本人がニコリと朗らかに微笑むのが見えた。
 ドストエフスキーは、開いていた本に栞を挟める事もなく閉じると同じように微笑んでゆっくりと青白い唇を開いた。

「そうでしょう? 六年間大切に育てて来ましたから」

 この会話は看守が聴いている。故に二人にしか判らない、即興で作り上げた言語を用いて会話を続ける。
 太宰治が此処、欧州の監獄ムルソーへ投獄されたのは数日前の事だ。悩み相談会にも飽き、チェスにも飽きた二人は、各々暇潰しに興じていたのだが、如何やら太宰はまた会話の種を見つけたらしい。ドストエフスキーは余興が好きだ。太宰とのこの会話もその一つに過ぎないが、余興は多い方が楽しい。だから彼は、似た者同士の相手と同じ顔をして談笑に興じるのだ。
 脚を組んで朗らかに微笑んでいた太宰の目が色を変える。若干の嫌悪と鋭さを持った双眼で見据えられ、ドストエフスキーは笑みを深めた。

「是非ともあんな『善い子』に育てる方法をご教示願いたいね」
「ふふ、簡単ですよ。深い愛情を持って接すれば自然と『善い子』に育ちます。まあ、名前程の子はそう居ないでしょうけど」
「非道いなぁ。抑々素質の問題だと云うのなら今の話は何の為にもならないじゃないか」
「其れもそうですね。申し訳ありません」

 世界にたった二人となった異星人は、互いの考えが手に取るように判っていた。己と同等の頭脳を持つ話し相手は、とても貴重で、其れでいて腹立たしい。次に太宰が拾い上げる話の種が判っているからこそ、ドストエフスキーも目の色を変えた。睥睨するように細めて、唇から笑みも消す。

「名前ちゃんと話をして思ったよ。六年前、あの悪夢の日。あの日、彼女を拾い上げたのが君でなく他の誰かであったなら彼女は如何育っただろうとね」
「詮無き話ですね」
「ああ、そうだ。幾ら此処で空想したって結果は変わらない。けれど私も君もこんなに暇を持て余しているんだ。もう少し余興に付き合って呉れてもいいだろう?」

 太宰は、昔を懐かしむような表情をして続けた。名前が若し他の誰かに拾われていたならば。そんな詮無い話を楽しそうに、ドストエフスキーに語り聴かせた。
 先ず、名前はもっと悪い子に育っただろう。今以上に喜怒哀楽がハッキリとしていて、けれど年相応のお姉さんらしさも持ち合わせた善い子に育ったに違いない。仮令途中どんなに悲しい出来事があったとしても、其処から独りで立ち上がれるだけの強さを培った筈だ。太宰の其れは、まるで誰かが実際に存在したかのような口振りである。ドストエフスキーは太宰の言葉を止めはしなかった。礼儀正しく最後迄話を聴き終えて、其れから漸く問い掛ける。

「其れが名前にとって最良の幸せであったとでも?」

 其の問い掛けは、凪いだ海の如くとても静かだったけれど、若干の苛立ちも含まれていた。ドストエフスキーの変化は僅かなものだ。似た者同士である太宰以外では早々気が付けまい。パチパチと瞬きを繰り返して「へぇー」と太宰は組んだ膝の上で頬杖をつく。

「今の話がそんなに不快だったのかい。君、本当にあの子の事が大切なのだね」
「当たり前でしょう。六年間、大切に愛情を注いで今のあの子を育て上げたのです。其れを暗に否定されれば流石のぼくも傷付きますよ」
「そうか……ふぅん……よし、じゃあこの話は辞めだ。此処からは質問企画といこう」
「善いですよ。では、ぼくから。ぼくに置いて行かれた時のあの子の様子は如何でしたか?」
「鼻血噴いてぶっ倒れた」
「おやおや。其れは見てみたかったですねぇ」
「まあ中々愉快だったよ。では次は私だ。未だ正直者も勇者も現れないと思っているのか?」

 この会話は以前にも交わした記憶がある。擂鉢街の骸砦。今は倒壊し見る影もない高層建築物の中、太宰は同じ問いをドストエフスキーに投げた。

「愚問ですね」

 そして今回も返答は変わらない。即答してみせれば太宰は少し不満そうに唇の端を歪める。

「君の其の自信が忌々しいよ。今この瞬間も名前ちゃんの傍には正直者や勇者がいるかもしれないってのに」
「却説、次はぼくの番ですよ。太宰君……貴方、名前に何を話したのです?」

 歪んでいた唇がにんまりと弧を描いた。忌々しいのは何方だ。ドストエフスキーは小さく眉を顰める。

「別にー。真実を一摘み、彼女に与えただけさ」

 態とらしく虚空を掴む仕草をし乍らの返答は、至極簡単なものだったけれど、ドストエフスキーには充分だった。

「伝えたのは、あの子の異能力ですね」
「其の通り! 『記憶の消去』とはなんとも犯罪向きの能力だ。君が如何やって彼女の異能を操っているのかは知らないが、何だい。君、彼女の異能力を利用したかったのかい?」
「利用? 真逆」

 太宰が伝えた一摘みの真実に名前がどのような反応をしたのかは容易く想像が付く。ぼろぼろと涙を流して狼狽る姿を思い浮かべると、何も包んでいない両腕が一気に寂しく見えた。可哀想に。そしてそんな彼女を愛おしく思う。
 感じていた苛立ちは、いつの間にか消えていた。ドストエフスキーの顔に浮かぶのは嘲笑にも似た微笑みだけで、彼は穏やかな語り口で一摘みの真実とやらを投げ掛けた。

「ぼくはあの子を利用しよう等とは一切考えてはいません。六年前、あの子を拾った其の時からぼくの中にあるのは、名前への愛情。ただ其れだけです」

 ぐにゃぐにゃに歪みきった愛情は、慥かに名前を此処まで育て上げた。太宰も勿論其れは理解している。だからこそ腑に落ちないのだ。あの魔人が態々人助けのように身寄りのない十四の少女を拾い育てたりするのだろうか。
 にこりと微笑んだドストエフスキーが太宰に返事を促す。お互いの心情が手に取るように判る二人は、言葉を選び乍らも直球をぶつけ合う。

「苗字名前の事は調べた。彼女はヨコハマ市街地の屋敷で両親と三人暮らしをしていた。何不自由なく大切に育てられていたそうだ。そんな幸福な家庭環境にただ一つ不可解な点があった。彼女の異能力についてだ」
「どうぞ。続けて」
「彼女は異能力を自分で制御する事が出来なかった。記憶は何時だって断片的で、其れを憂いた過保護な両親は普通の娘として育て乍らも親戚にも会わせず家の中に閉じ込め続けた。そして彼女が十四歳の時、不慮の事故に合い亡くなった」
「そしてぼくが拾った。懐かしいですね。あの子、露西亜へ連れ帰ってから暫くは臥せってばかりで大変だったのですよ」

 ドストエフスキーは、一頻り楽しそうに笑うと水が止まったようにすっと笑みを消した。紫色の瞳は深く淀み、対面の箱を通して遠い異国の地を見ている。其の中間地点に座する太宰は、真っ直ぐにドストエフスキーを見据えた。

「私の調べ上げた内容は間違っている……そうだろう?」
「ええ。決定的な事実を」

 ドストエフスキーは青白い唇をゆっくりと動かす。勿体ぶるように、味わうように、耳を澄ませる太宰へ届く程の声量で告げた。

「名前の異能力は『記憶の消去』ではありません。彼女の本当の異能力は『記憶の改竄』。あの子は実の両親を自らの手で殺め、其の記憶を自ら改竄した罪の子なのです」

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