「1/f」 | ナノ


『善い子』の定義


 天空カジノへ身を寄せて早八日。毎日同じ事を繰り返している内に用意して貰ったゲームや本、映画にも飽きてしまった。
 フョードルさんは、本や映画、音楽は与えて呉れたけれどゲームと携帯端末だけは絶対に購っては呉れなかった。駄々を捏ねる私に「いけません。だって貴女、時間を忘れて耽るでしょう」と呆れた様子で却下した彼の予想は見事大当たり。シグマが用意して呉れたゲームは何れも面白くて、ついつい時間を忘れてしまった。そして現在、凡てクリアし終えた私は、退屈を持て余している。
 厳しく行動を制限されている訳ではないのだし、賭博場まで脚を運んでみてもいいのだが、如何にもあの華やかな音は苦手で脚が竦んでしまう。然も老若男女問わず様々な国籍の人々が金銭を求めて集まっているのだから、大した智略を持たぬ私はあっという間にカモにされてしまうだろう。シグマも、其れを判っているから退屈凌ぎにゲームを用意して呉れたに決まっているのだ。

 大きなベッドに仰向けに寝転がり染み一つない天井を見上げる。付けっ放しのテレビは、毎日同じような情報を伝え続け、私が見たいものは何一つ報じて呉れやしない。ゴーゴリは死んだ。シグマは、私に伝えようか悩んでいるようだが、私だってそのくらいは理解している。天人五衰の計画の為、武装探偵社を罠に嵌めたのも他ならぬ彼だろう。命と引き換えに、事の引き金を引いたゴーゴリは、もうこの世には居ないのだ。
 寂しいと感じる。フョードルさんは私を置いて遠い所へ行ってしまって、ゴーゴリも私を残して逝ってしまった。ゴンさんも今は特務課に捕らえられていると聞くし、元々忠誠心等欠片も持っていないプシュキンは言わずもがな。

「何か欲しい物はないか?」

 唯一、私の傍に居て呉れるシグマは毎日同じ事を訊く。テレビの前で正座して居ない私を捜した彼は、少々疲れているように見えた。無理もない。天空カジノを取仕切る支配人の業務は多忙だ。
 シグマは特一級の危険異能者揃いである天人五衰において一番普通の人間に近い感性を持っている。初めて会った時の怯えた様子は、ただの無力な奴隷と変わりなく、非道く弱々しく見えたものだ。現在、天空カジノの支配人の立場に居る彼は、類稀なる努力家だ。客の一人一人の情報を暗記して、この広大な賭博場を切り盛りしているのだから頭が下がる。善い人だ、シグマは。だからこそ、友人になりたいと思う。

「友達がほしい」
「へ?」
「友達。シグマ、友達になってよ」

 ベッドに寝転んだまま見上げたシグマは、大きな瞳を更に大きくさせて驚いていた。白い肌が彼の髪の毛以上に真っ赤に染まり、慌てふためいた様子で数歩後ろへ退がる。遠くなった彼に体を起こしてベッドの縁まで近寄った。
 以前、日本の屋敷でフョードルさんと話して決めていた。今度会ったらシグマに友達になってほしいと云おうと。口にする迄に八日間も費やしたが、果たして返答は何方だろう。今此処に縋る相手も居ない私は、内心ドキドキとし乍らシグマの返事を待つ。

「わ、私とか?」

 視線を右往左往と揺らしてシグマが震える声で呟く。今此処には私と彼しか居ないのに、他に誰と友達になると云うのだ。一つ頷けば、更に一歩後退りされてしまう。

「シグマ?」
「りゅ、だ」
「え?」
「保留だ!」

 保留。其の言葉に私の思考が一時停止した。真逆そんな返答が来るとは思わなかったのだ。シグマは、面喰らう私を置いて部屋を出て行ってしまった。何時もより雑に閉められた扉が大きな音を立てている。反響する音を聞き乍ら私はベッドに突っ伏した。勇気を出したのに、こんなのあんまりだ。

「フョードルさ〜ん……」

 勿論返事等ありはしないし、ゴーゴリの軽快な笑い声だって聞こえない。テレビの記者の声だけが響く室内に、私の情けない声だけが響き渡っていた。

 此処で一つ、新たな情報がある。ゴーゴリと離れ、天空カジノに身を置いてから私はまたフョードルさんの夢を見るようになった。これはシグマにも云えていない。私だけが知っている事だ。
 これは明晰夢と呼ばれるものだと思う。場所は、露西亜の屋敷だったり、日本の屋敷だったり、以前連れて行って貰った海外の街だったりと様々だ。それでも決まって私はフョードルさんと一緒にいる。彼に手を引かれて、抱きついて、抱き締められて、以前のように幸福な時を過ごすのだ。けれど私は其れを夢だと理解している。終わりが来るのを判っていて、だから特に離れがたくなる。もう首を絞められたりなんてしない。ただ、ただ幸せな夢の中にずっと居たくなる。
 それなのに、今回は、違った。

「名前、何故その身をぼく以外に触れさせたのです」

 露西亜の屋敷。私の部屋のベッドの上。脚を投げ出し抱きつく私の背に回されたフョードルさんの腕がキツく締まる。「痛い」思わず声が出るけれど腕の力が弱まる事はない。其れどころかガタガタとした爪が、私の晒した肩に喰い込んでくる。痛い、痛い、痛い。身動ぎして逃げを打つ私の体を、彼の大きな体が押し潰すように押さえ込む。

「ぃ、ぁ、ぁ」

 恐怖した通り、プツン、と皮膚が裂ける感覚がした。鋭い痛みが肩から広がり、開いた口からは言葉にすらならない呻き声が溢れる。それなのにフョードルさんは辞めて呉れない。爪を喰い込ませたまま、私の肩に顔を埋めて何も云って呉れない。
 何故その身を触れさせたのか。これは明晰夢だ。何を指しているのかは判る。けれど何故か判らない。たった其れだけの事で、此処まで怒られる理由が私には理解が出来ない。

「ゴー、ゴリは……私、を宥めようと……っ、しただけで……」
「だから?」
「っあ"」

 爪の代わりに今度は湿り気のある熱いものが傷口を抉った。多分、舌だ。物語の吸血鬼のように私の血を舐め取る舌先は、どれだけもがこうと離れる事はない。すると今度は歯を立てられた。あまりの痛みに目を見開く。今迄で一番大きな悲鳴を上げた私の目からは涙がポロポロと溢れ落ちた。

「なんで……っなんで……! 私そんなに悪い事したの!?」

 どれだけ暴れても私の体を抱き込んだ腕が離れる事はなかった。思えばこんな風にフョードルさんに抵抗するのは初めての事だ。否、抑々こんな怒られ方をされたのだって初めてだから、私がこんな風になるのも仕方がないのではないか、なんて。あれ、こんなのを責任転嫁って云うんだっけ。
 ふと、そんな事を考えた途端だった。あれだけ締め付けて離さなかった両腕が静かに離れた。重力に従って体が傾いてフョードルさんの顔が遠くなる。何の感情も宿していない紫色の瞳が、驚愕する私の顔を見下ろしている。今迄貰った中で一番冷たい眼差しだ。もうお前などいらないと、そう云われているようだった。





 何時ものように部屋の扉を開けて、広がった光景にシグマは我が目を疑った。
 部屋は非道い有様だった。ベッドに重なっていた枕やクッションは散乱し、名前が投げたのか、読みかけと思われる本もシグマの足元に転がっている。ベッドの上には大きな膨みが一つあった。毛布をすっぽり被り、小さく震えている。正直な所シグマは動揺していた。名前がこの天空カジノに身を置いて八日。こんな風に荒れた様子を見せたのは、今日が初めてだったのだ。

「名前?」

 シグマは、支配人として荒れた客の対応には慣れている。然し、荒れた知人の対応はこれが初めてである。故にどう扱っていいものか判らずにいた。
 本を拾い上げ、道すがら落ちていた枕も拾う。恐る恐る、緊張し乍らベッドへ歩み寄った。膨みが自分を呼ぶ声に反応してピクリと揺れる。よかった、如何にか話は出来そうだ。

「如何したんだ? ドストエフスキーも心配するぞ」

 然し、安堵したのも束の間、膨みが一瞬大きく震えた。毛布の隙間から覗いた顔に思わず「ヒッ」と短く悲鳴を上げて息を呑む。泣き腫れた目が据わりきっている。

「……った……せに」
「な、なに?」
「置いて行ったんだもの! 心配なんてして呉れないよ!!」

 まるで子供の癇癪である。両目からボロボロと大粒の涙を流し乍ら叫ぶ言葉は、最早意味を成してすらいない。
 如何やらドストエフスキーの名前を挙げたのがいけなかったらしい、とシグマが気付いたのは、叫び疲れた彼女が背を丸めさめざめと泣き出した頃だった。顔面を覆った指の隙間から伝う滴がベッドシーツに染みを作っている。後でシーツを変えなければな……なんて考えて、否これは現実逃避だ、と自身を叱咤する。一先ず、手に持ったままでいた枕や本をベッドの脇に置き、もう一度彼女の名前を呼んだ。

「名前、私はゴーゴリや、その……今君が泣いている原因の彼ではないから説明して貰わないと判らない」
「……っ、う、う」
「な、何故そんなに泣いているんだ? 置いて行かれたって、昨日迄はあんなに落ち着いていたじゃないか」

 名前は顔を上げる事はしなかった。吃逆を上げて唇を震わせているから何か伝えようとして呉れているのだろう。返答を根気よく待つ。彼女の扱いを心得ているドストエフスキーやゴーゴリならそうするからだ。
 正直な話、シグマは大変緊張していた。何度も云うようだが荒れた知人の扱い方など『本』から生まれて三年のシグマは知らない。名前の返答次第では、困り果て、逃げ出したくなる未来が見えていた。ただジッと待つ。半ば祈るような気持ちである。

「寂しいからに決まってるじゃない」

 だから、其の返答を聞いた時は安堵した。予想通りの回答であったからだ。

「フョードルさんも、ゴーゴリも、何にも教えて呉れない。其れなのに善い子で待ってなさいって、私そんなに善い子じゃないのに」

 予々同意である。名前は決して世間一般で云う善い子ではない。我が儘で寂しがりで気分屋。見た目の年齢と裏腹に幼児のような中身。チグハグで、とても扱いが難しい困った子供だ。
 シグマは自他共に認める凡人である。異能力は持っていても利用されるばかりで自分の為に使った試しはなく、また同時に自分の為の有効な使い道すら思いつかない。支配人として此処に立っていられるのも決して生まれ乍らの才能等ではなく、正に死に物狂いで知識を習得した結果である。だから超人であるドストエフスキーの思考は何時まで経っても理解出来ないし、これからも其れは変わらないだろう。彼が何故名前を善い子だと可愛がるのかも、屹度一生掛かっても判らないままだ。

「でも要らないって、云われるのが怖いの。このままもっと善い子じゃなくなったら、先刻見た夢みたいに私何時か捨てられちゃうのかもしれない」

 けれど、名前本人の心の叫びは理解出来る気がした。震える声で呟いた彼女の肩に、怯える指先で触れてそっと撫でてみる。拒否はされなかった。だから意を決してシグマは彼女に身を寄せた。温もりを分け与えるように、抱擁でなく肩をくっ付け合う。ビクリと細い肩が震えた。然し、矢張り拒否はしない。名前は、鼻を啜って目尻の涙を指先で拭っている。

「私は……彼のような頭脳等持っていないし、ゴーゴリのように親友だと自負出来る程の親交もないから正確な事は云えないが」
「……」
「慥かに名前は、善い子ではないのかもしれない……けれど、ドストエフスキーにとっては『善い子』なのだと、思う……」
「……そうなの?」
「多分……だから、君が彼を求める限り捨てられる事はないと思うよ。夢は夢だ。現実ではないのだから、其れだけは安心していいと思う」

 次第に嗚咽を漏らし、子供のような泣き声が真横から響き始めた。寂しい。フョードルさん。会いたい。其の叫びは切実で、聴いている此方をも切なくさせる。シグマは彼女の震える肩を撫で乍らジッと耳を傾け続けた。泣き止む迄時間は掛かるだろう。支配人業務は多忙だが、もう暫くは此の儘傍に居てやろうとそう決めていた。だが、ポケットの端末が振動するとそうも云ってはいられない。支配人である自分に連絡を入れなければからないような事案が賭博場で起こったのだ。

「仕事でしょう? ごめん、迷惑かけて。もう大丈夫だよ、ありがとう」
「ああ……また後で来るから」

 手を離し、後ろ髪を引かれる思いで扉へ向かう。取手に指を掛けて、もう一度振り返った。

「シグマ?」

 名前は、泣き腫れて真っ赤になった目を瞬かせて不思議そうに首を傾げる。対してシグマは緊張していた。先程名前を如何宥めようか悩んでいた時とはまた違う種類の緊張に生唾を呑む。

「先刻の、保留にした件だが……わ、私でよければ友人に、なろう」

 思っていた以上に声が上擦ってしまったものだから、恥ずかしくて名前の返答を訊く事は出来なかった。逃げるように部屋を飛び出し、早足にプライベートスペースを抜ける。人生初となる、同僚でもないただの友人が出来たシグマの頬は赤く、唇の端は意志と反して緩んでいた。

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